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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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谷崎潤一郎『幼少時代』を歩く (1)

[CAM] 2017年9月15日 18:00

 中央区立郷土天文館2015年10月発行の「文学さんぽ 谷崎潤一郎『幼少時代』を歩く」

を参考にし、岩波文庫版『幼少時代』と英訳(Paul McCarthy訳)を併読しつつ、あらためて谷崎が描いた日本橋を中心とした情景をたどってみたい。

 

 谷崎潤一郎(1886-1965)著『幼少時代』は、昭和30年(1955)4月、谷崎が69歳のときに、雑誌「文藝春秋」に連載を開始し翌年3月まで掲載された随筆で、幼少期の遊び場、商店、学校、友達の思い出などが、明治中期から後期にかけての日本橋を中心とした東京の下町を舞台として描かれている。谷崎は、この著作について、「現在こんなにも変わり果ててしまった東京の、明治中葉頃における下町の情景を、少しは今の若い人々に知って置いてもらうのが目的でもある」と述べている(私の『幼少時代』について)。

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祖父は・・・・・・日本橋の蠣殻町二丁目十四番地に、以前銀座のあったところに家を構えて活版印刷業を始めた。私が生れたのはこの「谷崎活版所」という、巌谷一六の隷書の看板が掲げてあった黒漆喰の土蔵造りの家の蔵座敷の中であった。 ・・・・・・活版所の前を真っ直ぐに、蠣殻町一丁目の通りへ行くと、そこはその頃のいわゆる「米屋町」で、米穀取引所を中心に、左右両側に米穀仲買人の店が並んでいた。 ・・・・・・なおその外に、鎧橋通りに今も残っている銀杏八幡の裏通りあたりに、活版所の支店を設けて「谷崎分社」という看板を出していた。 ・・・・・・・祖父の久右衛門は私の二、三歳の頃、倉五郎夫婦のために日本橋青物町(この町名は今はないが、海運橋の通りと昭和通りとが交叉している地点あたり)に一戸を構えて洋酒業を営ませたり、次には柳原で点灯社をやらせたりしたが、いずれも経営が巧く行かず、そのうちに祖父が死んでしまった。(「私の一番古い記憶」)


Grandfather then built a house at No.14, Kakigara-cho 2-chome, Nihombashi, where the

Ginza, or Silver Mint area, had formerly been. And there he set up a print shop ― the Tanizaki printers; it was in the parlor of this traditional godown-style building, with its signboard carefully inscribed in formal characters by a well-known calligrapher, that I was born. ・・・・・・・ Walking from the print shop toward Kakigara-cho 1 -chome, one passed through the rice merchants' district, with dealers' shops lining the road on either side. ・・・・・・・ In addition, there was a branch office of the printer's in the lane behind the Icho Hachiman Shrine, still to be found on Yoroibashi Strret. ・・・・・・・ When I was still a baby, Grandfather set them up in a liquor business, followed later by the lamp-lighting job in Yanagihara.


 生誕地に掲げられた松子夫人筆の「谷崎潤一郎生誕の地」表示版と説明版(日本橋人形町1-7-10)。

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蛎殻銀座跡を示す説明版、東京メトロ日比谷線人形町駅A2出口先の歩道に設置されている(日本橋人形町1-17-7 先),。これには図がないから、その広さをつかめないが、近くの工事塀には、蛎殻銀座の説明とともに、地図が掲げられていたので、谷崎生誕地がこの跡地内にあったことがよく分かる。

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銀杏八幡(日本橋蛎殻町1-7-7)

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秋旬 ひやおろし

[あすなろ] 2017年9月15日 14:00


9月に入り、涼風が吹き始めるのといっしょに
「ひやおろし」が出回ってきました。

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春先に一度だけ加熱殺菌し、熟成させて、出荷前の2度目
の火入れをせずに出荷されます。

 

夏を越したこの時期は、「夏越し酒」とも呼ばれます。

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落ち着いた香りとしっかりした味わいでした。

 
これから秋の深まりとともに深まる味わい。愉しみですね。

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◆日本橋とやま館 トヤマバー
 東京都中央区日本橋室町1-2-6

 

 

「粋な仮囲い」~楓川久安橋公園 ㈱NIPPO本社新築工事~

[東京ダンボ] 2017年9月12日 16:00

 東京駅から八重洲通りを進み首都高を超える箇所にある久安橋、その久安橋に隣接している楓川久安橋公園脇でビルの新築工事が行われています。その工事現場を囲む仮囲いが「粋」でかっこいいです!

 

白地の仮囲いには、工事個所周辺の京橋、八重洲、八丁堀に関わる情報や、江戸の風習等を愉快で簡潔なイラストとともに描かれています。

 

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仮囲いの中で、東洲斎写楽の名前の由来が八丁堀にある説があることを初めて知りました。阿波徳島藩に仕えた斎藤十郎兵衛が「(江戸八丁堀のこと)に住む藤からもじったものと思われるとのことです。

 

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この工事は、日本を代表する舗装工事会社である㈱NIPPOさんの本社新築工事で、現場事務所の方に伺ったところ、地域に根差した題材で工事の負荷を低減させたいとの思いから、中央区内の広告会社に依頼し今回の仮囲いを作成したとのことでした。

 

東京ダンボは、中央区に本社を置く企業として素晴らしい姿勢であるとともに、デザインをした広告会社も良い仕事をしたなとの感想を持ちました。

 

工事期間はあと1年ほどあるようですので、お近くをお通りの際はご覧いただければと思います。

 

 

 

163人のイラスタレーターが描き上げるイースト東京

[柴犬] 2017年9月 7日 14:00


現在、新橋のリクルートGINZA8ビルにて「東京東- シタマチDiscovery」が大好評で開催中です。

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東京イラストレーターズ・ソサエティ(TIS)の23回目となる展覧会です。今年のテーマは、中央区を含む江戸下町。新しさと伝統が混在しイースト東京と呼ばれるこのエリアを、163人のイラストレーターさんたちが描きあげます。

IMG_7232.jpg場内はこのようになっており、部屋ごとに描写するエリアが分かれています。

IMG_7233.jpgみなさんのお気に入りのエリア、お住いのエリアは、どのイラストレーターさんがどのように表現しているでしょうか!たくさんの素敵な絵を見ているうちに思い出す景色やイベントもあり、「久しぶりにあそこに行ってみようかな...」という気分になります。

場内は写真撮影可、絵の販売、グッズの販売もあります。



【東京東 - シタマチDiscovery】

  • 〒104-8001 東京都中央区銀座8-4-17 リクルートGINZA8ビル1F TEL 03-6835-2260
  • 11:00 ~ 19:00
  • 日・祝日休館
  • 入場無料
 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」(3)

[CAM] 2017年9月 6日 18:00

三.「江戸っ子」とは

(1)山東京伝による「江戸っ子」の定義

 「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、「江戸城の鯱をみて水道の水を産湯とした」「宵越しの銭は持たない」「食べ物や遊び道具がぜいたく」「生粋の江戸のはえぬき」「いきとはりを本領とする」といった条件を満たすのが江戸っ子とされている。山東京伝著『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店1958年)。

「金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・」

 こうした江戸っ子の条件を最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、不思議な思いがした。この点については、永井荷風の「井戸の水」(明治9年)という随筆を読むとその背景をよく理解できる。

「水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。

江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)」(岩波版全集17-32)

 

 
(2)「江戸っ子」生成についての考察

 以上の永井荷風の文章を読むと、明治の初め頃でも、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということが解る。よく「芝で生まれて神田で育った江戸っ子」などと言われるが、既に述べたように、元来は、神田や芝さえもが、「江戸」という地区には含まれていなかったのである。 

池田弥三郎氏は、以下のように述べる。(『日本橋私記』)

「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」

そして、

「金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。」

「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、『平凡社大百科事典』における竹内誠氏による説明が簡明でわかりやすいので、以下、これによると(引用はDVD-ROM 1998年版による)、

「江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代(1760~86)になってはじめて登場してくる。(筆者注;山東京伝は1761~1816)・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。」

「田沼時代には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,『上方者』への反発は大きかった。・・・・・『宵越しの銭を持たねえ』と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。」

「もう一つの契機は,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら『田舎者』が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生えた。」

 西山氏は、「江戸ッ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっている」として、「主として化政期以降に出現してきた『おらぁ江戸ッ子だ』と江戸っ子ぶる江戸っ子」(自称江戸っ子)と、「日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち」(本格的江戸っ子、高度な文化を持った豊かな人たち)とに分けられる」とする。

 

 

 関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

(おわり)

 

 

本銀通り 日本橋室町4丁目から本石町付近まで

[銀造] 2017年9月 6日 12:00

昭和通りに面した、中央区立地蔵橋公園に、

『 千代田区神田「竜閑川埋立記念」中央区日本橋 』という札が立っています。

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ここが、中央区と千代田区との区境で、中央区立地蔵橋公園です。ここを真っ直ぐ進むと「福田稲荷神社」が鎮座されています。

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この一つ南側の昭和通り沿いの陸橋の下に、交番があり、そこから西に向かって「本銀通り(HON-SHIROGANE-DOORI)」が伸びています。

この界隈は、日本橋室町4丁目で、沢山の企業が活発に営業なさっているので、飲食店も多いです。

この通りでは、「匠上 日本橋室町本家」という焼肉・しゃぶしゃぶ・すき焼きの店を見つけました。日本橋室町4-6-5室町CSビルB1Fです。沢山ある肉類のメニューからランチを選びましたが、生憎写真を撮影するのを忘れてしまいました。()

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 親切な店員さんが、「夕方5時から30分間、¥500の飲み放題プランがありますよ!」と教えてくれたので、次回は仲間を誘って行こうと決めました。

 

そして、中央通りまで来て、案内板を確認してみました。区境がハッキリ確認出来ました。

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ここから中央通りを越えて直ぐの右側に「家内喜稲荷神社」が鎮座されています。案内板の間から、鳥居が見えますでしょうか?

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 ここを真っ直ぐ行くと、左側には蕎麦の名店「室町砂場」があります。(写真は逆方向からの撮影)

「室町砂場」は、天ざる・天もり発祥の店と、中央区はじめて物語マップで紹介されています。そこには、『「そばの芯だけを挽いた更科粉を卵でつないだ「天ざる」を創案したといわれています。暑い夏でも天ぷら蕎麦を食べやすい様に、つけ麺状にしたものが天ざるのはじまりといわれています。』

 

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室町砂場から、堀田丸正と進んでいくと、竜閑橋のところまで到達するのですね。 

 

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達成感で充実した2週間がかりのツアーでした。

 

 

 
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