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◆ 築地・海軍の石碑から伝わるもの

[隅田の花火] 2018年6月11日 18:00

今年の3月に日帰り旅行で訪ねた軍港の街・横須賀。旧日本海軍の記念艦三笠の展示や、日米艦船を見物する軍港巡りなど、この街独特の観光スポットがあり、とても楽しい街だった。

 

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横須賀海軍カレーを食べながら、東京中央区の「築地」も昔は海軍の街だったんだよなぁ、と思い起こしてみた。確か今の築地には、石碑や説明板が残っているだけ。横須賀と比べてしまうと寂しい感じがしてしまう。 

 

しかし石碑には、「石碑にしよう」とした人の大きな思いが込められているものである。

 

石碑を建てた理由の多くは、無くなるもの、無くなったものを偲ぶ人がいて、その思いを後世の人に伝えたかったから、ということなのだろう。

なので石碑を見るときには、建てた人が伝えたかった思いを、「感じてみる」ことが必要なのかもしれない。

 

そう思いながら、築地の海軍関連の石碑を巡ってみることにした。

 

 

築地の国立がん研究センターの敷地には、2つの旧海軍関連の石碑が仲良く並んでいる。

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左「海軍兵学寮跡」と右「海軍軍医学校跡」。

 

石碑を建てた人の思いは、石碑のどこかに記されているものだ。 

 

フェンスに密着している「海軍兵学寮跡」碑の裏側を頑張って見てみると、何やら文字が書かれている。概略は次のような感じである。

 

 『海軍兵学寮沿革

  ・1871(明治4)年7月29日に海軍兵学寮をこの地に新築

  ・1876(明治9)年8月31日に海軍兵学校と改称

  ・1888(明治21)年8月1日に江田島に移転

 1934(昭和9)年5月建立』

  

この碑が建てられたのは、海軍兵学校が江田島に移転した時ではなく、その46年後であった。

 

築地は明治初頭から海軍の街として栄えてきたものの、1923(大正12)年の関東大震災で多くの海軍施設を失ってしまう。そして帝都復興で、この海軍用地に市場が移転してくることに決まるのである。

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築地の中央卸売市場の開場は1935(昭和10)年。なのでこの碑は、市場が出来上がった頃に、築地から離れていった海軍施設を偲んだ人によって建てられたことが想像できた。因みに碑名を記した齋藤實は、時の内閣総理大臣で、この学校の卒業生である。 

 

 

一方の「海軍軍医学校跡」碑。医学校は終戦の1945(昭和20)年まで続いた。石碑の文字は、最後の校長の神林美治軍医の筆であるということなので、学校が無くなってしまったことを偲んで建てられたのだろう。

 

海軍の医学教育は、1873(明治6年)に築地で海軍病院付属学舎として始まっている。その後、いろいろな変遷を辿ったものの、多くの医療関係者を育て、終戦を築地で迎えている。

 

 

関東大震災前の大正時代の頃に、かつての築地川の采女(うねめ)橋辺りから眺められる築地方面の建物があった。

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采女橋があるところは昔、築地川と築地川東支川の交差点だったそうだ。東支川に架かる「北門橋」のむこうに見えるのは、海軍大学校の海軍参考館という建物だった。

 

築地の海軍施設へ行くときは、この北門橋を渡ったのだろう。今はもう、東支川は完全に埋め立てられていて、川が流れていたという面影はない。

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采女橋の袂の高速出入口の隣の道は、かつて海軍の敷地に繋がる「北門橋」が東支川に架かっていた辺り。海軍の敷地への橋を渡るかのように道を進んでいけば、この海軍の2つの石碑を見つけることができる。

 

 

さて、築地の海軍関連で外せない石碑に向かってみる。築地場内市場の魚河岸水神社遙拝所にある「旗山」の石碑である。

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この石碑は、築地市場開場後の1937(昭和12)年に建てられた。この石碑の前面に書かれている文章は少し薄くなっている。読むのが難しいので、いい加減かもしれないが、概略はたぶんこのような感じである。

 

『・ここは徳川時代に松平定信の別邸「浴恩園」の景勝地に設けられた築山の一部だった。

 ・1869(明治2)年に海軍関連施設がこの地に置かれた。

 ・1872(明治5)年に海軍本省設立後、海軍卿旗をこの丘に立て、「旗山」と呼んだ。

 ・この地はまさに海軍経営の大元であり、その発祥の地といってよい。』

 

と、この地が海軍発祥の地であるいわれが語られている。

碑文はまだ続いていて、読むと石碑が建てられた時の思いが伝わってくる。

 

『・それ以来長い年月あった海軍施設が移転していき、わずか1、2の官庁が残っているのみである。

 ・地形はだいぶ変わってしまい、昔の面影を見つけ出すのも難しくなってきた。

 ・この旗山の地に碑を建てて思い出となるように残すことにした。

 ・1937(昭和12)年1月5日  海軍大臣 永野修身 』

 

今年の10月に豊洲へと移転する築地の市場。去っていくことを寂しいと思う気持ちは、築地から海軍施設が去っていった80数年前も同じだったようだ。

s_hanabi61-7.jpg市場の移転に伴い、魚河岸水神社の遙拝所も豊洲へと移転していく。しかしこの旗山の石碑は、建てられた時の心情と共に、ここ築地の地に残り続けていくのだろう。

 

 

そして最後に、勝鬨橋の袂にある「海軍経理学校之碑」の石碑である。

s_hanabi61-8.jpg鏡面仕上げで、勝鬨橋も碑面に映すこの石碑は、碑文が分かり易くて読む人に優しい。

 

学校は1874(明治7)年に芝山で海軍会計学舎として開設され、その後築地に移転。日露戦争後の1907(明治40)年に海軍経理学校となり、震災後、今の築地市場の立体駐車場辺りに移されて終戦まで続いた。

 

石碑は1976(昭和51)年、戦後30年を機に、学校の同窓会によって建てられている。

 

この石碑には裏側にも文字が刻まれている。それは、この学校で学んだ人たちが見ると喜ぶ仕掛けになっている。またその内容は、学校がここ築地にあった頃の情景が伝わってくるものである。

 

ここでは内容を書かないことにしておこう。

s_hanabi61-9.jpg場外市場は築地に残り続ける。市場で楽しんだ後に、隅田川を眺められる勝鬨橋の袂で、石碑の裏を見て感じ取ってもらえたらと思う。

 

 

築地には、海軍関連の史跡はまだある。最近では史跡の碑も案内板のような形で作られることが多くなった。

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形にもよるかもしれないが、石碑は古くなっても保存しようとする心が働き、後年まで残り続けるものだ。そして建てた時の素直な心情が碑文に記されていれば、後年に読まれた時に味わい深いものが伝えられる気がしてならない。海軍の石碑を巡ってみて、そう感じた。

 

もしかしたら、こういうブログ記事も石碑みたいなものなのかもしれない。何かに感動したり、残念に思ったりしたことがあったら、後年に誰かが読んでくれることを信じて、素直にその時の心情を書き記しておいたほうが良いのではないかと思った。

 

 

 

NHKスペシャル、シリーズ「大江戸」

[CAM] 2018年6月11日 14:00

 

昨日(6月10日)のNHKスペシャルは、シリーズ「大江戸」の第2回でした。

NHKのサイトでは、下記のように紹介しています。

「第2集 驚異の成長!!あきんどが花開かせた"商都"」

「過去2000年間の世界経済を分析した国際共同研究によって、江戸中期の経済成長率(1人あたり)が、同時期の世界トップクラスだったことが判明しました。貿易を制限していた日本で、経済発展を支えたものは何だったのでしょうか?

日本橋の商家の記録などから、江戸に広がっていた庶民経済と、激しい競争社会の中で生まれた、独自のセーフティネットを探ります。」



 第1回は、4月29日の放送で、以下のような内容でした。第1回は、CGによる復元画像、最近発見された画像なども交えたもので、興味深いものでした。第2回は、日本橋の商家の歴史などを紹介するものでしたが、個人的には分析がやや浅かったように感じました。

「第1集 世界最大!!サムライが築いた"水の都"」

「江戸は、徳川家康が幕府を開いてから100年ほどで、世界最多の100万の人口を抱える巨大都市となりました。その原動力はどこにあったのでしょうか? 最近、江戸初期の都市計画を描いた図面や、幕末の写真ネガが見つかり、その変遷が分かってきました。

江戸は水を駆使して造り上げた、世界に類をみないユニークな都市だったのです。"水の都"江戸誕生の秘密に迫ります。」(NHKサイトから)



第3回は、次のような内容で、放送は7月1日の予定です。

「第3集 不屈の復興!!町人が闘った"大火の都"」

「江戸は3年に一度の割合で大火に襲われる、世界に例のない"火災の町"でした。最新の研究では、竜巻のような炎=火災旋風が猛威をふるっていたことも判明。人々はこの災厄の町とどう向き合い、復興を成し遂げたのでしょうか?

幕府による江戸大改造や、町民たちが生み出した防災対策の数々。それらの成果を、最新シミュレーションから解き明かします。」 (NHKサイトから)

 

 

千貫 船渡御、御旅所入

[あすなろ] 2018年6月11日 12:00

2018年のつきじ獅子祭は3年に一度の本祭りです。

江戸時代に行われ、近年川の埋め立てで行われなくなっていた「水鎮祭」が約100年ぶりに復活し、千貫宮神輿を船に乗せての「船渡御」が行われました。

 船渡御450.jpg

子供神輿も勢ぞろいし、水鎮祭が斎行され隅田川を下り、船はそのまま浜離宮へ。

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とても立派な浜離宮の御旅所で一泊し、翌日は築地周辺を渡御しました。

今年は特に力が入っていましたね。

◆波除神社
 東京都中央区築地6-20-37

◆浜離宮恩賜庭園
 東京都中央区浜離宮庭園1-1

 

 

縹色 閑寂な四葩の花

[あすなろ] 2018年6月 6日 09:00


人形町の紫陽花も見頃ですね。

日本紫陽花の在来種、額(萼)紫陽花です。

 末廣神社_450.jpg

ガクアジサイは、よく見かける華やかな品種と比べると

少し地味な感じですが、

控えめに咲く花は、雅な趣がありますね。

鑑賞花として改良され、

日本に逆輸入された西洋紫陽花も

梅雨の季節に、鬱陶しい気分を晴らしてくれます。

 人形町_450.jpg


「紫陽花や はなだにかはる きのふけふ」/子規 


 時の移ろいと重ねて、観るのもいいですね。

レトロな街並みに縹色の紫陽花がよく似合います。


◆末廣神社と人形町界隈(
東京都中央区日本橋人形町2-25-20

 

 

楓川跡を歩く(2)

[ジミニー☆クリケット] 2018年6月 4日 14:00

楓川跡を歩く)」の続きです

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楓川は、昭和30年代まで中央区に存在し、日本橋川兜町付近から南へ分流して、京橋川八丁堀桜川合流地点に至る河川でしたが、埋め立てられて、現在は首都高速道路都心環状線がその跡を通っています

上の地図黄色の部分です

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)は久安橋です

この橋は、八重洲通りが「首都高速」(旧・楓川)を渡る橋です

現在の橋は、関東大震災復興事業により、八重洲通りの造成と共に架け替えられたもので、重量感のあるアーチ橋です

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久安橋は、江戸時代に桑名藩松平越中守の上屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治元年に江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されたそうです

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宝橋)です

宝橋は、京橋八丁堀を結ぶ一方通行の狭い通りが、 「首都高速」(旧・楓川)を渡る橋です

下の写真は、宝橋上から南側の高速道路を見たところです

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宝橋の名称は、当時の楓川西側一帯の「京橋区 宝町」という町名からきているそうです

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)は水色の鳥居の天祖神社宝橋のすぐ近く、ビルの脇の細い参道を進んだ先に本殿があります

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小さな神社ですが、歴史があり、江戸時代前期の寛永元年に、伊勢長官出口市之正伊勢神宮皇大神宮別宮である伊雑宮を江戸日本橋通3丁目に奉斎したことに始まるそうです

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寛永10年には、八丁堀松屋町替地300坪および門前地をもって幕府の命により遷座したそうです

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松幡橋)です

東側の松屋町、西側の因幡町から各町名の一字ずつを取って、名付けられたそうです

江戸時代には松屋橋とも呼ばれました

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楓川の一番南端に架かる橋が弾正橋鍛冶橋通りにある橋です

こちらも、現在の橋は、関東大震災後の帝都復興事業によって架け替えられました

江戸初期には、東側に島田弾正忠利の屋敷があり京橋川白魚橋三十間堀川真福寺橋と併せて「三ツ橋」と呼ばれたそうです

明治11年には、日本初)の純国産鉄橋が架けられています

この鉄橋は昭和4年に江東区内に移設され、八幡橋と改称されています

下の写真は、弾正橋から南側の高速道路を眺めたところです

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今回、楓川沿いを歩いてみて1キロちょっとの距離でしたが、「川と掘割」によって積み重ねられた歴史の重みを感じることができました

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楓川跡を歩く

 

 

映画で旅するヨーロッパ:EU Film Days 2018

[Hanes] 2018年6月 3日 12:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
26日(土)から国立映画アーカイブ(旧:東京国立近代美術館フィルムセンター)にて、
EU加盟国の選りすぐりの映画を上映するEU Film Days 2018が始まりました。

昨年6月、「善意の行方」(オランダ)と「検事、弁護人、父親、そして息子」(ブルガリア)を観に行ってから、次の開催をずっと楽しみにしていたのです!
以前は、「ハリー・ポッター」のような有名なフィクション映画を観ていましたが、
英国留学中にお世話になったホストマザーの影響で、
日本で大々的に公開はされないものの、制作国で高く評価された作品にも興味を持ち、
機会があれば観に行くようになりました

そんな私がこのイベント初日に選んだ映画は、「キッツ先生の子供たち」(オランダ/原題:De kinderen van juf Kiet)!
シリアから戦火を逃れてオランダにやってきた移民や難民の子供たちと
彼らを受け持つキッツ先生のありのままの日々を収めたドキュメンタリー映画で、
なんと日本初公開
子供たちそれぞれの成長や等身大の悩みがとらえられており、
子供ならではの天真爛漫さには、たびたび笑いが起こっていました

本映画は京都や広島の会場でも上映されるため、ネタバレを含む感想は控えますが、
監督であるペトラ・ラタスター・ジッシュ氏、ペーター・ラタスター氏をお迎えしたゲストトークより、撮影・制作の裏話を少しご紹介します

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■キッツ先生との出会い
オランダでは、先生たちの低賃金が問題視されており、
監督のお二方は当初、先生の地位向上を訴えることのできる映画を制作したいと考えていたようです。
そこで、先生間のネットワークに面白い先生がいないか尋ねたことが、
キッツ先生との出会いにつながったそうです。

■子供たちとの関係づくり
撮影が9月1日の新学期初日から行われたため、監督のお二方もはじめは先生のように見られていたようですが、
子供たちは教室にいてもおかしくない存在として徐々に慣れ、
お二方を受け入れてくれるようになったそうです

■学校が撮影地
移民や難民の子供たちの中には、複雑な家庭事情を持つ子もいます。
しかし、本映画ではあくまでも学校で成長する子供たちの様子が中心となっています
これは、キッツ先生と初めて話した際に決まったことで、
先生ではなく、子供たちの想いを映画に残すことを優先してくださいともお話しになったそうです。
そのため、撮影は子供たちの目線の高さで行われました

EU28加盟国中25カ国の作品が上映されるEU Film Days 2018。
監督をはじめとする映画制作関係者のゲストトークが行われる回もあり、
ヨーロッパ映画に触れ、内容を掘り下げて理解する貴重な機会となっています。
これを機に映画でヨーロッパを旅してみてはいかがでしょうか飛行機

EU Film Days 2018

【東京】
期間:2018年5月26日(土)~6月21日(木)
会場:国立映画アーカイブ 長瀬記念ホールOZU (2階)

【京都】

期間:2018年6月2日(土)~6月24日(日)
会場:京都府京都文化博物館

【広島】

期間:2018年7月1日(日)~7月13日(金)
会場:広島市映像文化ライブラリー

公式ウェブサイト:https://eufilmdays.jp/


【小話】
国立映画アーカイブになってから映画を観に行くのは初めてで、
チケットのデザインが変わったことに気づきました

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※欧州連合代表部、オランダ大使館、国立映画アーカイブ(50音順)のご担当者様より
 掲載の了承をいただいております。
 監督のお二方のお写真は、ご本人より掲載許可をいただいております。