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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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Hello! TOKYO WATER TAXI

[王冠とあざみ] 2017年10月 8日 09:00

築地が市場を中心に動いているのは
言うまでもありませんが、
遡ることおよそ360年前、
江戸時代からすでに
築地はウオーターフロントの
先駆け中の先駆けであったわけで
現在では、何しろ
そのロケーションの良さに
多くのCMドラマのロケ地として登場していますから、
少し散歩をすると、きっと
「あれ? ここは何処かで見た景色...」と
想われるはず。

 

地元の人々は、散歩やジョギング、
日向ぼっこ、ランチにはお弁当を広げたりビール片手に夜景を楽しんだり、
トランペットの練習に来る人もいます。

 

徒歩3分の距離に在住しているわたしは
自宅の延長のリビングダイニングと捉え、
訪ねて来る人とは、狭いお部屋よりも
隅田川沿いのビルと水辺が織り成すパノラマの風景の心地良さを共有したくて
勝鬨橋のたもとのベンチで、よくよくピクニックをしています。

 

さて、先日もベンチでバゲットとチーズを楽しんでいると
行き交う屋形船とは趣きの違う黄色い船が目の前の船着場に横付けされました。

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特派員の血が騒ぎ直ぐに取材の申し込みをすると、
お客様が乗り込むまでの10分、OKをもらいました。

 

その船は
オリンピック・パラリンピックに向けて
2年前に運用する試みが始まった水上タクシーでした。


去年から、本格始動となり、
羽田京浜運河と隅田川メインに
『タクシープラン』
『定期運航プラン』
『チャータープラン』
で運行しているそう。
詳しくはhttp://water-taxi.tokyo/#blog

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船は小型船で、8人乗りですが
船長と船頭の2名が同行するので
6名で貸切乗船し、観光・パーティー使いするのに適しているそう。

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実際、乗船させていただきましたが
小型なぶん、海面が近くジャングルクルーズに出掛けるようなワクワク感が湧いて来ます。
小回りが利くので「結構、細い川も入って行けるんですよ」とのこと。
トイレとエアコン完備です。

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川や運河から眺める東京は、いつもとは180度違った表情を見せることでしょう。

 

さあ、予約の客様が乗りんで接岸の縄が解かれました。
大きく手を振ってお見送りすると、返礼の汽笛を威勢よく鳴らしてビューンと出発して行きました。

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夏祭 各町神輿連合渡御

[あすなろ] 2017年8月14日 12:00

富岡八幡宮の例大祭は、山王祭、神田祭と
並ぶ江戸三大祭りの一つに数えられています。

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8月13日、53基の御神輿が勢揃いして連合渡御しました。

 

富岡八幡宮から深川をぐるっと回て、
清洲橋を渡り、新川から永代橋を渡り、戻ってきます。

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担ぎ手たちは腕を伸ばして御神輿を高々と差し上げます。

そして、木遣りの唄と華やかな手古舞が先導し、永代橋へ。

 
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「水掛け祭」の別名通り、沿道の観衆から担ぎ手に
清めの水が浴びせられ、担ぎ手と観衆が一体となって
盛り上がりをみせました。

 

◆富岡八幡宮
 東京都江東区富岡 1-20-3

 

 

循環 水上都市、中央区

[あすなろ] 2017年7月31日 16:00


8月1日は水の日。8月1日から7日は水の週間。

 

江戸時代以来、川や水路は交通の中心的な役割を担い
舟運による物流拠点から街の賑わいを形成しました。

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 日本橋、舟巡り>

 

近年、水辺空間に恵まれた中央区は、立地を活かした
まちづくりを進めています。

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 勝鬨橋、水上バス>

 

かつて、運搬の手段としてだけではなく、暮らしの
楽しみや風情を謳歌しながら活用されていた水辺で
あったように。

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 永代橋、屋形船>

 

緑道やテラス、水上バスが整備され、休憩、散策や
クルージングを楽しめます。当時の風景を想像しながら
水の恵について考えてみては如何でしょうか。

お出かけの際、日差し対策は万全に、水分補給も
心掛けてくださいね。

 

 

 

◆ 隅田川・両国橋の球体ってなんだろう

[隅田の花火] 2017年7月24日 09:00

そろそろ隅田川に、夏の風物詩「隅田川花火大会」がやって来ます。いよいよ本格的な夏ですね。

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江戸時代から続くこの花火。打ち上げ場所は、浅草に近い桜橋・駒形橋辺りの2ヶ所なのですが、昭和の一昔前までは、少し下流の中央区・墨田区をつなぐ両国橋の辺りでした。

 

両国橋は江戸時代に隅田川で2番目に架けられた橋。その当時、武蔵国と下総国の2つの国をつなぐ橋だったので、いつしか「両国橋」と呼ばれるようになり、人が集まる場所として、花火が打ち上げられるようになったのだそうです。

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今の両国橋は関東大震災の復興で1932(昭和7)年に完成。橋は「桁橋」というタイプで、形はシンプルなのですが、橋に近寄ってみると、親柱にある大きな球体が目を引きます。昔からこの辺りは花火に関わりがあるので、球体はよく「花火玉」を型どったものだ、と言われます。

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よく見てみると、親柱の袖には9つの小さい球体があったりします。また、大きな球体の側面には横に長い四角形があって、中には横の「2本の線」と、縦の「4本の線」があるんですよね。大きな球体もそうですが、何だかよくわかりません。

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そんなある日、昨年の春ですが私は特派員ブログで両国橋の記事を書き上げました。その時、記事に載せた2つの写真を並べた時に、ふと思ったのです。

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「この四角形、橋じゃねぇ?」

 

球体の見方を変えてみるのです。四角形を球体の上に持ってくるような形で90度転がしてみた姿を想像します。それと江戸時代の絵を比較すると、この四角形は、上向きに弓なりになった橋に見えてしまいました。

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ひとたび橋に見えてしまうと、想像が妄想へと発展します。現地で両国橋を見て、思ってしまいました。

 

「この四角形、両国橋に違いない。。。」

 

実際の両国橋と四角形を比べてみます。

 

 

まず四角形の中の横の「2本の線」。

今の両国橋は真ん中に車道があって、その両脇に2つの歩道がありますが、2本の線はその境目を表します。

 

では縦の「4本の線」は何なのか?

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これは「街灯」のある4カ所です。

 

両国橋が架けられた当初からあった、趣のある街灯。歩道と車道の境目のところに、片側に4つ、合計8つ立っています。四角形で考えると、横の「2本の線」と縦の「4本の線」でできる、8つの交点にこの街灯は立っているのです。

 

しかもご丁寧に、この「4本の線」は歩道に引かれているではありませんか。

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四角形はもう両国橋にしか見えなくなりました。

 

 

両国橋は「国と国とをつなぐ橋」。

 

四角形が両国橋だとすると、球体は「世界」とか「地球」のイメージが浮かんできます。球体全体でいうと「世界のどこかの国と国とをつなぐ両国橋」ということになり、「世界平和の祈り」のような思いがこの球体から伝わってきます。

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江戸時代の「明暦の大火」という災難を契機に両国橋は初めて架けられて、近隣にその被災者を弔う回向院が建てられたり、その後の時代に大飢饉の慰霊のために行った水神祭の折、川開きで花火を打ち上げるようになったり(隅田川花火大会のルーツ)と、両国という場所はいろいろな「祈り」がささげられてきた場所です。

 

そして起こった関東大震災という災難。隅田川には新たに橋が架けられたり、架け替えがが行われるのですが、

 

 相生橋  1926年(復興局架替)

 永代橋  1926年(復興局架替)

 駒形橋  1927年(復興局架橋)

 蔵前橋  1927年(復興局架橋)

 千住大橋 1927年(東京府架替)

 言問橋  1928年(復興局架橋)

 清洲橋  1928年(復興局架橋)

 厩橋   1929年(東京市架替)

 白髭橋  1931年(東京府架替)

 吾妻橋  1931年(東京市架替)

 両国橋  1932年(東京市架替)

 

両国橋は隅田川の震災復興橋梁としては一番最後に架けられた橋なのです。

 

復興の祈りをささげる場所として隅田川で一番ふさわしい、両国という場所。震災復興の締めくくりとして、「平和の祈り」を両国橋の親柱に表現したと考えるのも何ら不思議ではありません。

 

 

墨田区の両国駅の近くにある「東京都復興記念館」。ここにある震災復興当時に作られた東京の街のジオラマを見ると、隅田川に架けられた橋は震災復興の象徴であったことがよくわかります。

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この当時の隅田川下流の10橋を「隅田川十大橋梁」と言いますが、新大橋を除いて、残りの9つは震災復興で架けられた橋。東京の新名所となりました。

 

短期間にこれだけの多くの橋を架けることができたのは、この頃、ワシントン海軍軍縮条約で日本は軍艦の製造が制限され、鉄と工員を橋に回すことができたからなのだそうです。

その後の戦争で軍艦は海の藻屑と消えた傍らで、橋は残った訳ですから、軍縮により生まれた隅田川の橋はまさに平和の象徴とも言えるわけです。

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(震災復興下流の9橋・東京都復興記念館)

 

架橋が一番遅かった両国橋。架けられた時には全ての橋が揃っていました。

両国橋の小さな9つの球体ですが、これらにも橋が架かっているのではないか、と頭に浮かびました。大きな球体1つと小さな球体9つに架かる「隅田川十大橋梁」です。

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(十大橋鳥瞰図・東京都復興記念館)

 

隅田川の橋が表現する「世界平和の祈り」。

 ・・・少し妄想に過ぎますでしょうか。

 

 

そんなふうに思っていた矢先、昨年の秋に出版された「橋を透(とお)して見た風景」という本に、両国橋の親柱の球体の正体が書かれました。

 

この球体はなんと「地球儀」でした。「地球」という答えは、間違っていなかったみたいです。

 

でも球体を見てどう感じるかは人それぞれ。平和な感じがする「花火玉」でも良いような気がします。

 

せっかくなので、もっとスケールを大きく考えてみました。

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「四角い窓から望む大きな太陽と、太陽が照らす水金地火木土天海冥の9つの惑星。」

 

冥王星は今は惑星から外されてしまいましたが、アメリカ人により発見されたのが1930年2月。両国橋も1930年2月に着工。9つの惑星は既に揃っていました。

 


冥王星は英語ではプルート(Pluto)。この頃に始まったとされるあのアニメのキャラクターの名前に採用されたくらいですから、世間の注目度は大きかったでしょう。

 

橋の完成は昭和7年。この頃の人々の目は、花火を眺めるように空を向いていて、永遠の宇宙に夢を見ていたと思うのです。

 

 

<参考図書>

東京の橋~水辺の都市景観 伊東孝 1986年・鹿島出版会

半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義 2013年・文春ジブリ文庫

橋を透して見た風景 紅林章央   2016年・都政新報社

 

 

 

友好都市・山形県東根市の絶品さくらんぼ

[にゃんボク] 2017年6月28日 09:00

 これまでさくらんぼと言えば、あんみつなどに"おまけ"のようについている存在。残すのはもったいないから食べている、とさしたる思い入れもなく口に入れる果物。
洋食でいえば、ハンバーグにつき合わせのサラダの上に乗っているパセリのような存在。
酢豚でいえば、パイナップルのように有っても無くても良いけど、何故か付いているよね、といった存在・・・。

そんな感覚だった自分を叱りつけなければならない!完全に認識を改めなければならない!と思ったのは・・・
他でもありません、中央区の友好都市である、山形県東根市にて作られ厳選されたさくらんぼを食べるようになってからです

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区内を走るコミュニティバス「江戸バス」のラッピングにより、「果樹王国ひがしね」の名前を見たことのある方もいらっしゃることでしょう。江戸バスのラッピングが気になっていた私は、東根市で毎年6月に開催される「ひがしねさくらんぼマラソン大会(ハーフマラソン)」に参加いたしました。

この東根のランニングイベントは「ランニング100選」にも選ばれる人気大会です。沢山のおもてなしと歓待が人気の秘密なのですが、なんといっても最大の特徴は、走っている途中にも提供される「さくらんぼ」エイドの充実!私も走っている最中に、「1日に食べたサクランボの個数、自分史上最大の日」を迎えました。食べることを言い訳に走るペースも遅くなり、まさに記録より記憶。タイムそっちのけでも大満足でした

東根産の中でも厳選されたさくらんぼ。美しく輝く実をいただくと"ぷりっとした"弾力とともに口に広がる上品な甘みとそれを引き立てるほのかな酸味。こ、これは美味しい・・・。やはりホンモノは違います。

小さくも濃厚な果実が存分な主張をするとは・・・東京でいえば中央区みたいなものでしょうか!?
是非、美味しいさくらんぼをお試しください。

(写真は東根さくらんぼマラソン大会。自衛隊駐屯地を走れる珍しいコースレイアウト。ランニング界の有名人、金さん、世界選手権メダリストの千葉さん、荻原さんのトークも楽しめます)

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◆ 信玄公と團十郎ロマン

[隅田の花火] 2017年6月22日 12:00

東日本にお住まいの方であればおそらくご存知、天乃屋さんの歌舞伎揚です。

s_hanabi48-1.jpgこの個包装の裏を見てみると、

「このおせんべいは丸い形と四角い形があります」と書いてあります。

 

歌舞伎揚は、丸形や四角形の歌舞伎の定紋をデザインした生地を揚げているのだとか。時代とともにやわらかく揚げるようになり、模様が見えなくなったのだそうです。個包装に付されている四角形が歌舞伎の定紋のひとつで、「三升(みます)」といいます。

 

 

一方こちらは、お饅頭で有名な中央区明石町の老舗・塩瀬総本家の「袖ヶ浦最中」。

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この袖ヶ浦最中は一風変わっていて、最中の皮とあんこが別々。食べるときにワクワクしながら合体させ、サクサクした食感が味わえる、という一品。明治期の9代目市川團十郎が考案したそうで、別名は「團十郎最中」。パッケージの「三升」は、市川團十郎家の定紋なのであります。

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9代目團十郎と言えば、私が2月に「昭和7年の冊子」を通して書いた記事 の歌舞伎役者。表紙が「三升」の定紋のデザインになっているこの冊子は、昭和7年・歌舞伎座での9代目團十郎30年追遠興行の時のものです。

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昭和7年。この年は市川宗家にとって転機になった年と思われます。当時の市川三升(さんしょう・没後に10代目團十郎の名が贈られる)によって、市川團十郎家の発祥が解明された年だからです。

 

冊子にはその團十郎家の発祥が載せられています。それは、團十郎の先祖は戦国時代に甲斐の武田家配下に仕える侍だった、という甲州説。

 

市川團十郎家の発祥は今もさまざまな説があります。甲州説は昔からあったようなのですが、それを裏付ける家系図が発見されたのが昭和7年でした。

 

その市川團十郎の発祥の地は、山梨県の市川三郷町なのだとか。そこに「歌舞伎文化公園」があるということを知り、4月の花見で山梨県を訪ねた際に立ち寄ってみました。

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「歌舞伎文化公園」は甲府盆地を見下ろす景色の素晴らしい高台にあり、戦国時代には武田家の重臣だった一条信龍(信玄公の弟)のお城がありました。團十郎家の先祖はこの人に取り立てられていたようです。

 

この公園には資料館、そして市川團十郎発祥之地記念碑があります。1980年代、当時の海老蔵が12代目團十郎を襲名するにあたりこの記念碑が建てられました。ずっと果たせなかった10代・11代目團十郎の願いがこの時に叶えられたのだそうです。

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せっかくなので昭和7年の冊子の内容と資料館で得た情報を合わせてみると、初代團十郎までの甲州説は、

 

市川家の祖先は甲斐国武田家の侍である堀越十郎だった。

三増峠の戦いで武功を上げ、一条信龍の城の近くに知行地が与えられた。

武田家没落の後、一族が信仰していた不動明王を頼りに成田不動尊に救いを求め、下総国埴生郡幡谷村(成田山の近く)に移り百姓となった。

その孫は江戸に出て和泉町(現在の中央区人形町付近)に住み、幡谷十蔵と名乗った。

十蔵は一人の男子を儲け、その子は海老蔵と名付けられた。

和泉町の隣町に中村座と市村座があったので芝居に没頭するようになり、市川段十郎と名乗る役者となった。

隈取りや見得(みえ)などの誇張的表現を用いながら見せる「荒事」の演技様式を創始し、名を團十郎と改め、江戸歌舞伎をリードしていく存在となっていく。

 

という流れなのですが、ここに来て面白かったのは、「三升」の定紋について書かれている説明板。三升の定紋についても様々な説があるようなのです。

 

昭和7年の冊子には、

「初代團十郎が不破判左衛門を勤めた折に、稲妻と三升を縫い伏した衣装を用いた時から、定紋が三升と改められた。」

と書いてあるのですが、公園の説明板には違うことが書かれています。

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三升の紋は、大・中・小の3つの「升(枡)」を入れ子にしたデザインですが、

 真ん中の枡は・・・1升分の「京枡」(お米の1升=10合)、

 小さい枡は ・・・5合分の京枡(半枡)、

 大きい枡は ・・・3升分に値する「信玄枡」

なのだそう。

 

三升枡や甲州枡とも言われる信玄枡と、2つの京枡を合わせると、綺麗な「三升」の紋になるという説明です。これは、團十郎の発祥が甲州であることを裏付けるものだといいます。

 

その他にも、

「三升家紋の四角が團十郎の團という字に似ているから」

「ますます繁盛(枡枡半升)とあやかった」
と、いろいろ書かれており、ネットで探してみても、

「團十郎の先祖が武功を上げた三増峠の戦いの名に由来」

なんていうのも出てきます。

s_hanabi48-8.jpg「成田山に向かったのは信玄公が不動明王を信仰していたことにも通じている。」

「荒事の荒々しさは、甲州弁から生まれた。」

「海老蔵の名は、 武田の赤備えの甲冑が赤く殻を被っている海老に似ているところから生まれた。」

と、信玄公に関連する團十郎ロマンは探してみるといろいろと出てくるのであります。

 

 

團十郎が信玄公に関わりがあることは驚きでしたが、謎が多いゆえに、これまでに生み出されてきた歴史ロマンの多さにも驚きました。

 

元々信玄公にある戦国時代の大きなロマンに、團十郎のロマンが重なって、さらにロマンが広がったのだろうと思いますが、こうしていろいろな人が研究したり想像したりしてきたことを見聞きすることは、歴史の楽しみのひとつなのだと感じました。

 

 

 
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