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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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椙森神社「富塚祈願祭」

[クラさん] 2017年9月 4日 14:00

9月2日は、語呂合わせ(「くじ」)で、「宝くじの日」です。

 

椙森神社では、くじの日に当たる9月2日(土)の10時3分(「「とみ」」)から「富塚祈願祭」が行われました。

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富塚は、大正9(1920)年に建立されましたが、関東大震災によって倒壊しました。その後、氏子の人々は有志を募り昭和28(1953)年に再建されたのが、今の富塚です。この富塚は他に類を見ないと言われ、日本で唯一のものだそうです。祈願祭は昨年から始まったそうですが、雨の中を氏子の方々を始め、多数の人々が参拝しました。富塚での祈願と共に、本殿前では御神酒をいただきました。

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社務所前には、御朱印や御守護・富久當籤入れ等を求める人の行列ができていました。

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椙森神社は遠く一千年の昔、江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建だそうです。江戸時代には江戸三森の一つであり、江戸三富の一つにも数えられる程の数多くの富籤が興業された事が、記録に残されています。また、五代目 柳家小さん師匠の噺『宿屋の富』では、この椙森神社や宿屋の場所が馬喰町である事が語られています(湯島天神を舞台とする噺もある)。 今日では宝くじの元祖として当神社の「富塚」を、多くの人々が心中祈願をしているようです。

 

 

 

茅場町周遊散歩 歴史探訪と神社参拝

[銀造] 2017年9月 1日 16:00

 普段訪れる事の少ない、茅場町と新川付近を散歩してきました。 静かな佇まいの地域で、お散歩には最適です。

 コース:東京メトロ東西線八丁堀駅3番出口から。お散歩の時間:茅場町周遊で1時間。全体なら約1時間半

 

1)河村瑞賢屋敷跡:所在地 中央区新川1-8、「ホテルヴィラフォンテーヌ茅場町」の前の道の植栽にあります。

 江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(16181699)の屋敷がありました。

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 瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦3年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。

 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。

 斎藤月岑(さとうげっしん)の「武功年表」によると、瑞賢は貞享年間(16841688)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。

 「御府内沿革図書」延宝年間(16731681)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます

 次は道なりに進んで、隣接のアクロス新川ビルを右折、次の角をまた右折して、新川大神宮へ。

 

2)新川大神宮:

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 境内に掲示された「新川大神宮再建由誌」によれば、

新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧・慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』ならびに江戸名所図会に詳しい。当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川2代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのにはじまり、其後、明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、この年、替地を霊巌島に賜り社殿を造営、以来実に300年を経た。爾来当地は河村瑞軒が隅田川に通じる水路を開いて舟楫の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を集め、とくに酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くと、これが初穂を神前に献じ、然る後はじめて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和20年(194539日の戦災に罹り社殿を烏有に帰した。その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を回復しつつあるのはまったく当宮御神威の賜ものである。
偶々昭和27年(1952)が講和条約発効独立回復の年にあたる故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年57日地鎮祭、95日上棟祭、1017日竣工遷宮ならびに例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。
ここに当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。 昭和271017日 

 新川大神宮のHPはこちらです。 http://shinkawadaijingu.or.jp/

  次は今来た道をアクロス新川ビルの角まで戻って右折・南下。越前堀跡(越前堀公園)へ。

 

3)越前堀跡(越前堀公園):所在地 中央区新川12丁目地域

 滑り台の向こうに、「霊巌島之碑」と「霊巌島の由来」(by 霊岸島保存会)の説明碑があります。

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「霊巌島の由来」(by 霊岸島保存会)によると、

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は1215間(2030m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。

 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。

 今では往時をしのぶ「霊岸島」や「越前堀」の名は、歴史でしか学ぶことができません。

写真の左手に越前堀公園が、正面奥に見えるのが明正小学校の建物です。

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 次は隣接する明正小学校の建物を拝見しましょう。   

 

4)明正小学校、

  平成28年に創立90周年を迎えた、大変由緒ある小学校です。

 昭和2年(西暦1927年)31日に、霊岸島(明治991日創立)、越前堀(明治4218日創立)の両尋常小学校を合併し、新たに東京市明正尋常小学校として開校されたとのことです。<中略> 平成2691日に新校舎での教育活動が再開されました。

 建築は、複合施設となっており、児童館も入っています。 高級マンションの様な大変素敵な設計です。 明正小学校等複合施設基本計画の概要、「その他」の所に、『現校舎の意匠を外観デザインとして継承するとともに、部材の利活用を図る。機能を充実した新川児童館を併設する。』 と記載されています。その詳細は、こちらのHPに書かれていますので、ご参考にして下さい。

https://www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/kaitiku/meishokaichikukeikaku.files/meisyokaichikukyogikai.pdf#search=%27%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA+%E6%98%8E%E6%AD%A3%27

  http://fkaidofudo.exblog.jp/10731739/

 

5)亀島橋

 橋の袂には、「亀島橋」、御船手組(将監河岸)、河村瑞賢の説明のパネルが設置されています。

 橋を渡った右手の植栽の中に、「堀部安兵衛武庸之碑」が建っています。

  橋の反対側(南側)には、東洲斎写楽、伊能忠敬についての説明のパネルが設置されています。

  右折して、亀島川を北上して、新亀島橋へ向かいます。

 

6)新亀島橋

 ①「正一位 純子稲荷大明神」が鎮座されています。

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 御鎮座は、元和二年1120日。

神璽は伏見稲荷大社、御神名は「純子大神」御祭神は豊受大神、宇賀之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四之大神とあります。

御神徳が精神、生命、生活、生業、生産、心身健全、御神意が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満、芸能成就、往来安全とあります。 まさに、All right. 御祭日は、二月の初午の碑、4月、11月御鎮座の日、元文2年(西暦1737年)1120日です。 町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請して、お祀したと言われています。 

  純子大神と名付けられた経緯は、継続して調べることにします。

 ②大震火災遭難者追悼碑、戦災遭難使者慰霊碑が新亀島橋西詰めに設置されています。

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  大震災、戦災で亡くなった方々のご冥福を祈りました。

 道なりに亀島川河畔を真っ直ぐ進み、台南茶寮という中華料理屋さんを左折して、少し南下します。

 

7)地図御用所跡の碑:

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亀島橋の南側にも、伊能忠敬先生についての説明がありましたが、ここに伊能忠敬先生が住んでいらっしゃったこと、測量図を作製するための地図御用所として利用されていたことが説明されています。

 ここまでで1時間の周遊コースです。茅場町駅へはスマイルホテルの前を通るのが近道です。

 

8)鳥居稲荷神社:茅場町3丁目20

 こちらは、鳥居丹波守忠瞭(下野壬生藩主)の上屋敷があり、その邸内社であったとの由来が説明されています。

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 朱の鳥居がとても鮮やかで、崇敬されていらっしゃる方の熱意が伝わってきます。

すこし北に行き、センターホテルの前を通過し、坂本小学校横、警視庁中央警察署の向かい側、千代田橋の手前に、大原稲荷神社が鎮座されています。

 

9)大原稲荷神社:

立派な社殿の裏には、御神木と思われる大銀杏がそびえています。私は、毎年東京マラソンの度に、参拝しています。 若い人たちは、パワースポットとして、元気を頂くためにお参りしているそうです。

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この地は日本橋川から楓川に通ずる運河要衝の地であったことから海運の神様、藤間流宗家在住の地であったことから芸能の神様として信仰されてきたようです。(藤間流は、藤間勘兵衞によって始められた。 勘兵衛は 能の狂言師で, 宝永年間に江戸へ出て 日本橋で踊りの師匠となり, 歌舞伎の振付師に取立てられたと伝えられる。)

左横から入る、裏の境内の銀杏は火災にあって被災していますが、逞しい生命力を感じます。また、神様のお使いである狛犬は、虎か豹の様な姿をしていました。

大原稲荷神社の社務所は隣のビルの7階にあるようですが、土曜日はドアが閉まっていました。

詳しく知りたい方は、社務所を訪れてはお聞きになっては如何でしょうか。

 さて、喉が渇いたし、お腹も空いてきました。 近辺には、手頃で良心的なお店が沢山あります。 その情報は、別途掲載します。 それでは、ごきげんよう! 20170805

 

 

【中央区大好き!になります】84.0MHz ハローラジオシティ(中央エフエム)

[お染] 2017年8月31日 09:00

もう9月だなんて...早いですね。
中央区観光協会の特派員になって三年半。赤ん坊だった息子ももうすぐ4歳です。

    

    

先日は、特派員の活動の一つである ラジオ収録 に行って参りました。
中央エフエム 「Hello! RADIO CITY」 という番組内の1コーナーで、特派員ブログの内容を紹介するのです(`・ω・´)!

    

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中央エフエム。京橋スクエアガーデンの地下1階スタジオ。
外から見えます^^

    

    
収録、実はもう5回目なんですよね。

    

初めての収録のとき、まさか自分がラジオでしゃべることになると思っていなかったので、マイクの前でドキドキしすぎて、何を話したかあまり覚えていません。(今もそうか...笑)

    

でも、毎回 ナビゲーターのJUMIさん が明るく導いてくださって、思ったよりもペラペラ話せたり、ゲラゲラ笑ったり、普段は人前で話すのが得意ではないのですが、ここでは話すことが楽しく感じます

    
ただ、最後に言う決め台詞 「大好き、中央区!」 はなぜだかどうしても照れてしまって、妙なローテンションになってしまいます(>_<)
本当に大好きなのに!!!笑

    

    

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ナビゲーターのJUMIさん
働くママとしても先輩で、憧れの女性です。

    

    
また、特派員同士が顔を合わせる機会があまりないので、収録の際にご一緒できるのも楽しみの一つです。顔を合わせてお話を伺うと「おぉ~、この方がブログネーム○○さん!」とグッと親近感が増します

     
今回は 「隅田の花火」さん とご一緒させていただきました。
「隅田の花火」さんのブログは、お写真が特にオシャレでかっこいいなぁと思っていたので、
ブログを書くときの写真の撮り方やカメラのお話ができて、嬉しかったです(*^^*)

    

    
そんなこんなで、特派員は中央区のことについてブログを書いたりラジオでしゃべったりしています。

    

中央エフエム 「Hello! RADIO CITY」
ブログの裏話など、耳で聞くことで新たな発見もあり、おススメです☆
中央区の魅力 をますます感じることができますよ。

     

    
◆中央エフエム(84.0MHz)
HP:http://fm840.jp/
 ◆「Hello!RADIO CITY」:月曜~金曜 12:00~13:00 (再18:00~19:00)
   http://fm840.jp/blog/hello/

   

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築地場外市場の底力

[下町トム] 2017年8月30日 14:00

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先日〔場外市場〕で発生した火災は一時周辺が大混乱になる大事件でしたが、幸いにも人的被害がなくホッとしました。古い木造建築が密集している地域なので本当にどうなることかと心配していました。皆さんも驚かれたことでしょう。

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火事でお店が倒壊したり破損して営業できなくなった店がいくつかあり、心を痛めていましたが、火災現場にはいくつもの手書きの注意書きが掲げてあり、「別のところで仮営業しています」という文字が目に留まります。ブルーシートの切なさもなんのその、決してめげない力強さに触れてこちらも勇気づけられます。

 

IMG_5176 (2).JPGある八百屋さんは近くのガソリンスタンドの脇で朝のうちだけの青空営業を続けていらっしゃいます。常連さんが多く、次々と野菜が売れていきます。その都度「頑張って下さいね」とか「営業してもらってよかった」というような励ましや親しみの声が交わされています。

 

築地には人情があふれるだけではなく、逆境に負けない強い心の人たちがしっかりと食文化を支えています。どうか築地〔場外市場〕の発展と巻き返しを応援してあげてください。そしてお近くに来られた際には是非足を運んでいただけたらと思います。よろしくお願いします。

 

 

人形町に行ってきました!

[株式会社 彦晴] 2017年8月30日 09:00

人形町に行ってきました!

 

知っている人も多いかと思いますが"人形町"という正式な地名の歴史は浅いです。「人形町は、現在三丁あって、水天宮の電停から北北西の方向に堀留町にいたる都電路線の両側を占めており、正しい町名としては、昭和八年住吉町、堺町、新和泉町、芳町、元大阪町、蛎殻町、松島町の一部をまとめて起立されたのである。しかし水天宮とともに、人形町の呼び名は、ふるくから有名であった」『中央区史』より

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水天宮前交差点よりの水天宮(安産と水難にご利益があるといわれ、戌の日には多くの参拝者で賑わいます)

 

そして、人形町の発展に大きな要因となったのは明治5年に蛎殻町の有馬候中屋敷に芝赤羽橋有馬候上屋敷から水天宮が移ってきたことにある。そして水天宮の門前町として発展していったのである。

 

「毎月一日・五日・十五日・戌の日に月次祭を行うが、初水天宮・例大祭(五月五日)・戌の年戌の日には遠近より来り詣でる人々多く繁華雑踏を呈するが、その繁昌ぶりは他にその比を見ないといわれる。神楽七十五座や地元有志の余興が奉納され、境内外には縁日がところ狭しと立ちならび、参詣者陸続としてつづく盛況は都下の一異観であった」『中央区史』より

 

しかし大正震災の後は各地に新興商店街が誕生し、発展したり百貨店の繁栄が人形町を衰退させていた。戦後においても、一般的に社寺は振るわなかったため、水天宮も同じく現代のような注目されることはなかったのです。

 

さて、時代の移り変わって2017年人形町は素晴らしい街へと変貌しました。

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地下鉄日比谷線のA1・A2出口から地上に上がると人形町通りを挟んで2台のからくり時計が訪問者を迎えてくれます。

 

人形町と言えば、甘酒横丁、蛎殻銀座跡、西郷隆盛屋敷跡、谷崎潤一郎生誕の地、日本橋七福神、玄次店などが有名ですね。今回は水天宮前交差点から甘酒横丁交差点までにスポットを当てて街歩きしてきました。

 

水天宮交差点は三原堂本店と重盛永信堂が人形町通りを挟んで立っております。重盛の人形焼き・ゼイタク煎餅は人形町土産としてとても有名です。三原堂のどら焼き・豆大福もとても人気がありますが、私が個人的にお薦めするのは塩せんべいです。絶妙な味付けで後を引きます。人形町通りをそのまま甘酒横丁方面に進み、右手からニッキの香りが漂ってきたら、寿堂に到着です。ニッキの香りの黄金芋は人形町の名物です。そのまま道なりに進むと右手に玉英堂があります。玉英堂のとらやきが有名ですが、私は"玉饅"をお薦めしたいです。饅頭が5層からできていて見た目も楽しめて程よい甘さがとてもよいのです。また玉英堂の現在立っている地に"尾張屋"という甘酒屋があったことが甘酒横丁に由来することも有名です。

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三原堂本店 重盛永信堂 寿堂 玉英堂

 

その玉英堂を右折すると甘酒横丁です。甘酒横丁を直進すると明治座へと繋がっています。この甘酒横丁には、つづら店や三味線・ばちなどなどを扱う楽器店などの老舗がいくつもあります。また甘酒横丁を右折して少し進んだ右手には

鯛焼きで有名な柳屋もあります。しかし今回は右折しないで左折してみることにしました。

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するとすぐ目に入ってくるのが、"谷崎潤一郎生誕の地"の石碑です。谷崎潤一郎は、明治19年この地にあった祖父の家、谷崎活版所に生まれたそうです。なおこの石碑の書は谷崎潤一郎夫人の松子さんによるとのことです。

 

その先にあるのは日本橋小学校です。現在リノベーション工事中でした。ここは西郷隆盛屋敷跡として有名です。江戸時代にはこの地は姫路藩酒井家の下屋敷となっていました。また、明治6年の沽券図には「蛎殻町一丁目壹番 二千六百三十三坪 金千五百八十六円 西郷隆盛」との記載が残っています。

西郷隆盛はこの地には明治4年より明治6年までの2年間のみの滞在となります。明治六年の政変にて鹿児島へと戻り、明治10年西南戦争を起こして自害をすることになるのです。

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また、人形町にはこんな路地が残っていて下町情緒を感じられます。

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最後に日本橋七福神の二社を紹介して今回のブログを終了しようと思います。

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    茶ノ木神社         松島神社

 

茶ノ木神社 「この地には下総国佐倉藩堀田家の中屋敷があり、その守護神として祭神を祀った。神社の周囲にぐるり植え込まれた茶ノ木が、名称の由来と伝わる」『中央区物知り百科』より(日本橋七福神の布袋尊)

 

松島神社「松島町にあり、創祀の年月は元享以前と伝えられ、神霊は天正十三年吉見兼見の勧請するところであるという。保食神を祀る、住吉この辺が海洲であったころ、海中に松樹ある小島があった。島の祠を俗に松島稲荷と称したのだという。正徳三年この地が町地になった際、とって町名とした」『中央区史』より また松島神社は毎年酉の市が開催されることでも有名であり、社はビル1階部分に組み込まれています。(日本橋七福神の大国神)

 

今回は人形町の一部分にスポットを当てブログを書きましたが、まだまだ人形町の魅力について書ききれておりません。今回触れることができなかった、蛎殻銀座跡や大門通などについても別の回にて記載してみたいと思ってます。

それにしても、人形町は歴史・文化においてとても内容の深い街でした。

 

 

中央区はじめて物語

[にゃんボク] 2017年8月29日 09:00

 お盆休みも終わり、夏休み気分ももうすっかり過ぎ去った過去、といった皆さんも 多いかもしれません。

 

夏休みといえば、私は港区の職場に通っているのですが、 私の席の周りを見ても、青森、秋田、広島、石川、岐阜、奈良、新潟、埼玉・・・ と、東京ではない実家に帰省するメンバーが大半です。いや、下手をすると東京 出身者が一番少ないのではないかというレベルです。

 

東京に全国から人が集まっていることは当然今に始まったわけではなく、 作家の永井荷風氏は、「ぼく東綺譚」(ぼくとうきだん)にて 関東大震災(1923年)後の銀座の飲食店について「今はことごとく関西もしくは 九州から来た人の経営にゆだねられた」と書いており、地元の人が減少し、地方 の人が多くなったと指摘しています。

全国のいいところを吸収し、その良さをさらに発展させて独自の文化を作っている のが東京の良さ・奥深さの一つではないでしょうか。

 

さて、ここで、中央区の観光協会が発行している 「はじめて物語マップ」をもとに、「永井荷風氏が暮らした時代」 (1879年~1959年)の中央区において "はじめて"生み出されたグルメ/食文化を羅列してみたいと思います。

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・フルーツパーラー(1890年)

・親子丼(1891年)

・ポークカツレツ(1899年)

・あんみつ(1930年)

・お子様ランチ(1930年)

・レバーフライ(1932年)

・カツカレー(1948年)

・ハヤシライス(1954年) 等

改めて振り返ってみると、この時代に中央区で生み出されたものが思った以上 にある、と感じました。胃袋を満たしながら中央区のはじめて物語を順にたどるのも面白そうですね