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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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【遠足シリーズ第9弾】漁民が結んだ縁の島

[Hanes] 2018年11月28日 18:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
先日大阪出張時の昼休みを利用して、駆け足で中央区ゆかりの地に行ってきました
それが、大阪市西淀川区にあるです!



佃と聞いてピンときた読者の方も多いのではないでしょうか?
そうです。大阪の佃は中央区の佃島と関係があるのです

中央区の佃島は、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区)から江戸入りした漁民が埋め立て、正保元年(1644年)にできました。
では、なぜ遠く離れた摂津国の漁民たちによって築造されたのでしょうか?
そのきっかけは、ちょっとした縁にありました。

天正14年(1586年)、徳川家康が大阪住吉大社と摂津多田神社を参拝。
その際に神崎川の渡船を務めたのが、今回の主人公佃の漁民でした

kanzaki river.jpg
(向かって左側が佃)

慶長17年(1612年)、彼らは将軍家に献魚の役目を命じられ、田蓑神社宮司の弟や佃村の庄屋森孫右衛門を含む、佃・大和田の漁民33名が江戸に入り、
日本のどの海でも漁ができ、免税対象となるといった漁業権の特権が与えられました。
当初彼らは日本橋小網町に居住し、江戸湾で漁業を営んでいましたが、
後に幕府よりいただいた鉄砲洲の地を埋め立て造成し、
故郷にちなんで「佃島」と命名し、移住

後に、幕府に献上した残りの魚を板船の上に並べて一般の人にも売るようになり、
それは先日ご紹介した日本橋魚河岸の始まりとなりました。

日本橋魚河岸発祥の地.jpg

住吉の大神を祀る大阪・佃の産土神田蓑神社には、

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中央区の発展に大きく貢献した漁民にまつわる碑があります

佃漁民ゆかりの地.jpg

境内には、家康の没後祀られたという東照宮もあり、佃と将軍家の特別な縁をうかがわせます

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そして、漁民の代表ともいえる森孫右衛門のお墓が、神社から近い正行寺にあります。
お寺の方曰く、子孫のご意向もあり、保存の関係上現在は一般公開していないとのことでした。

正行寺.jpg

しかし、中央区の築地本願寺では、「森孫右衛門供養塔」を見ることができます
こちらは彼の200年忌である1861年に建てられました。

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右側面には佃島の漁師と徳川家の関わり、左側面には佃島の成り立ち等が刻まれています。

森孫右衛門供養塔.jpg
(右:右側面、左:左側面)

そして最後に、中央区観光検定受験者はチェックしておきたい佃に関する文化財「白魚献上箱」をご紹介します
こちらは、佃島の漁師が将軍に白魚を献上する際に使用したもので、
朱塗りの内箱(ふたの部分に金泥で「御膳白魚箱 佃嶌」と書かれている)を
黒漆塗りの挟み箱(朱漆で「御膳御用 御本丸」と書かれている)に入れ、かつぎ棒を通して運んだといわれています

御用漁は毎年11月~3月に、定置網の一種である建網漁法にて行われました。
その様子は、『江戸名所図会』にも見ることができます。
こうして漁民にスポットライトを当ててみると、自然と彼らの生活が目に浮かんできませんか?

摂津国・佃から不思議な縁があって江戸に移り住んだ漁民たち。
そんな彼らが結んだ縁には、将軍家との縁のみならず、江戸と摂津の縁もありました
現在でも中央区立佃島小学校と大阪市立佃小学校の学生が交流するなど、
漁民が結んだ縁の島では今でも良い関係が続いています

【参考資料】
大阪あそ歩(Osaka Asobo)「千船駅(阪神本線)佃漁民ゆかりの地を歩く」

【観光検定の文化財対策で役立つサイト】
中央区「中央区文化財」http://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/
(より詳しい書籍版は、区内の図書館で借りられます

【余談】
江戸時代において、市中からわずかに海を隔てた佃島は、市中の人にとって魅力ある場所でした。
藤見物、住吉神社祭礼、潮干狩りなどで観光名所となっていたようで、
その様子は、『江戸名物鹿子』や『絵本 江戸土産』に描かれています。

 

 

【遠足シリーズ第8弾】渋沢栄一の足跡をたどって...

[Hanes] 2018年11月22日 18:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
前回の遠足シリーズでは、深谷市の煉瓦に焦点を当てて中央区との関係性について取り上げましたが、
その際のキーパーソンとなったのが、近代日本経済の父と称される渋沢栄一でした。
今回は彼の生涯の一部をピックアップしながら、中央区との関係性をご紹介したいと思います。
 
■渋沢栄一の生涯:豪農の子から子爵へ
渋沢栄一は、1840年に現在の深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれました。
彼の生地に建つ「中の家(なかんち)」は、1895年に栄一の妹夫妻によって建てられたものですが、
一般開放されており、見学することができるようになっています。

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7歳からは、いとこの尾高惇忠から論語をはじめとする学問を学び、尊王攘夷思想の影響を受けました。
17歳では、いとこらとともに高崎城乗っ取りおよび横浜異人館焼き討ちを企てましたが、中止。

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(こちらの写真に写っている、尾高惇忠生家の2階でその計画を練ったと言われています。)

24歳では、徳川幕藩体制に疑問を抱き尊王攘夷運動に参加するも、
御三卿(将軍家、御三家に次ぐ高い位の家柄)のひとつであった一橋家および幕府に仕えるようになり、
1867年には15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行してパリ万博へ。
尊王攘夷思想を覆すようなヨーロッパの進んだ思想・文化・社会を目の当たりにし、
帰国後は大隈重信の説得により明治新政府の大蔵省に仕えました。

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(渋沢栄一記念館にて撮影した記念館および渋沢栄一の像)

大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職した後、実業界の最高指導者に君臨
それ以降亡くなるまでに600以上の福祉事業にかかわり、国際親善にも貢献しました。

■中央区との関わり
彼は数々の企業や大学等の設立にも尽力しており、区内での代表的な貢献として、
第一国立銀行の総監役や聖路加国際病院の初代理事を務めたことが挙げられます。

そして、都内にいくつかあった彼の邸宅ですが、なんと日本橋兜町にもあり、

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跡地は現在、日証館(東京証券取引所の隣、日本橋川に面している)となっています。
古典様式風の三層構造やアーチ窓が美しいこちらの建物は、
日本政策銀行の不動産評価でゴールド評価を得ており、
重厚な外観の証券会社がたち並んだ当時の面影を今に伝えている建物の一つです

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こうしてみると、中央区内にも意外と渋沢栄一ゆかりの地がありますね
必ずしも目に見えるものばかりではありませんが、
こうして歴史に名を残した人物をテーマにまち歩きをするのも面白いかもしれません

※本記事に含まれる深谷市の文化財のお写真につきましては、深谷市文化振興課のご担当者様より掲載許可をいただいております。

 

 

【遠足シリーズ第7弾】煉瓦が語る物語

[Hanes] 2018年11月19日 12:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
先月、先輩特派員いのちゃんさんが「ちょっとニューヨク・タイムズ―銭湯と愉しむまち歩き―」にて、10月10日銭湯の日であると紹介しておりました

そんな10月10日...明治15年(1882年)には、日本の歴史に残る出来事がありました。
それが、日本銀行の業務開始です!
日本橋箱崎町には、「日本銀行創業の地」を示す碑があり、そこには以下のように刻まれています。

明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
創業百周年を記念してこの碑を建てる
昭和五十七年十月
日本銀行総裁 前川春雄

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当時の日本銀行ですが、立派な煉瓦造りの建物だったと記録されています。
そのことは知っていても、いつの間にか「その煉瓦ってどこから来たんだろう...?」と疑問に思うようになり、
しばらく前にそれを解決してくれるであろう場所へ行ってきました。
それが、この駅がある場所です!

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一見東京駅の丸の内側のようですが、実はこちら埼玉県深谷市にある深谷駅なんです。
深谷市というと、深谷ねぎやかわいいゆるキャラのイメージが強いかもしれませんが、
かつては煉瓦の製造地としても名をはせていました。
創業当時の日本銀行もまた、深谷市の日本煉瓦製造株式会社で製造された煉瓦でできていたといいます

遡ること1886年、明治政府が欧米列強に対抗することを目的に、
日比谷周辺を近代的建築による官公庁街とする「官公集中計画」を立ち上げてから、
西洋風の煉瓦造りの建物にするため、大量の煉瓦が必要となりました。
その際に、以下の2つの理由から、渋沢栄一が実家近くの上敷免村を工場建設地に推薦しました。
①煉瓦作りに最適な良質の粘土が採れること。
(従来、瓦生産が盛んな場所でした。)
②舟運が見込めたから。
(小山川→利根川→江戸川→隅田川というルートを経て東京に運べます。)

ということで、一般公開している日本銀行の煉瓦製造地である旧煉瓦製造施設を訪問しました
奥に見える旧事務所(煉瓦史料館)にて、当時たくさんあった窯のジオラマや煉瓦、
中央停車場(現・東京駅)向けの煉瓦の請求書(明治40年8月21日付/こちらから構造用煉瓦8,332,000個を納入)等
興味深い資料を一通り見せていただいてから向かったのが、

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国重要文化財に指定されているホフマン輪窯6号窯
このホフマン輪窯は、全国でこちらを含めて4基しか残っていないという非常に貴重な文化財なのです

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ガイドさんに案内していただき、ヘルメットをかぶっていざ窯の中へ

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この写真を見て分かる通り、壁は非常に厚みのあるものになっています。
その理由は、煉瓦を焼く際に熱が逃げないようにするためだそうです
厚みは3mもあるというのだから驚きです!

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内部はこのようになっており、18の区切りがありました。
1つの区切りには36個の穴があり、その穴を通して2階から石炭を投げ込んでいたそうです

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煉瓦の焼き上がりには2週間を要し、焼き加減は2階から針金を入れて確認したそうです
ここで日本銀行に加え、東京駅丸ノ内本屋、旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)に使用された煉瓦が製造されたと考えると、
近代化する日本を物理的に支えた陰の立役者を見ているようで、なんだか感慨深くなりますね

たかが煉瓦、されど煉瓦。
建材の一つである煉瓦も、このように面白い物語を語ってくれます
煉瓦を通じて見えてきた中央区と深谷市の関係性については、
遠足シリーズ第8弾でも取り上げます。

■旧事務所(煉瓦史料館)・ホフマン輪窯6号窯
住所:埼玉県深谷市上敷免28-10
開館時間:9:00~16:00(最終入館15:30)
開館日:土、日(年末年始をのぞく)
入場料:無料
ウェブサイト:深谷市ホームページ「旧煉瓦製造施設」渋沢栄一デジタルミュージアム「旧煉瓦製造施設」

※文化財内外のお写真につきましては、深谷市文化振興課のご担当者様より掲載許可をいただいております。

 

 

Discover Chuo City:伝統と革新が融合する老舗「銀座寿司幸本店」

[Hanes] 2018年11月18日 09:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
恥ずかしながら、私自身グルメには疎いところがありまして、
中央区内に数多く存在する有名店については、区外のイベントや旅先の地で偶然知ることがあります。

先日は、お隣千代田区の丸の内仲通りで開催されたイベント丸の内シェフズクラブ10周年特別イベント「ロングテーブル"絆KIZUNA"」にて、
明治時代から続く銀座の老舗お寿司屋さん「銀座寿司幸本店」を知りました。
こちらのイベントでは、四代目主人の杉山 衛氏と山梨県産の食材のコラボメニューをいただくことができ、
そのメニューの1つが、「山の幸 海の幸 秋の恵み ねぎまラーメン」
こちらはお店ではお出ししていない特別メニューで、「お寿司屋さんが作ったラーメン」として人気となっていました。

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老舗お寿司屋さんが手がけたお料理が、ワンコイン(500円)
または無料(イベントに参加し、チケットをいただいた場合)だなんてとても得した気分でした

海の幸として、ラーメンには厚みのあるお魚の切り身が入っており、
ワンランク上のこだわりのラーメンであることが伝わってきました。
お好みで薫り高い高級山椒(やまつ辻田)をかけることもでき、
それぞれの食材のうまみを十分に楽しむことができました
まだ実際にお店に足を運んだことはありませんが、期待が高まります!

そしてなによりミシュランガイド東京1つ星を獲得したことがあり、
ワインとともにお寿司がいただけるという伝統に新たなエッセンスを加えたお店とのことなので、特別な機会にこちらのお店を利用してみてはいかがでしょうか

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◼️銀座寿司幸本店
住所:東京都中央区銀座6丁目3番8号
営業時間:11:30~22:30
関連ウェブサイト:銀座公式ウェブサイト「GINZA CONNECTIVE VOL.24  杉山 衛×高嶋 ちさ子」

※本記事は、銀座寿司幸本店のご担当者様より掲載許可をいただいております。

 

 

(三浦)按針メモリアルパーク(伊東市)

[yaz] 2018年11月14日 18:00

2018年11月10日、中央区観光協会特派員仲間と私が所属しているボランティアガイド団体「東京シティガイドクラブ」の仲間計8人で、江戸城石垣採石場「宇佐美のナコウ山」を登ってきました。(こちらは第三弾として、1月に報告の予定です。)

下山後、伊東駅近くの三浦按針(ウィリアム・アダムズ)が洋式船を建造したと言われる「按針メモリアルパーク」を訪問してきましたので報告します。

按針は、江戸日本橋に屋敷を貰い日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの一男一女をもうけ、日本橋とは強い繋がりを見せています。1598年にヤンヨーステンと共にリーフデ号で東洋に向かい、乗員24名と共に大分県臼杵市に漂着しました。徳川家康は三浦按針の能力を高評価し、政治・外交顧問として徴用し日本橋の屋敷の他、三浦半島逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。按針の名は、水先案内人を当時按針と称していたことによります。

慶長9年から11年の頃、家康の命令で浦賀水軍の総帥・向井将監と船大工一行とアダムスは、伊東の船大工を使い松川河口(唐人川合流地点)で日本初の洋式帆船80トンを建造し、この船で沿岸測量をしました。

造船所と考えられる場所は、「按針メモリアルパーク」のそばです。

 

按針メモリアルパーク指標.jpg

 

按針メモリアlパーク_地図.jpg

   

造船所と推定される場所に仲間と立ってみました。「想像より小さいな」というのが率直な印象です。

三浦按針造船所(2).JPGのサムネイル画像 PB100138.JPGのサムネイル画像

 

その後再び家康の命令を受け、外洋に出られる大型船120トンを建造し、慶長15年にこの120トンの船をイスパニア(スペイン)の提督ビベロに貸与して、アメリカを経てアカプルコ(メキシコ)に太平洋を横断して安着しました。     

         

三浦按針が制作した最初の洋式船.JPG

 

按針祭_花火大会.jpg

伊東市では洋式帆船建造進水を記念して毎年8月10日に按針祭を開催し、大花火大会を開催しています。私も昨年は見に行きましたが、すごい人出でした。

 

 
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