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楓川跡を歩く(1)

[ジミニー☆クリケット] 2018年6月 2日 09:00

先日(5月27日)、このブログでご紹介した「川と掘割"20の跡"を辿る江戸東京歴史散歩」(岡本哲志著、PHP新書)を読んで、かつて存在した楓川に興味を抱き、楓川沿いを歩いてみました

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楓川は、日本橋川兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川八丁堀桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2キロメートル の河川でしたが、1960年(昭和35年)から1965年(昭和40年)にかけて埋め立てられて、現在は首都高速道路都心環状線がその跡を通っています

下の地図黄色の部分がかつて楓川が流れていたところです

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そのスタート地点()は、かつて兜橋があったところ

下の写真は、兜神社前から兜橋が架かっていたであろう場所の眺めです

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兜神社です

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境内には、前九年の役で、源義家が立ち寄って戦勝を祈願したと伝えられる兜岩があります

これが兜町町名の由来となりました

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)は、海運橋の架かっていたところです

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江戸初期は髙橋、後に海賊橋将監橋と称されたとのこと

明治元年(1868年)、「開運」と掛けて海運橋と改称されました

現在は、2基の親柱のみが残されています

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千代田橋は、永代通り楓川を渡るのに架けられた橋です

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大原稲荷神社は、千代田橋の南側、歩いてすぐのところに、高速道路を背にして祀られています

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新場橋)です

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中之橋楓橋の別称もあったとのことで、延宝2年、西側に日本橋魚河岸に続く第二の魚河岸)として新肴場新肴場河岸)が設置され、新場と略されたそうです

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新場橋の橋上から北側高速道路を眺めると、高架から楓川川底に向かって道路が下って来ているのがよくわかります

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新場橋のすぐそば、さくら通りからちょっと入ったところにある鳥居稲荷神社です

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静かな場所に建っていて、「正一位」の文字が印象的です

楓川跡を歩くに続きます。〕

 

 

日本橋室町・本町で路地探検

[しばしばしばた] 2018年5月31日 12:00

こんにちは! きょうは、日本橋室町に残る路地をご紹介したいと思います。

 

日本橋室町というと、「中央通り」のイメージが強いかと思います。
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江戸時代からの江戸・東京を代表するメインストリートで、
日本橋三越本店三井本館(いずれも国指定重要文化財)、さまざまな老舗、
最近では地方のアンテナショップの数々も見どころです。

 

この「中央通り」から東側に入っていくと、
日本橋室町一丁目から日本橋本町一丁目にかけて、昔からの路地が多く残っています。

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(この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平30情使、 第225号))

上の地図で赤く着色した道が、路地になります。

中央区の多くの地域では関東大震災後の復興事業によって広幅員の街路や区画が整備され、それが現在の街のベースとなっていますが、

その街区の中が小さな家屋で構成される場合、敷地の中に細い路地(私道)が引き込まれそれぞれへのアクセス路となっていたようです。

江戸の町人地の都市構造は、表通りに面したお店の間から路地に入って裏長屋につながるという形だったようですが、

ある意味、同じ構造が震災復興の近代化の中でも引き継がれているのではないでしょうか。

そしてその後、戦災、高度経済成長、近年の都市再生など様々な状況の変化を受けつつも、今も姿をとどめているのです。

 

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室町の路地のうちの1つです。中央通りとはうってかわって、生活感のある街並みになっています。

 

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表通り沿いがビルに建て替わっているところでは、暗がりの中でまるで探検しているかのような気分です。

 

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軒先に植物が置かれているところも多く、目を楽しませてくれます。

 

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少しマニアックな視点ですが...

日本橋周辺の路地の特徴として、「排水溝が道の真ん中にある」ことが挙げられます。

一般的な道路では、車両の通行を考慮して、道の両脇に排水溝が設けられますが、

ここでは道の真ん中がくぼみになり、水が集まるようになっています。

江戸では、当時から雨水や生活排水を流す下水道システムが整っていたといわれていて、

長屋の間の路地ではその水路が道の真ん中に流れていたそうです。

もしかしたら、日本橋の路地の排水溝は江戸時代の下水道の名残とも言えるかもしれません。

 

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多くの路地沿いでは、飲食店を中心にさまざまな店舗が営業されています。
隠れた名店を探す楽しみがありますね。

 
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中には写真の「金子半之助」さんのように、いつも行列が絶えないお店もあります。

 

今回記事を書くにあたり、室町1丁目~本町1丁目の路地を一通り歩きましたが、

路地それぞれが違った雰囲気を持っているのも魅力で、

日本橋をより一層深く楽しむことができました

 

参考資料:

・小林一郎(2014)「横丁と路地を歩く」

「江戸の下水道」(小平市ホームページ)

 

 

つきじ獅子祭で船渡御が再び! (波除稲荷神社)

[GPP] 2018年5月31日 09:00

 2018年6月6日(水)~10日(日)、つきじ獅子祭の3年に1度の本祭が開催されます。

 宮神輿、雄獅子・雌獅子の御巡行が楽しみな本祭ですが、2018年は更に特別なイベントを見ることができ、大変盛り上がります!

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雄獅子

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雌獅子

 なんと! 江戸時代に行われて、今まで途絶えていた「宮神輿の船渡御」が復興!するんです。

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あの、築地大橋の下を渡御するところ...観たいですね....

 宮神輿を船に乗せての船渡御は6月8日(金)午後。

 御巡行スケジュール・ルートが特設ホームページに掲載されていますので是非。

  特設ホームページ(http://www.namiyoke.or.jp/shishimaturitokusetsu.html)

 テレビ放送も予定されているそうです。

  東京ベイネットワーク(http://www.baynet.ne.jp/)

 

 

◆ 汐留川と築地川・建築ロマン街道

[隅田の花火] 2018年5月30日 12:00

築地にある波除神社の「つきじ獅子祭り」。今年は3年に1回の本祭りで、6月8日には江戸時代に行われていた「船渡御」が復興される。築地市場から隅田川に出て水鎮祭を行ったあと、浜離宮と築地市場の間を流れる「築地川」を進み、浜離宮の大手門橋まで渡御するのだそうだ。

 

大手門橋の真上にある、カレッタ汐留46階の無料展望スペース。右に浜離宮、左に築地市場、上に隅田川、そして真ん中には神輿が渡御する築地川を見下ろすことができた。

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46階から浜離宮の「大手門橋」まで下りて来た。築地川をまたぐこの橋は、「南門橋」ともいう。ここは昔、築地川と汐留川が接するような形で流れていたものの、それぞれの川の上流は埋め立てられてしまっている。水をたたえているのはこの浜離宮の周りだけなので、昔の名残が残る貴重な場所なのである。

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埋め立てられ、今は高速道路が走っているところには、どのような風景が広がっていたのだろうか。昔の川沿いを少し歩いてみて、かつての水辺付近にあった風景に思いを馳せてみることにする。

 

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【昔の汐留川沿い】
昔の鉄道の踏切信号機が残されている辺り(①)。ここの町名は銀座だが、昔は木挽町と呼ばれていた。現在、銀座郵便局があるこの場所には、明治から大正にかけて「逓信省」のルネサンス様式の大建築があった。

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汐留川に面し、新橋の方向を向いていたようで、建物の中には逓信博物館もあった。残念ながら関東大震災で焼失してしまったが、今の殺風景な高速道路沿いからは想像もできないような水辺の風景が、この時代にはあった。

 

 

 

【築地川の千代橋(せんだいばし)】
明治大正の時代には無かった橋のようで、関東大震災後に復興橋梁として架けられた。江戸時代に「仙台橋」という橋がこの辺りに架けられていたので、その名を踏襲して名付けられたのだろう。

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形は復興局が編み出した「復興局型橋梁」と言われる橋で、近隣の川にもいくつか架けられたタイプの橋だった。それらの中でもこの千代橋は特に美しかったのだろうと、残っている親柱や高欄を見ると感じられてしまう。実際、そうだったらしい。

今は残念ながら橋の両外側に公園のスペースができてしまい、それがアダとなってかつての千代橋の外観を眺めることができない。

 

なぜこの橋が特に美しく架けられたのかについては、またいつか考えてみたい。

 

 

 

【築地川跡の采女橋と万年橋の辺り】

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万年橋際の築地川銀座公園にある「名犬チロリ」の像。チロリが向いている「万年橋」と「采女(うねめ)橋」の方向には、絵になる建築風景が多く存在していた。築地の外国人居留地と銀座の煉瓦街に挟まれた辺りだったので、和洋混合の街並みが形成されたのだという。時代別に見てみたい。

 

《采女橋・関東大震災前》

築地側から采女橋越しに銀座(木挽町)側を眺めてみる。左にある建物は以前、日産自動車の本社が入っていた銀座六丁目スクエアビル(②)。そして、みゆき通りを挟んだ右側は時事通信ビル(③)で、以前には銀座東急ホテルの建物があった。

s_hanabi60-7.jpg大正時代、ここには「農商務省」の大きな庁舎(②)、そして右隣には「築地精養軒」が立ち並び(③)、築地川沿いは大正ロマンの様相を呈していた。

 

「農商務省」はフランス古典様式と言われる西洋建築で、1891(明治24)年の新家孝正の設計。建物の中には、農・工・商業を奨励する目的で見本品などを並べる商品陳列所もあったといい、殖産興業政策や官民協力の場としての役割を果たしている。

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一方、隣の築地精養軒の建っていた場所は当時「采女町」と言った。精養軒の歴史は古く、1872(明治5)年に皇居前の馬場先門で開業した。しかしその開業当日に「銀座大火」で類焼を受けたため、木挽町に移転。そして翌年に隣の采女町のこの地に新しい建物を建てて本格的にホテル・レストランの営業を開始したのだという。

 

築地精養軒は、本格的な西洋料理を提供する店として明治初年の文明開化に大きく貢献。その後の西洋料理の普及にも繋がったことを考えると、その歴史的意義は大きかった。

s_hanabi60-9.jpg建物はチェコのヤン・レッツェル(ヤン・レツル)の設計により、1909(明治42)年に建替られ、築地川沿いを華やかにした。この人は原爆ドームとなった「広島県物産陳列館」の設計者としても知られている。

 

残念ながら隣の「農商務省」とともに関東大震災により焼失する運命となってしまった。

 

 

 

《万年橋・関東大震災後》

万年橋際には、震災後の1930(昭和5)年に東京劇場が開業した。その重厚な姿は、この辺りでも威容を誇っていたという(④)。

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すぐ近くの歌舞伎座が太平洋戦争で焼失してしまったため、被災を免れたこの東劇が戦後に歌舞伎の中心地となった時代もあったが、1975(昭和50)に現在の建物に改築されている。

 

 

 

《采女橋・関東大震災後》

震災後、采女橋の隣には木挽町の新橋演舞場が1925(大正14)年に完成している(⑤)。

s_hanabi60-11.jpg震災前に着工したが、震災が影響して完成が延びてしまった。この場所は築地川がクランク状に屈折していたところで、建てられる前は鬱蒼とした木々が繁っていたという。こけら落としは、第1回の「東をどり」だったそうだ。

 

設計は、銀座ライオンの設計者としても知られている菅原栄蔵。外壁には震災復興期に流行ったテラコッタ装飾(やき物装飾)があり、この建物の特徴のひとつだった。

 

1982(昭和57)年に現在の建物に再建。正面入口からロビーに入ると、四角形の木製装飾壁に出迎えられる。これはテラコッタの文様を写して作られたものである。5月下旬は毎年「東をどり」の季節となっており、今年で94回目を迎えた。

 

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このように汐留川や築地川沿いには、当時の人々が絵葉書にしたいと思うような建築のある水辺風景が広がっていた。しかし現在はその風景を想像するしかない、というのが実に残念である。

 

今、築地川にはかつての川底を縫うように首都高速が走っているが、その上に蓋をして大きな公園にするという構想があるのだという。蓋をしてしまうと、僅かに残っている水辺の面影が無くなってしまうかもしれない。

 

しかし今よりも、後世の人に良い風景を残してあげられるのだとすれば、良いことなのだと前向きに考えたい。

 

 

 

江戸の粋を伝える染め物技術

[下町トム] 2018年5月29日 14:00

中央区にはいくつもの「まちかど展示館」が制定されていますが、その中のひとつ「ゆかた博物館」は人形町駅からもほど近い路地にあります。ある日、事前に電話で予約してからお訪ねしました。

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この施設は、三勝株式会社の社屋の一部を展示館として開放して下さっています。館長の清水敬三郎さんはとても穏やかな語り口で、江戸の染め物の歴史や伝統技術について丁寧に語っていただきました。特別に撮影も許可していただきました。

 

三勝ゆかた_20180518(1)_R.jpg飾られている浴衣生地の中には明治のころの古い技術が生かされた見事な一品もあります。「中型染」という大変手間のかかる技法を確かな腕で残したのは、三勝の専属職人だった清水幸太郎さんです。後に人間国宝となった方ですが、今の館長のお父様です。
 
「三勝」という名前の由来を館長にお尋ねしたところ、創業者の名前が天野半七というところから、浄瑠璃の「三勝半七」にあやかって名付けたということです。この作品は実際に江戸時代の大坂であった心中事件をもとに浄瑠璃作品に仕立てたもので、明治時代のころまでは誰でも知っている人気狂言だったようです。
現代でも文楽でたまに演じられる「艶姿女舞衣」 。酒屋の段で出てくる有名な台詞が あります。「今頃は半七さん どこでどうしてござろうぞ」。
昔から人形浄瑠璃や歌舞伎の街として栄えた人形町界隈で、そんな名前が残っていることも風趣を感じる一日でした。

 

 

 

夏椿 一期一会の可憐な姿

[あすなろ] 2018年5月29日 12:00


夏椿(別名:シャラノキ)が咲き始めました。

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清楚な白い花は、なんとも涼しげな風情があります。

利休七選花の1つ夏椿は、朝に開花し、夕方には落花する一日花です。

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ぱっと咲いて潔く散る様は、「一期一会」の意味を持つとされ、

まさに茶道の心得に通じますね。

利休さんは、この儚さと意味を感じ入ったのかもしれません。

中央区:水とみどりのふれあいマップ
 隅田川月島緑道(
 
利休七選花「山法師」/過去ブログ