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シドモアが見た中央区(1)鰻は時代と国境を超える

[Hanes] 2019年2月 9日 18:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
あっという間に2019年の最初の月、そして節分が過ぎ、立春となりました。
北陸地方では随分と早い春一番が吹き、中央区にも春の足音が聞こえ始めてきたのではないでしょうか

時代を経るにつれ、先日先輩特派員ジミニ―☆クリケットさんがご紹介していた二十四節気を意識する方は減ってきているのではないかと思いますが、
立春の前の約18日間のことも、「土用」と呼ぶことをご存知でしたでしょうか?
「鰻を食べる土用の丑の日は夏だから、夏のことじゃないの?」と思いがちですが、
実は立春、立夏、立秋、立冬の前、つまり年に4度巡ってくる季節の変わり目ともいえる期間のことを指します
それらの期間には皆さんご存知の通り丑の日があり、鰻、うどん、梅干しのように、
「う」のつくものを食べて栄養を摂り、体調に気をつける風習がありますよね。

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それでもやはり夏のイメージが強い土用、丑の日、「う」のつく食べ物ですが、
今ちょうどインフルエンザが流行しているということで、
体調を崩されている方に少しでも元気になっていただければという意味も込めて、
今回は現代日本人とは異なる視点から見たをテーマにしたいと思います

時は 1885年...銀座に日本初の電気灯が点灯して3年後のこと...
後にワシントンの桜並木を実現した人として知られるアメリカ人女性、エリザ・R・シドモアが日本の土を踏みました。
(名前をクリックすると、ナショナルジオグラフィックのサイトに移動します。)
中央区を訪れた際の見聞を含む『シドモア日本紀行』には鰻料理に関する記述(pp. 129-130)があり、こう書かれています

「見栄っ張りには向かない肩の凝らぬ午餐会といえば鰻料理のパーティーです。日本のホストは、仲間の午餐会同様、外国の友達も楽しませてくれます。エドウィン・アーノルド卿〔英国の詩人〕も、料亭"ゴールデン・コイ"での鰻重のおいしさを褒め称えています。このようなおいしい鰻料理は、ほかの茶屋でも楽しませてくれます。料理屋に入ると、客は全員水槽へ案内され、綺麗な水の中で鰻がのたくるのを確認し、真剣に好みの獲物を指示します。まるで籤引きのように不確定にも見えますが、長い包丁を手にたずさえて見守る板前は客の選定を素早く了解し、のたうつ生け贄をぐっとつかまえ、台所にある首切り台[俎板]へと、かどわかします。」

ここからは、鰻は100年程前もごちそうでしたが、今よりもカジュアルな料理だった様子が見て取れます
そもそもうな丼の前身である「うなぎめし」は、文化期(1804~1818年)頃に中村座の金主大久保今助の工夫により生まれ、
葺屋町大野屋が売り出すと、瞬く間に江戸の人気料理になったと言われています

「鰻料理の午餐会は鰻スープ[肝吸い]から始まり、黒鰻白鰻が交互に出され、要望に従いいくらでも新しく注文ができます。鰻は平らに裂かれ短い断片に切られて、炭火で焼かれます。黒鰻と呼ばれる代物は本来こげちゃ色ですが、焼かれる前に醤油に浸すので、そういう色具合になり、白鰻の方は醤油なしで焼かれたものです。雪のような御飯と食べる鰻丼は、人前に供される最高においしい食べ物です。大勢の外国人、とりわけ真価を認めるかの英国詩人は、この卓越した美味に賛辞を惜しみません。河岸にある茶屋[京橋(中央)区霊岸島の大黒屋]では、鰻料理コースを待つ間、手品師や舞妓による楽しい演出で日本の歓待を最高に盛り上げます。」

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ここからは、当時から肝吸いが提供されていたことや、鰻は海外の方にも人気の料理だったことが分かります。
また、先輩特派員CAMさんが以前ご紹介した霊岸島大黒屋にも言及されています。
(霊岸島は俗称「蒟蒻島」と言うそうです。美味しそうな響きですが、由来が気になる方はCAMさんの記事をご覧ください
残念ながら、この鰻屋さんは今は残っていませんが、当時は海外の方へのおもてなしも素晴らしかったようですね

19世紀初めには土用の丑の日に鰻を食べる習慣が広まったとされていますが、
鰻は日本人のみならず、海外の方も美味しいと思えるものだったようです。
そして時代を経た今、21世紀を生きる私たちにとって、鰻はちょっと贅沢な食べ物として愛されています。
よってタイトルにある通り、「鰻は時代と国境を超える」と言えるのではないでしょうか

中央区内には五代目 野田岩さんのように、江戸時代から続く老舗の鰻屋があります。
夏の土用にはまだまだ早いですが、今のうちからこだわりの鰻屋さんを探してみるのもありではないでしょうか

【参考文献】
エリザ R. シドモア(著)/外崎克久(訳)『シドモア日本紀行』(講談社、2002年).

【類似記事】
「中央区×スペイン」(2)~ロドリゴの見た日本橋~

 

 

いにしえの大河の流れ

[wienerhorn] 2019年2月 7日 12:00

IMG_7083.jpg現在の隅田川は、一級河川荒川の下流であり、赤羽付近の岩渕にて荒川放水路と分かれて東京湾に注いでいます。
しかし、江戸時代以前の川の流れは、今とは全く違っていました。現在銚子で太平洋に注ぐ利根川は、昔は東京湾へと流れる川でした。その頃の利根川の流れの一部が、現在足立区と葛飾区の区境に残っている「古隅田川」の水面です。
徳川家康が1590年に江戸に入府して以降、大規模な川の付け替え工事が行われました。利根川の東遷、荒川と利根川の分離、綾瀬川の直線水路の開削などにより、「古隅田川」はメインの流路ではなくなりました。
 
中央区内に多く張り巡らされていた水路の多くは震災復興、戦災復興、東京五輪などで埋め立てられましたが、ここ古隅田川の水面は今も都市内の貴重な水辺空間として残されています。東京メトロ綾瀬駅から徒歩数分の場所にあります。ここがかつての大河であったことは、今の景色からは想像もできませんが、川を治めて人々が暮らしやすい街をつくるべく奮闘した、過去の多くの技術者の想いと苦労は、後世に語り継がれていくべきと思います。

 

 

◆ 京橋物語2~明治の凱旋門

[隅田の花火] 2019年2月 6日 18:00

京橋物語。前回からの続きです(前回はこちら→【京橋物語①】)。

  

銀座から見た京橋の街です。この2つの街の境にはかつて京橋川が流れ、その上に京橋が架かっていました。明治・大正時代に架けられた橋の親柱が史跡として残されていますが、現在の街並みからその時代を想像するのは、もはや難しい状況となっています。

s_hanabi_69-1.jpgですが、銀座から望む京橋の街は、かつては絵になる風景として知れ渡っていました。どんな街だったのか。どのように街並みが作られていったのか。絵葉書を使い、何回かに分けてご紹介していきたいと思います。

 

一枚の写真からお話を始めることに致します。

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写真提供:中央区立京橋図書館

京橋川に架かる『京橋』を銀座側から見ています。時は明治28(1895)年、京橋の街通りは『南伝馬町』という町名で、橋の南伝馬町側には一時的に巨大な門が立っていました。これは日清戦争の時に建てられた凱旋門。出征した兵士を出迎えるため、全国各地にいろいろな形をした凱旋門が建てられたのだそうです。

一方の『京橋』。創架は江戸時代初期と言われますが、この時代の橋は明治8(1875)年、九州肥後の名石工・橋本勘五郎によって、木製から石造りに架け替えられたものです。見事なアーチを描くこの橋の親柱は、京橋の伝統的な擬宝珠の意匠を持っていました。

 

京橋はその後、明治34(1901)年に鉄橋に架け替わります。親柱や欄干は先代の石橋のものが転用されたと言われ、アーチの側面には中の構造が見えないように覆いが被さり、模様が施されていました。

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左の和風の門は明治38(1905)年頃、日露戦争の時に建てられた京橋凱旋門。凱旋門のある方が銀座側です。橋の上には路面電車が走り、京橋川には米俵を運ぶ小舟が浮かんでいます。

 

これは絵葉書です。絵葉書は明治33(1900)年に私製のものが許可されると、その後の日露戦争の戦勝ムードに乗って、大流行しました。この頃はまだラジオが無い時代で、各地に情報を伝える手段として絵葉書は重要な役割を果たしたのです。そしてその情報は、20世紀初期の貴重な史料という形で、時を隔てた現在にも届けられているというわけです。

 

銀座通りの絵葉書には、よく路面電車が写っています。京橋を鉄製に架け替えた後に、路面電車が通り始めたのが明治36(1903)年ですので、絵葉書は鉄製の京橋、そして銀座通りの路面電車の歴史と同じような時期に始まりました。

 

こちらは、南伝馬町から凱旋門の中の銀座通りを眺めたもの。万国旗がたなびく中、花電車が走り、橋の上には民衆が押し寄せています。歴史の教科書では学べない、当時の空気感が味わえるのも絵葉書の魅力です。

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絵葉書の魅力はまだあります。たまに、面白い物が写っていることです。こちらは、銀座から南伝馬町を眺めた絵葉書。右端にガス灯のようなものが写り、左下には電話ボックスが写っています。

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電話ボックスについては、以前に特派員のHanesさんがレポートされた記事で初めて知りました。是非こちらをご覧になってください。

    京橋にあった!日本初の街頭公衆電話 →こちら

 

因みにこの絵葉書は「手彩色絵葉書」と呼ばれるもので、一枚一枚に彩色師が色をつけたもの。その人の好みの色で塗られていることがあるので、本当の色であったかどうかはわかりません。

 

電話ボックスの右上の遠くに目を凝らすと、時計台が写っているのがわかります。これは南伝馬町の小林時計店。小林時計店は、八官町(今の銀座八丁目)に建てた大時計台が有名で、この南伝馬町の支店にも時計台を建てていました。あの服部時計店の創業者・服部金太郎は、この小林時計店の繁盛ぶりを見て、時計商になろうと決意したのだそうです。

 

下の絵葉書はおそらく明治末期の南伝馬町の風景。橋の向こう側には南伝馬町のビアホールがあり、一番右には「きやうはし」と書かれた京橋の親柱、そしてガス灯のようなものが写っています。

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現在の京橋跡には、「きやうはし」と「京橋」と彫られた2基の親柱が残されていますが、当時、実際に設置されていた場所はご覧のように、「きやうはし」は銀座側から見て手前右側、「京橋」は南伝馬町側から見て手前右側でした。

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因みに、もう2つあるはずの親柱について、過去の写真を調べてみたところ、1つは明治34年の架橋年月、もう1つは何か文字が彫られているようですが、解読できませんでした。

 

このあと、『大正』の時代に入っていきます。大正2・3(1913・4)年の頃と思われるこの写真。南伝馬町から銀座方面を写したものです。右側の建物は日就社。現在の読売新聞社がここにありました。

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日就社は、明治末期に時計台を立てていたものの、数年で取り外してしまいました。銀座の街は明治時代、新聞社が多数集まっていた場所で、情報の集積地でもあったのです。

 

一方の南伝馬町側には大正3(1914)年、日就社の橋の対角線上に『豊国銀行京橋支店』のビルが出来上がります。現在のLIXILの入るビルが建っている辺りです。

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絵葉書のデザインは、おそらく円形ドームの塔屋から見えた景色でしょう。大正時代に入ってこのビルができて以降、南伝馬町の街は急激なスピードで花開くことになるのです。

 

翌年の大正4(1915)年の京橋ですが、南伝馬町側に奉祝門、銀座側には奉祝塔が立っています。京橋をはじめとする主要な橋には、何か大きなお祝い事があると、こういうものが建てられました。

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これは11月に大正天皇の御大典(即位の礼と大嘗祭)が行われた時の絵葉書。スタンプに描かれているのは、皇位継承時の即位の礼で用いられる、八角形の高御座(たかみくら)です。現在の高御座はこの大正天皇の時に再現されたものだそうで、今年もこれが使われます。

 

違う角度から南伝馬町を見てみると、通りの右側に豊国銀行が写り、その向かいには新たな建物の建設が始まっています。

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これは、翌年の大正5(1916)年に竣工した大同生命保険東京支店の建物。『大同生命ビル』と呼ばれ、豊国銀行と同じような円形のドーム屋根を持っていました。このあと大正ロマンの雰囲気を醸し出す、南伝馬町の顔となる建物になっていきます。現在の場所で言うと、東京スクエアガーデンの地階にある、中央エフエムの上辺りです。

s_hanabi_69-12.jpg写真提供:中央区立京橋図書館

大正5(1916)年頃でしょうか。この大同生命ビルから眺めた橋、そして銀座の街並みです。

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背の高いビルが建ち始めた南伝馬町。銀座の街を高い場所から俯瞰できるようになり、これからこういう写真が現れるようになってきます。大正時代の南伝馬町はこうやって開幕したのでした。

つづく。

 

 

 

中央区の本を紹介します

[五月雨ジョージ] 2019年2月 6日 09:00

先日、中央区発行の本を2冊入手しましたので、ご紹介します。


1.『中央区の橋・橋詰広場 -中央区近代橋梁調査-』

(1998年 中央区教育委員会 編集・発行/¥1,900(発行当時))

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以前にもこのブログに書いていますが、私、五月雨ジョージは無類の橋好きです。霊能力者が言うには、私の祖先は橋職人(測量・設計)だったらしいのです。

※以前の橋関連記事
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2017/07/post-4453.html(橋の街灯)
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2017/05/-2322270.html(橋とその名前について)

『中央区の橋・橋詰広場 -中央区近代橋梁調査-』は、人形町の知り合いの老舗飲食店のご主人から見せていただいたものです。区役所に問い合わせると、すでに絶版になっているとのこと。どうしても欲しかったので、ネットで探し出しました。かなり良い状態のものが安く入手できました。

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▲発行当時、朝日新聞にも紹介されました

「中央区文化財調査報告書 第5集」とあるように、中央区内の橋のすべてを対象に、明治期から昭和昭和戦前期に架けられた近代橋梁を専門的な立場から調査した報告書になっています。
内容は大きく〈第一編 長さ・分析編〉〈第二編 台帳編〉〈第三編 資料編〉に分かれています。第一編では時期別、橋デザインの特色、震災と復興など、さまざまな視点から中央区の橋を分析しています。第二編は、川ごとにかかるすべての橋を一つずつ写真や図面と共に、歴史・特徴・デザインをまとめています。第三編は起工・竣工年月日、長さ、幅、形式、工事費などを一覧表にまとめています。
この、A4サイズ、カラーページ含め約360ページの報告書は、現在は川が埋め立てられ橋の名前だけが残っているものや、新しく架け変えられる以前の橋とその周辺の写真が残されており、貴重な歴史資料としての存在感を高めているのではないかと思います。

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▲鎧橋のページ

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▲千代田橋、新場橋のページ

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▲海運橋(楓川)             ▲旧新大橋(隅田川)

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▲三原橋(三十間堀)          ▲数寄屋橋(外濠)

2.『中央区区内散歩 --史跡と歴史を訪ねて--』全9集

(中央区企画部広報室 編集・発行)


2つ目の本は、『中央区区内散歩 --史跡と歴史を訪ねて--』です。これは、1985年度~2010年度に中央区の広報紙に連載していた「区内散歩」を、より内容を充実させ新書版として出版したもの。1988年に第1集が発行された後、2集、3集と数年ごとに世に出され、2013年、第9集(最終巻)の発行によって完結しました。

各集冒頭の「はじめに」を書かれているのが"中央区長"なのですが、この9集発行の25年間、ずっと矢田美英氏がおひとりで区長職をお勤めされていたことにも敬意を表したいと思います。

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▲『中央区区内散歩』

こちらは現在も販売中であり、中央区区役所の1階「情報公開コーナー」でお求めいただけます(全9集計¥4,730)。中央区の出身者でもなく、また住んでもいない私ですが、ページをめくるたびに新たな発見があり、楽しく、とても勉強になります。

各巻の内容は以下の通りです。(各巻160~260ページ程度です)

第1集(500円) 「下町の一年」「街並」「暮らし」「文明開化」「文学の小径」
第2集(500円) 「四季のこよみ」「江戸の面影」「近代化に向けて」「文化の足あと」「橋と賑い」
第3集(500円) 「記念碑・文化財をめぐって」「文明開化裏ばなし」「学芸・文化のかおり」「街の面影」「市民のくらし」「食生活にまつわる話」
第4集(500円) 「江戸の町となりわい」「江戸文化のかがやき」「開化のあしどり」「近代文芸の原風景」「女性たちの活躍」「街のうつろい」
第5集(400円) 「江戸―近代への胎動」「外国との出会い」「演劇の主役たち」「文芸の世界」「街―薄れゆく記憶」「記憶あらたに」
第6集(400円) 「近代への始動」「開化の写真師たち」「日本橋が生んだ文学」「海水館をめぐる人々」「開化の洋裁師たち」「永井荷風と中央区」「築地小劇場」
第7集(600円) 「中央区俳人群像」「自由人バロン・サツマ 薩摩治郎八」「ヨーロッパで逝った劇作家 郡虎彦」「水に生きた人びと」
第8集(700円) 「日本橋」「夢二 永遠の女 笠井彦乃」「隅田川の水練場」「外国人が見た中央区」「築地の350年」
第9集(630円) 「外国人が見た中央区」「関東大震災」「昭和初期の銀座」「戦時下の銀座」

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◆ 京橋物語1~銀座から見える曲がり角

[隅田の花火] 2019年1月31日 12:00

今日は銀座シックスの屋上に来てみました。

 

銀座通りの人混みを歩いたあと、ここに来てみると少し心が落ち着きます。屋上をゆったりと周遊して、東京タワーやスカイツリーを探してみるのも良いものです。でも眺めてみたいものは他にもあります。それは銀座の街並みです。その中でも一番なのは、4丁目交差点方面ではないでしょうか。

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和光の時計台は、実に良いです。ですが銀座の街は、思ったよりゴチャゴチャしているんだなぁ、という印象です。 

 

銀座シックスが建つ前、この場所にあったのは松坂屋銀座店。その松坂屋からの戦前の風景は、このような感じでした(昭和8(1933)年頃)。

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今と比べればスッキリとした、関東大震災から約10年後の銀座です。4丁目交差点に建つ和光はこの当時、服部時計店と言いました。右の向かいにあるのが銀座三越、服部時計店の向こうに見えるのが教文館です。

 

歴史を調べてみたところ、この3つが建てられたのは、以下の年でした。

    昭和5(1930)年・銀座三越 

    昭和7(1932)年・服部時計店

    昭和8(1933)年・教文館

もし過去に向かって少しずつ遡ることができれば、新しい順に建物が無くなっていくはずです。今回は少し趣向を変え、過去にタイムスリップして、銀座通りの時間旅行にご案内してみたいと思います。

 

まず、少しだけ遡ってみたのですが、無くなったビルがあります。分かりますでしょうか。

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歴史のとおり、教文館が無くなりました。服部時計店は建っているので、教文館が建つ前年の、昭和7(1932)年頃の風景です。

 

教文館の設計者はアントニン・レーモンド。銀座の街には、彼が設計した建物がいくつか建ちましたが、今いる松坂屋も彼の設計の時代があったそうです。

一方の服部時計店。この時計塔は2代目で、初代の時計塔が建ったのは明治27(1894)年でした。改築のために初代が取り壊された後に関東大震災に遭い、震災から9年後にこの2代目が建ったというわけです。

 

さらに遡ってみます。昭和4(1929)年頃の4丁目交差点です。

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服部時計店の建物が無くなりました。向かいにはクレーンが立っているので、三越は建築中といったところです。その向こうには山口銀行、さらに向こうに見える大きなビルは、百貨店の松屋銀座です。松屋はこの当時、既に営業していたことがわかります。

 

さらに遡りましょう。

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すると服部時計店の場所に低層のバラック風の建物が現れました。昭和初年の風景です。この低層の建物は震災後に建てられ、三越が入居して一時的に営業をしていたといいます。その後三越は、向かいの場所にビルの建設を始め、昭和5(1930)年の帝都復興祭の直後、大規模百貨店として今の銀座三越を開業しています。

 

さらに遡り、震災の年に近づいてみます。すると松屋のビルが鉄骨に変わります。

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写真の一番下には、松坂屋のビルの鉄骨の影が写っているように見えるので、松屋、松坂屋のビルが共に鉄骨だった時代のようです。歴史的にはそれぞれの開業が、

    大正13(1924)年12月1日・松坂屋

    大正14(1925)年 5月1日・松屋

ですので、大正13年頃の風景ということになります。大正13年といえば、関東大震災のあった翌年で、この風景の中にも建物を再建している様子をあちらこちらに見ることができます。

 

 

ご覧のように、現在の銀座シックスの屋上は、関東大震災の後、銀座の街の復興をずっと眺め続けてきた場所でした。

 

松坂屋は、銀座に初めて開業した大規模百貨店です。この当時、ここ銀座6丁目は尾張町と言い、ビルを建てたのは国光(こっこう)生命保険。上階で国光生命が営業し、下階に松坂屋が入って店を構えました。

s_hanabi_68-7.jpg今では信じられませんが、全館土足入場ができる初めての百貨店として話題を呼びます。賑わう屋上動物園や、近隣の駅から出る黄色い送迎バスもあり、松坂屋の開店によって銀座は、高級志向の街から一般大衆も楽しめる街へと変化していきます。

 

一方の松屋銀座はどうだったのでしょう。少し遠くて見えないので、空中移動して近づいてみます。

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はためいている旗は、松と鶴からデザインされた松屋のマーク、そして下に見えているのは銀座通りです。ここは完成後の松屋の屋上。銀座3丁目から1丁目の方向を眺めています。

 

松屋の開業は、松坂屋の開業から約半年後の大正14(1925)年でした。松屋自体は明治2(1869)年に横浜で鶴屋として創業していますので、今年は創業150周年にあたります。8階建てのこの建物は、生命保険会社により建設が始まります。しかし途中で松屋が下階に入居することに決まり、設計変更で大きな吹き抜けが作られることになりました。鉄骨の状態で震災に襲われるも、その20ヶ月後に開店します。

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特に内装はとても豪華だったようで、来店する多くの人びとを魅了し、話題をさらいました。このあと松坂屋と共に、銀座の復興を牽引していく立役者となっていきます。

 

銀座通りに目を移してみると、斜め向かい方向に大きなビルが見えます。これは大正4(1915)年に5階建てとして竣工した大倉組本館。建設当時は東京でも最高層のビルでした。

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建てられてた年からも分かるように、このビルは関東大震災を乗り越えました。大倉組本館といえば、アーク灯が灯された初代の建物の頃も知られていますが、それはこの風景の40数年前の話。写真は2代目の建物、昭和初年の風景です。カルティエが入る現在のOkuraHouseは4代目になります。

 

気になってしまうのは、銀座通りの向こうの「曲がり角の先」に見えるビル群。何だか大正ロマンを感じさせる、雰囲気の良さそうな街並みが広がっています。きっと素晴らしい街に違いありません。

 

大倉組本館の屋上に空中移動して、少し近寄ってみることにしましょう。

s_hanabi_68-11.jpg左側の「トンガリ屋根」と、右側の「円形ドーム」の背の高いビルが印象的。昭和初年です。

 

この場所で大正時代に突入してみます。大正14(1925)年頃の、曲がり角の先の街並みです。

s_hanabi_68-12.jpgん?何かが変わりました。

トンガリ屋根が円形ドームに変わっています。大正時代はトンガリ屋根ではなかったみたいですね。 この曲がり角の先にある街は、現在の京橋、この当時は『南伝馬町』という町名でした。曲がり角には京橋川が流れていて、その上に『京橋』が架かっているはずです。震災から数年しか経っていないこの時に、大きなビルが立ち並ぶ街は、どのような発展を遂げたのでしょうか。

 

今回はここまでに致します。銀座通りのタイムスリップと空中散歩。いかがだったでしょう。次回からは、この「曲がり角の先」の街並みについて、時代順にご紹介していきたいと思います。『京橋物語』のプロローグでした。

(参考文献等はエピローグに纏めて記載予定) 

 

 

 

「江戸っこ」 再考   

[CAM] 2019年1月30日 14:00

「にゃんボク」氏の「江戸っ子とは」という投稿を読んだら、最後に

>なお CAMさんの「江戸っ子とは」にも詳しい記述があります。

 http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2017/09/post-4591.html

  

 と、小生の随分前の投稿に言及していただいており、ありがとうございます。

 

 私は、以前の投稿を、次のように結びました。

 

>関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

 

 現在でこそ、東京一極集中が進み、大阪も「地方のトップ」と言われるまでに衰退しています。しかし、明治になって首都を江戸(東京)とした理由のうち、大きなものが、「大阪は首都でなくても繁栄を維持していけるだろうが、江戸は首都でなくなれば寂れてしまう」ということがあったことを思うと、今昔の念に堪えなくなります。

 

 先日の毎日新聞の「余禄」でしたか、テニスの「大坂時代の到来」を告げる導入部の記述として、「奈良時代、鎌倉時代、江戸時代のように政権の所在地を時代の名にするならば、豊臣秀吉が大坂城で政務をとった時代は『大坂時代』にすべき」と書いていました。歴史区分の「安土桃山時代」というような表現は明らかに不当ですよね。少なくとも「安土大坂時代」というべきだと思います。これも東京の歴史学会の陰謀だったとも考えられます。

 

 府県制を作った際も、「摂津」地方を分割して一部を兵庫県に繰り入れたのは、大阪府が強大になりすぎることを東京政府が恐れたからだとも言われています。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読むと、幕末の頃の神戸などはまだまだ都市化には至っていない状態であったことが分かります。

 

 私は、「原江戸」と言うべき現中央区の域内を歩いて、日本橋、新川などに、大阪、関西が強大であった時代の名残を見いだしたことが、中央区の歴史を研究したいと思うに至った端緒となりました。

 

 
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