中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事


中央区にある「ナンバー銀行」

[滅紫] 2017年5月12日 09:00

100_2371.JPG

「ナンバー銀行」ってご存知ですか?街を歩いていると全国展開の支店の多いお馴染の銀行の他に番号のついている銀行に「?」と思われたことはありませんか?これがいわゆるナンバー銀行と呼ばれているものです。

 

私は川喜田半泥子(1878~1963)の陶芸作品が好きなのですが、川喜田半泥子はプロの陶芸家ではなく本業は三重県津市に本社をおく百五銀行の頭取でした。川喜田家は津の素封家で中央区とのご縁も深く、伊勢商人の一人として「木綿店」として知られる旧大伝馬町1丁目に江戸初期の寛永12年(1635)川喜田屋久太夫が木綿問屋を始めてから、昭和13年(1938)に閉鎖するまでこの地に店を持っていました。第百五国立銀行設立は明治11年(1878)でその後川喜田家が資本参加。その後普通銀行に移行し、現在も東京支店が日本橋の黒江ビルに入っています。

 

ではどうして番号がついたのか?

 

明治5年(1872年)「国立銀行条例」に基づき最初に出来たのが第一国立銀行でこれが現在のみずほ銀行の前身だというのは皆様よくご存知のことと思います。ブリタニカやマイペデア百科の記載を要約するとー「国立」というのは国法に基づく銀行の意味で「国営」ではない。「国が認可して民間資本で作られた」銀行で1876年から1879年の間に153行設立され、その後数度の条例改定で1899年までに普通銀行に移行した。ー

 

番号は実際の設立順ではなく、認可順です。

 

更に高松出身の友人と話をすると「銀行は百十四(ひゃくじゅうし)銀行を使っている」というので調べてみると高島屋の隣にあり、地元応援で「うどん県香川」のポスターも貼られています。面白くなって中央区にあるナンバー銀行を調べてみました。

100_2370.JPG 100_2369.JPG

 

設立当初の名称が変わらずに現在も営業している最古の銀行、これが明治6年設立の「第四(だいし)銀行」新潟の銀行でアンテナショップ「ブリッジ新潟」の3・4階にあります。

100_2377.JPG

 

あとは番号順に、「十六銀行」は岐阜県の銀行で日本橋本町、

100_2376.JPG

 

「十八銀行」は長崎県で日本橋プラザの6階、

100_2381.JPG

 

「七十七銀行」は宮城県で歌舞伎座の先に七十七銀座ビルがあります。

100_2388.JPG

 

「八十二銀行」は長野県、こちらは十九銀行と六十三銀行が合併したのでこの番号になったとのこと。日本橋室町4丁目 室町4丁目ビル

100_2372.JPG

調査不足でまだ見落としているかも知れませんが神田祭も近づき街もそろそろお祭り気分。こんな中央区街歩きも如何ですか。

 

 

 

日本橋の旧町名と神田祭!

[柴犬] 2017年5月11日 09:00


現在、都営新宿線の馬喰横山駅ギャラリーコーナーにて「神田明神御祭禮 東日本橋三丁目橘町会」の展示が開催中です。橘町会と神田祭の歴史が紹介されています。


_1020237.jpg_1020234.jpg_1020239.jpg

現在の東日本橋三丁目は、元は橘町という地名でした。その橘町会が企画開催している展示です。場所は都営新宿線馬喰横山駅からJR馬喰町に向かう地下通路(改札外)です。5/15まで展示されています。お神輿の巡回路や詳細な時間なども掲示されており、大変充実した面白い内容ですので通勤通学の途中にでも、是非!



さて、ここで「神田祭って千代田区でしょ?中央区関係なくない?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。確かに神田明神は千代田区にありますが、中央区の日本橋は地域的に氏子に当たるのです。


江戸三大祭りは神田祭・山王祭・深川祭。神田祭と山王祭は一年交代で行われますが、江戸の昔から「山王祭の巡行路は江戸城より南、神田祭の巡行路は江戸城より北」でした。今でいうと、東京駅より南の地域は山王祭、北は神田祭ということです。つまり日本橋はがっつり神田祭のど真ん中なのです。


ですので、もう一ヶ月前から街はこの状態です。


_1020071.jpg


中央区は昭和22年(1947年)に発足後、区内の町名・住居表示を整理してきました。殆どが江戸からの町名を引き継ぐ中、橘町は昭和46年に「東日本橋3丁目」と改められ、古くからの町名が表示から消えてしまいました。これを惜しむ地域の方々が「橘町の地名を残そう」と活動し続け、上記の馬喰横山駅の展示に繋がったのです(馬喰横山駅は旧橘町の隣町、横山町にあります)。橘町会のお神輿は、大人神輿も子供神輿も素敵です。


_1020250.jpg通りにも、このように現在の住居表示と「橘町」の表示、両方出ています。


江戸時代、この辺りは西本願寺の別院があり、門前町として立花を売る家が多かったため、橘町という名前になりました。この西本願寺別院は、のちの築地本願寺ですね。明暦の大火で、日本橋から築地に移転したのです(1679年)。



現在の区画や住居表示は震災や戦災を経て江戸時代とは大きく変わりましたが、何百年と続いた「祭り」と町名の関わりや誇りは街を歩いているだけも感じることができます。これから秋まで、中央区だけでなく東京全体がお祭りシーズンになります!



 

 

時の鐘と予報音  Tokinokane Hour Bell and Three Pips

[HK] 2017年5月10日 18:00

 

小伝馬町 十思公園内の時の鐘は初めは江戸城内に造られ、その後徳川秀忠の時代に本石三丁目(現在の日本橋室町四丁目)に移され、明治時代に現在地に設置されました。 

 

Tokinokane Hour Bell in Jisshi Park was initially built in Edo Castle and was transferred to 3 chome Honkoku (Currently 4 chome Nihombashi) during General Tokugawa Hidetada's regime, and was relocated to current position in Meiji era. 

 

CIMG2335.JPG 

 

 

江戸時代に庶民が時刻を知る方法は時の鐘を聞くことでした。 

江戸には9ヵ所(①本石町 ②上野寛永寺 ③芝切通し ④市ヶ谷八幡 ⑤赤坂円通寺 ⑥目黒不動尊 ⑦浅草寺 ⑧本所横堀 ⑨四谷天龍寺)の時の鐘が設置されていた時期があり、基準の本石町の時の鐘の三つの捨て鐘が鳴り始まると、他の鐘がリレー方式で鳴らして行ったと伝えられています。

そこら中で鐘の音が聞こえ、賑やかでしたでしょうね。 

 

During Edo era, local people were able to know the time by listennng to Tokinokane Hour Bell.

Once in Edo era, there used to be 9 Tokinokane Bells in the city (①Honkoku ②Ueno Kaneiji Temple ③Shiba ④Ichigaya Hachiman ⑤Akasaka Entsuji Temple ⑥Megurofudoson ⑦Sensoji Temple ⑧Honjoyokobori ⑨Yotsuya Tenryuji Temple) and when the leading Bell, which is told to be Honkoku Bell, started to make 3 prediction gong like 3 pips, the other Bells began to gong one after anther like a relay.

People must have heard bells from all over the place. 

 

CIMG2337.JPGCIMG2338.JPG

 

捨て鐘は短く3回打たれ、その後長い間隔をあけて時刻数の鐘が鳴り響きました。

当時の3回の捨て鐘は現在も時報の予報音「ピ・ピ・ピ・ピー」として継承されていると伝えられています。

江戸文化が今も生活の中に溶け込んでいるようです。

 

After short 3 pips, the long gongs for the number of actual time were heard. 

The 3 pips are told to be taken over to current time prediction system sound "Pip, pip, pip, peeep".

Even now, Edo culture seems to be in our everyday life. 

   

CIMG2330_LI.jpg 

 

 

 

実はとても子連れにやさしい 「日本橋 墨之栄」のお魚ランチ

[えだまめ] 2017年5月10日 09:00

子連れ特派員のえだまめです

 

しばらく前にコレド室町に行ったときのこと。

夫が「このお店、気になる」といったお店がありました。

コレド室町1の2階にあります

「日本橋 墨之栄」さんです。

お店の外から見える炭火で魚を焼いている様子

そしてメニューの「原始焼」という言葉の響きで

結構釘付けになっていたようでした。

ですが・・・雰囲気としては飲み屋さん

確かにあと1か月で2歳になる娘あずき

魚が大好き和食が大好きなのです

なのでメニューとしては大丈夫かもしれないけど、

ランチ時間帯とはいえ

この年齢でも受け入れてもらえるのかな?

ちょっと不安だったのですが。

行ってみることにしました。

 

まず、店員さんに確認。

笑顔で

・ベビーカーでの入店OK

・椅子に座る場合は大人用の椅子に

 「分厚いクッション」を取り付けるか、

 「ベルト付きのお食事椅子」を取り付けるかを選べます

とのこと。

子ども用椅子の用意があったとしても

ベルト付きの椅子がない飲食店も多いので、これはありがたいです!

DSC_1057-1.jpg

あずきよりも小さい子だとしても、ベルト付きなら安心して座らせられますね。

もちろん、子ども用の小さなマグやとりわけ用のお皿やカトラリーもあります。

これなら安心してお出かけできます。

 

ふと上を見上げてみると

DSC_1055-1.jpg

魚市場の雰囲気を再現したお店です

DSC_1056-1.jpg

お店のパンフによると築地市場を意識したものだそうですが

もともとは日本橋に魚市場が存在していたということを思うと

ちょっと趣深いものがありますね。

 

さて、本日の注文は

DSC_1059-1.jpg

私は「本日の鮮魚煮付け御膳」を。

これで1000円!かなりのボリューム感です。

「煮付け」の中身は魚のあらの部分と大根をじっくりと軟らかく煮たものです。

味もしみしみいい照りです。

しかもごはんはおかわりOK。

小鉢も2つあるとは。お得感がありますね。

お味噌汁も、大根やニンジンがゴロゴロ。

野菜不足に悩む現代の大人たちだけでなく、

外食時にどうやって野菜を食べさせようか悩む母たちにもありがたいです。

このお味噌汁の大根やニンジンなら取り分けて食べさせてあげられます。

あずきどれだけお魚を食べられてしまうかわからないので

DSC_1060-1.jpg

単品で「鮭のハラス」も注文しておきます。

 

夫の方はこちら。

DSC_1062-1.jpg

「原始焼御膳 にしん一本焼き」です

・・・にしんって、こんなに大きなお魚だったっけ?ってびっくりしました。

大迫力、ですね。

お出汁もついていて、お茶漬け風にもできるメニュー。

1度に2度おいしいって、いいですよね
 

そもそも「原始焼」とは?ですがお店のパンフレットによると

「炭火と焼き物との距離で火加減を調節する昔の生活の知恵であり

最も原始的な焼き方であることがその名の由来となっています。

炭の回りを囲んで「輻射熱」を利用して焼くため、きれいな焼き色がつくだけでなく

魚の脂が炭に落ちず煙がたたないため、魚が燻されずに新鮮そのままの凝縮した旨みを味わうことができます・・・」

だそうです。

確かに、ふっくらした焼き上がり。美味しい焼き魚です。

鮭のハラスもかなり脂がのっていて、美味しいです。

あずきは一口食べて大興奮でした。

 
想像以上に子連れにとってありがたいお店で、大満足。

最近の我が家の子連れ外食、洋食メニューに偏りがちだと悩むことが多かったので

メニューの幅が広がる、良い発見でした。
 

日本橋 墨之栄

東京都 中央区 日本橋室町2-2-1 COREDO室町2F

03-3548-9917

https://tabelog.com/tokyo/A1302/A130202/13117221/

 

 

江戸に大量に送られた「越前和紙」

[達磨] 2017年5月 9日 14:00

伊勢出身の豪商で、江戸大伝馬町に紙商を開業して以来360年余年、和紙の歴史に関わる「小津和紙」。3階「小津史料館」には、明治の初めごろに越前から送られた手漉き和紙「帖紙」(町屋の業務・日常用)の荷姿(1帖48枚1締30帖=1152枚3.5㎏)が展示されている。

小津紙包み.JPG

「越前和紙」は1500年の長い歴史を持つ。越前和紙を愛する会「和紙の里」に岩原正吉氏が寄稿された"江戸期の越前和紙は大消費地三都へどのようにおくられたか"論文の一文を紹介する・・・【江戸時代の紙商いは米、木材に次いでの商いと言われるが、越前和紙も大消費地江戸を目指して大量に送られた。輸送は大きく陸路と海路送りに分けられる。幕府や福井藩江戸の御用紙は大事に陸路を営々と駄送された。江戸中期を過ぎると安全性や経済性等を考慮して、様々な舟運を利用して江戸に送られている。弘化元年(1844)大奥から出火して江戸城本丸消失した際には、福井藩は幕府へ鳥の子紙を30万枚火事見舞いに献上している(現在の貨幣価値換算で3億円に相当)。製造された紙は推測7500枚を馬一匹(公用120㎏以内)に仕立てて、駄馬で大井川を渡って沢山の頭数と人手をかけて運ばれた】と...。江戸から500㌔以上隔たる福井。越前和紙は公用紙・出版物・浮世絵等々から生活用紙まで、江戸から明治中頃の産業・教育・文化形成にいろいろな力を及ぼしたのだと思う。

 

 

 

神田祭がやってくる

[お江戸のマーシャ・堀内] 2017年5月 5日 12:00

神田祭りは賑やかなハレのお祭りが、ゴールデンウィーク明け以降にやってくる、私は江戸っ子ではないのだが、今一度振り返ってみる。

 

神田明神は、天平二年(730年)、今から約1300年前に、今の皇居近くの大手町・将門塚附近に創建されている。その後、徳川家康の没年の1616年、江戸城拡張のため、城の表鬼門の地となる現在地の外神田に遷座した。

 

今は、神田明神は千代田区・中央区の108町会の総氏神さまとして、神田祭りは日本三大祭の一つとして有名である。

 

江戸を守る総鎮守府としての祭礼、江戸時代は、その行列が江戸城(皇居)にまで入ることを許されていたと言う。

 

この5/13は神幸祭といって、お神輿(だいこく様、えびす様、まさかど様)、時代絵巻の行列が神田神社を出発し、御茶ノ水、大手町、秋葉原、東日本橋(お昼休み)へ、そして水天宮、三越前、中央通を通って神田明神へお戻りになる。
→5/13夕方の中央通での行列には、"付け祭り"という曳きものが(2015年は大鯰、花咲爺さんの大きな張りぼて、、)が合流して、更に目を楽しませてくれるのは間違いないだろう。

 

日本橋三越さんの一階に飾られた神田祭り、何故かネコも踊っている。
春を通り過ぎて、もう夏のようでもある、みなさま、体調を万全にしてお過ごしくださいませ。

ck1515_20170502 (2).JPG ck1515_20170502 (1).JPG

 

 
<<前のページへ 1234567891011