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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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アートの秋の本願寺

[下町トム] 2018年10月11日 18:00

秋たけなわとなってきました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

本願寺_20181007(1)_R.jpg   

 「芸術の秋」というだけあって、興味深い美術展があちらこちらで催されていますね。別に美術館でなくても、自ら絵を描いてみたり、写真を撮ってみたり、何かしら絵心が刺激される季節なのかもしれません。

  

 

 

国際交流ブースでは、各国の特産品や料理が販売され、交流の輪がひろがりました。また、境内に設けられた長いテントの下では、子どもたちが共同作業で絵を描くという「アートコラボレーション」が催されました。こどもたちの自由で夢のある発想が絵になって、未来への期待が募りました。

 

本願寺_20181007(4)_R.jpg 本願寺パンフ002061.jpg

 

このアート企画を指導してくださった松井守男画伯は築地本願寺の風景がとても気にって幾枚もの絵が描かれています。

 

 本願寺パンフ003062 (2).jpg

 

本願寺本堂の1階、2階では、10月21日(日)まで「松井守男特別展覧会」が催されていますので、本願寺参詣の折や、築地ショッピングの帰り道にでも是非立ち寄って見られることをおすすめします。

 

この季節、芸術気分をたっぷり味わいましょう。

 

 

 

 

 

◆ 十思公園で何を思う

[隅田の花火] 2018年10月11日 12:00

築地方面から地下鉄日比谷線の先頭車両に乗って、小伝馬町の駅で下車。目の前にある改札を出てエレベーターで上がっていくと、お寺が現れる。このお寺の名前は「大安楽寺」。ここは、江戸時代に小伝馬町牢屋敷があった場所である。

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小伝馬町牢屋敷は2600坪という、当時の牢屋敷の中でも最大規模の広さを誇っていた。その位置は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、学校跡地の十思スクエア辺りとされているが、特に大安楽寺は処刑場のあった特別な場所だと言われている。なのでここに建つ赤い文字の石碑は、ほかでは味わえないような雰囲気を醸し出している。

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事実、明治時代になった後、この牢屋敷の跡地はなかなか使われない土地だったそうだ。そこで、霊を慰めるためにこのお寺が建てられた。「大安楽寺」という名は、財閥系出資者の大倉喜八郎と安田善次郎の二人の名前からとられたとも言われている。

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牢屋敷で処刑された有名人は、やはり吉田松陰だろう。幕末期の安政6(1859)年10月27日、安政の大獄により29歳の生涯を閉じている。隣にある「十思公園」には吉田松陰の石碑が建てられていて、松陰の辞世の句が刻まれている。

 

こういう土地柄ということもあり、訪れる人も少ないだろう思っていたが、意外にもこの石碑の前にパラパラと人が現れる。十数分の間に、若い男性、歴女的な女性二人組、80歳くらいのおじさん、と続いた。それぞれ、どういった思いでこの場所を訪ねているのだろうか。

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そのおじさんが声をかけてきた。刻まれている文字が読めないという。

 

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも

留置まし大和魂

 

と、何とか二人がかりで読みあげたが、その後に続く、

 

十月念五日 二十一回猛士

 

の意味が分からなかった。

  

このおじさんは何と、吉田松陰の地元・山口県の方。瀬戸内に浮かぶ周防大島のご出身だそうで、『松陰先生』を慕ってこの場所を訪ねられた。思っていたよりもこの石碑の扱われ方が粗末であると感じられたようで、少し残念なご様子。「記念に写真を・・・」と撮ってさしあげたところ、かなり喜んで下さり、そのあと熱い語りが始まった。その『松陰先生』への思いは並々ならぬものであると感じながら、石碑の前で耳を傾けた。

 

 

あとで調べてみたところ、この辞世の句は小伝馬町獄中で書かれた「留魂録」の冒頭の一節。十月念五日(25日)に弟子宛の遺書として書き始め、処刑の前日・26日の夕方におよそ5000文字を書き終えている。「二十一回猛士」というのは、吉田松陰の号だった。

 

2通書かれたものの、弟子達に届けられた1通は幕末の動乱で失われてしまったのだとか。もう1通は八丈島(三宅島とも)に遠島になった同牢の沼崎吉五郎に託され、刑が解かれた十数年後、元塾生の野村靖の手に渡り、萩の松陰神社に預けられた、という長い物語がある。

 

十思公園にある石碑に刻まれた文字は、その松陰直筆の「留魂録」の文字を拡大彫刻したものであるらしい。なので『松陰先生』によって生み出された辞世の文字は、巡りめぐってこの小伝馬町の聖地に里帰りしてきた、ということになるのだろう。

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さて、この十思公園界隈にはいろいろな史跡があり、見るべきものは多い。その中でも今日見入ってしまったのは、「十思之疏」の説明板。十思は「じっし」と読み、聞きなれない日本語だと前々から不思議に思っていたが、今日はようやくその疑問を解決することができた。

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明治になり、ここの学区が第十四小区だったことと、中国の歴史書「資治通鑑」の中の「十思之疏(じっしのそ)」の音が十四に通じるところから「十思小学校」と名づけられた。十思小学校はもう無くなってしまったが、ロマンチックな建築だけは今も残してくれている。

 

この十思の考え方は、あの徳川家康公も貞観政要という書物で参考にしていたらしい。リーダーとなるべき人が読む訓示のような文章なので、もしかしたら吉田松陰や井伊直弼も読んでいたのかもしれない。

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子どもの頃を思い起こすと、学校では意味も分からず名文を暗唱させられたものだ。この十思小学校で学んだ子どもたちは、この十思を暗唱させられたのだろうか。

 

子どもの頃に暗唱した名文は、今思うと、とても良いリズムであることに気づかされる。そのリズムはたぶん、大人になってから少しは役に立っているのだと思う。

 

分かりやすく訳された十思を見てみると、少々耳が痛くなる。暗唱するなら、3つぐらいの思いに絞った方が良いかもしれない。

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さて、この小伝馬町界隈は、地図で見てみると浅草橋から常磐橋へ向かう大きな道筋のほぼ中間地点であることがわかる。

 

家康公が江戸にやって来て街づくりが始まり、水上交通や陸上交通の整備が行われたが、この道筋はその陸上交通の要衝だった。家康公の地元の商人も呼び寄せられて、以降、とても栄えた場所となる。大伝馬町・小伝馬町・馬喰町・横山町といった昔の町名は今も残っているが、通旅籠町・通油町といった消えてしまった町名もあるようだ。

 

なのでこの辺りは、歴史好きな方であれば、古地図を開いて江戸時代の頃に思いを馳せながら歩くのが楽しいのかもしれない。

 

浅草橋の方に行くか。常磐橋の方に行くか。
小伝馬町の交差点から人形町の方へ歩くと、ひとつ目の交差点に寳田恵比寿神社の標識が現れる。もうひとつ先が江戸時代の本通りのようだが、10月19・20日には「べったら市」があるので、今日は標識の指示に従い、常磐橋の方角・寳田恵比寿神社の方へと歩いてみた。

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この道は「えびす通り」という細めの通りで、途中に馬込勘解由の屋敷跡、寳田恵比寿神社、於竹大日如来の井戸跡といった史跡が現れて、昭和通りに突き当たる。そこにある「小津史料館」には、この辺りが栄えた江戸時代の頃を知ることのできる、良い史料が整えられている。

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ご紹介が逆になってしまったかもしれないが、この辺りを散策される時は、まずこの小津史料館に入られるのが良いと思う。そしてべったら市がある時季に合わせて歩くのが一番だ。

 

この場所は、昭和通りを地下道で渡れば「くすりミュージアム」、その先に中央通りの日本橋室町があり、人気繁華街からも至近の距離となっている。

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まるで大英博物館!?歴史も学べる贅沢ギャラリー@Universal Coin

[Hanes] 2018年10月 5日 12:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
4月に開催された「東京アート アンティーク」を機に様々なギャラリーを見て回るようになったのですが、その多くが目につきやすく入りやすい、通りに面した1階に多いという印象を徐々に受けるようになりました。
勿論例外も多々ありますが、やはりまち歩きをしていて目につくお店に入る機会の方が多いのではないでしょうか?
そこで今回は、建物の上階にある知る人ぞ知る興味深いギャラリーをご紹介します

そのギャラリーは、銀座にあるUniversal Coinの店舗内にあります

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こちらはコレクター向けというより投資家向けに資産的価値があるものとしてのアンティークコインを取り扱うお店ではありますが、
ギャラリーは「貴重なアンティークコインを見てみたい!」という方でも気軽に覗けるようになっています

私事ではありますが、英国の流通記念コインやアンティークコイン(ほぼレプリカですが、一部本物)の収集を趣味の一つとしています。
友達に話すと、「渋い」「マニアック」等とよく言われます
しかし、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスフランス皇帝ナポレオン
そして大資産家ロスチャイルド家の祖マイアー・アムシェル・ロスチャイルドといった
歴史上の人物達も、実はアンティークコインの収集家だったんです
そう言われてみると、アンティークコインに興味がわいてきませんか?

4月の訪問時には、鋳造貨幣の歴史を代弁する古代の貨幣が多く展示されており、
教科書で見た貨幣を目の前で見られたことに感動
こちらのギャラリーは通常のアートギャラリーとはガラっと異なる雰囲気で、
アンティークコイン初心者にもやさしい解説資料が充実しており、
時間を忘れて小さな金・銀の塊に刻まれたメッセージやプロパガンダを読み解くことができました。

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英国の記念コイン(即位や戴冠時のもの)ばかりが取り揃えられた隣のギャラリーは、
まるで大英博物館を思わせるような雰囲気
映画「テルマエ・ロマエ」でご存知の方も多いであろうカラカラの大浴場をイメージした内装になっているとのことです

枚数限定の記念コインは、たいてい貴族の家系での資産継承としてとどまるため、
なかなかお目にかかることができない貴重な代物です。
そのようなアンティークコインは、他に投資するより安全だという理由から
ここ10年で日本でも注目を集めるようになり、市場が拡大しているんだとか
海外の高級ブランドが進出する銀座であっても、こんな贅沢なギャラリーがあったとは驚きでした!

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残念ながら私には手が出ないようなお値段ではありますが、
アンティークコイン好きとしては非常に目の保養になりました

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また、ここではアンティークコインへの投資に興味のある方を対象にしたセミナーが定期的に開催されており、
その際に使用したという英国のアンティークコインとそこに反映された歴史を
わかりやすくまとめた動画も見せていただきました。
英国のコインに刻まれた花や動物といったシンボルからは、国の構成や発展史、王の出自が分かり、
日本の硬貨とはまた違った面白さが存分に詰まっていることが再確認できました

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大英博物館さながらの贅沢な空間でアンティークコインを見てみたい...
そんな方にオススメする知る人ぞ知る銀座のギャラリーです

【参考文献】
西村直樹『世界の支配者が愛したアンティークコインという価値を探る』(総合法令出版、2017年).

※記事につきましては、マーケティング担当の方より掲載許可をいただいております。

 

 

【遠足シリーズ第5弾】十返舎一九の生涯をたどって...

[Hanes] 2018年10月 3日 09:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
遠足シリーズ第3、4弾の続きで、今回も静岡で見つけた中央区とのつながりをご紹介します!
 
今回の主役は、徳川家康ではなく、『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九
どんなつながりがあるかと言いますと、静岡に生家、中央区にお墓があります。
第3弾でご紹介した駿府銀座発祥の地の碑からすぐのところに、
十返舎一九生家跡伝承地を示す案内板が設置されています。

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彼は町奉行同心の長男で、武家生まれだということが分かります。
また、彼の生まれた場所が両替町一丁目であることから、
江戸時代に新両替町と呼ばれていた銀座とのつながりを再確認することができます。
 
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約30歳で江戸に出て、38歳で『東海道中膝栗毛』が大ヒット
それ以来文筆一本で生計を立て、日本初の職業作家と称されたそうです!
武芸にも通じる等、多芸多才だった一九は、67歳にてこの世を去りました。
彼が葬られた浅草東陽院は現在中央区の勝どきに移転しています。
 
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東陽院に向かって右側には、徳川夢声が書いた一九の碑と案内板があります。
屋内墓地にある墓石の左側面には、以下の有名な辞世句が刻まれています。
此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら
辞世句だというのに、滑稽な物語を書いた一九らしく洒落がきいていますね
 
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中央区観光検定を受験予定の方は、要チェックの一句です!
また、日本橋の耕書堂での一九については、先輩特派員巻渕彰/写楽さいさんの
「◆中央区 ここに歴史あり(64) 十返舎一九生誕250年 ~区内ゆかりの地を訪れる~」をご覧ください。

 

 

江戸城石丁場遺跡「羽柴越中守石場」に登る

[yaz] 2018年10月 1日 18:00

江戸日本橋の小田原町の由来から、江戸城の石垣の石丁場遺跡に続く話を前月報告しました。実際に登ってみなければと考え、伊東市観光協会に連絡してガイドの方々の支援を得て登りました。その奮闘記を記述します。(道なき道、片側谷(注: 当然フェンスなし)の道、ロープを伝って上る道などを上り降りしますので、ガイドなしでの単独登山は非常に危険です)

日時: 2018年6月27日9:00集合

集合場所: 伊東線宇佐美駅

天候: 晴れ、31℃/24℃

予定通りの時刻に出発し、下の地図で示すように石切り場(ナコウ山)コースを通って頂上で「羽柴越中守石場」を見て、石切り場(白波台)コースを下る予定でした。しかし同行者が財布を登りの途中になくす事故があり探索のため同じコースを戻らざるを得ないはめになりました。国史跡を2度(息も絶え絶えでしたが)見る旅となってしまいました。

伊東市宇佐美_石切り場_地図(1).png 

江戸城石垣石丁場跡見学コース.jpg

宇佐美駅を出発した一行は駅脇の石丁場の説明板で全体像をつかんだ後、出発!!!!!!! 洞ノ入地区で発見された石を展示している郷戸(ごうど)公園をまず目指します。

宇佐美駅_石切り場紹介看板.jpg

  

郷戸公園(1).jpg

 

これから目指す「洞の入(どうのいり)」地区には、「石を掘り出す」「石を割る」「石の形を整える」「石に刻印を刻む」「完成した石を集積する」などの一連の工程を示す遺跡が集中しています。上記の築城石は、洞の入地区の砂防ダム付近から見つかったもので、洞の入地区に近い郷戸公園に保管し公開しています。刻印は「折敷(おしき)に三文字」といい、九州臼杵の稲葉家などが大阪城で同じ刻印を使っていることが判っています。

折敷に三文字.jpg

次に中央区立宇佐美学園(静岡県伊東市宇佐美545)に向かいます。以前は宇佐美駅の至近にありましたが、ナコウ山麓に移転しました。この学園前から「江戸城石丁場遺跡ハイキングコース」に向かいます。(まさか道なき道を続くとは知りませんで、元気いっぱい登り始めました)登り始めて後悔しても後の祭り。徳川家18代当主"徳川恒孝氏が揮毫した「江戸城石丁場遺跡」と書かれた石が左側に見えましたが、注目できません。

ハイキングコース看板.jpg

  

徳川恒孝筆_石狩場碑.jpg

ロープを伝って上る道(崖?)、片側が谷になった細い道(落ちたら大変)などが続きます。このような道を歩くときには余裕がありませんので、写真撮影は不可能です。だんだん脚が上がらなくなります。

次の写真は恐らく当時石を曳いた道と思えます。この「石曳き道」は作業場所と思われる区域の脇を通って、周りの地面から掘り下げられたような形状で続いたようです。道なき道の脇や上方や下方に、写真のような石が転がっています。

石曳き道(ナコウ山).png

 

残った石.jpg

 

大名家の印と思われるもの、何の印か判らないものなど、いろいろの印が刻まれた石が無数に残っています。仕事に従事した石工の印ではないかと思われるものもあります。伊東市教育委員会の調査によれば、これまでに30種類以上が見つかっています。今回登ったナコウ山・洞ノ入で見つかった石の刻印の素性を一覧表にしました。「まんじ」「〇に上」「三つ串団子」「矢筈(やはず)」など面白い刻印がありますね。「折敷(おしき)に三文字」も入っています。

洞ノ入地区刻印(1).jpg

洞ノ入地区刻印(2).jpg

 

石を割った「矢穴」のあとが残る「矢穴石」も無数にあります。土中から掘り出した自然石を江戸城の石垣に使う形にするには専門的な技術が必要です。石の性質を利用して思い通りに割っていきます。

ふうふう言いながら登っていくと、12:00頃にやっと頂上に到着しました。「羽柴越中守(細川忠興)」の石切り場です。昼食と休憩を約1時間。風が強く、頂上で立っていることもできません。(コンビニ・売店もないので弁当持参です)

石を割った跡を残した矢穴石.jpg 石切り場の標石.jpg

 ナコウ山の山頂.jpg     ナコウ山_山頂の地図.jpg    

東京からの同行者が「財布を落とした」と言い始めたので、白波台経由で帰る予定を急遽変更し往路をそのまま戻ることになりました。(こんな山の中に人が入ってくることもないので、財布は無事見つかりました。)

往路で疲れているせいもあって、下山もしんどいものでした。4~5回、転がりながら、江戸城石丁場遺跡前に帰還。記念写真撮影。

写真の後列の左右2名が伊東市観光協会のガイド、杖をついている私は前列。ガイドリーダが疲労困憊の様子を見かねて、杖を貸してくれたおかげでどうにか下山できました。伊東市のガイドの方の余裕のあること!

ヘロヘロの東京グループ.jpg

宇佐美駅到着 14:30 解散

  

【反省後記】

このような登山を伴うガイドに行く時には、次の点に注意すべきと感じました:

1) 一眼レフカメラのような重いものは持っていかないこと。リュックサックでも登るときに負担となる。→ 登り下りに集中しないと危険ですから、大型カメラでの撮影は不能ですから、持っていく意味がありません。

2) ジーパンは汗が出る季節には、脚を上げた時にまとわりつくので不適切。一層、疲労が増します。

 

ブログを見て、「江戸城石垣石丁場跡」登山に興味をお持ちいただければ幸いです。

11月初旬に再挑戦する予定ですが、今回のトライアルの結果を考慮し、軟弱な私も参加出来るよう今回ご報告した登山の半分程度のコースとなります。

 

 

銀座二世の柳との出会い

[にゃんボク] 2018年10月 1日 14:00

去る9月23日に、長野県野沢温泉村から木島平村を経由して飯山市まで駆け抜ける「北信州ハーフマラソン」に参加してきました。下り基調とは言え、これだけ激しい下り坂はド平坦の中央区にいては決して味わえないもの。足ががくがくになるような下りの後に訪れるアップダウンはかなりきつく、ハーフマラソンなのにゴール時の達成感はフルマラソン並みのものを味わえます
*****
 さて、ランニングイベントが終わった後は、「地元のうまいもの食べ続けマラソンりんご」や「観光マラソン」が続くため、気が休まる暇はありません色々と美味しいものや温泉を堪能した後は、以前から気になっていた長野県飯山市の「高橋まゆみ人形館」を訪問してきました。
(こういうおばぁちゃん、いらっしゃいますよね~
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その道すがら、私の目に飛び込んできたのは、「銀座の柳2世」の文字。
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あれ?なぜここに?
長野県の安曇野と柳の関わりは直ぐに思いついたのですが、飯山市との関係が思い出せずにいました。

そう、「新人特派員のHanes(ハネス)」さんがいみじくも最近書かれていた「全国のいろいろな場所に植えられている」二世柳の一つ、だったのです。
http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2018/09/4-10.html

「高橋まゆみ人形館」の近くには別の二世柳の木とその説明文が設置されていました。
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曰く
・明治5年の横浜新橋間の鉄道開始に尽力した外国人のエドモンド・モレルさんが客死
・モレルさんの夫人のキノ夫人(日本人)も後を追うように不帰の人に
・銀座二世を育ててきた椎葉一二さん(銀座御門通り会長)と勝又康雄さん(銀座金春通り会長)
 にモレルさんの貢献について話を繋いだのが東工大教授の渡辺貴介さん
・その渡辺さんにキノ夫人について詳しく教えたのが飯山市の古田十一郎先生
といったことが縁で飯山市に西暦2000年の春に銀座二世柳が贈られたとのこと。
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・・・なかなか複雑に感じたのは私だけでしょうか
なお、東京国道事務所のホームページによると、
・平成6年「明治の鉄道の開設に尽力し、銀座を発展へと導いた横浜市外人墓地内の
 英国人エドモンド・モレル夫妻の墓前に二世・三世柳8本を植樹。 」
・平成11年「長野県飯山市に二世・三世8本寄贈。」と記載されています。
ここに繋がっていたのですね。
マラソン大会への参加から思わぬところで中央区つながりを発見しました。これも一つの楽しみ方ですね
 

 
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