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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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最近のブログ記事

桂川 甫周の屋敷 あかつき公園 筋向いにも?

[朱房の十手] 2018年3月13日 12:00

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写真(桂川屋敷)は、区教育委員会設置 史跡案内板(築地7丁目十番地)

 

 桂川家は享保年間(1716-1736)ごろから築地に居を構えていました。

 

和欄外科医の奥医者として名を馳せ、登城のさいは11名の供を従え、旗本も道を譲るほどでした。

 

明治維新の前(1863)に築地で大火があり桂川家の向いから出火、類焼は免れたものの火災の直後に「柳生対馬守」の屋敷を譲り受け転居しました。

 

面積は1200坪余りあり、広い庭がありました.。明石堀(あかつき公園)を挟んで、中津藩 奥平家の屋敷があり、福沢諭吉が蘭学を教えていました。

(「名残りのゆめ」 甫周 長女 みね追憶談 より) 

 

 

 

大隈重信の屋敷は 料亭の新喜楽 です。

[朱房の十手] 2018年3月11日 18:00

明治2年5月 大隈重信は、築地、本願寺(場外市場付近まで 波除通りに正面入口がありました)筋向い(新大橋通り)の旗本 戸川家の邸宅を明治政府から拝領した。(買い取った。 との資料も有ります)
大隈の屋敷はには、明治政府のかじを取る人物が多数参集(伊藤博文・井上 馨・五代友厚 等々)しました。まるで梁山泊のようでした。
日本有数の料亭で、芥川賞・直木賞の選考会場です。

築地市場のお買い物帰りに、ここかー。⁉。 驚き

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長崎屋番外編

[yaz] 2018年3月11日 14:00

昨年日本橋本石町の長崎屋(阿蘭陀館)についてシリーズで報告しましたが、今回番外編として鉄砲洲船松町へ移転した以降~御家没落までの過程を記述します。

 

安政5年7月1日(1858年)、日蘭修好条約が締結され、長崎出島のオランダ商館長の江戸参府の行事も廃止さましれた。10月になって、長崎奉行所は長崎で購入した蘭書を江戸へ廻漕し、江戸本石町の長崎屋を「蕃書取扱所」として、すべての蘭書に押印しました。この印章の写しは、町年寄「舘市右衛門」(日本橋本町)を通して、通二丁目の書物問屋「佐兵衛」他1名に伝達されました。

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長崎屋11代目当主 長崎屋(江原)源右衛門は思案して、長崎奉行所に願書を提出しました。『これまでオランダ宿その他長崎表御用商を務めてきましたが、たびたびの火事に類焼し、難渋しておりますので、今までの住居の本石町3丁目の場所を人に貸して収入を得て、深川でも本所でもどこか河岸付の便利な場所を得て転宅したいと思いますので、どうかお許しを得たい』

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長崎役所はこの願書を受理し、かけあってみようということとなりました。武家地なのでいろいろと問題が発生するかもしれないが、築地河岸の船着き便利な場所である船松町を候補に検討してみようということとなりました。従来の人参座(薬用人参の販売)・新規の御用"藩書取捌"を行う役所向け建物を建設するということで可否を伺えることになったのです。

 

長崎屋は町人ではあるが、「御用達町人同様の取り扱い」にすることが出来るなら許可しようということで、付箋付きで許可が得られました。

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現在の地図で場所を示すと、以下のように聖路加病院裏になります。

長崎屋(船松町)_移転後現在地.png

 

明治初年に東京運上所(水炊き 治作脇)が使用していたと思われる洋書が発見されました。
明治元年(1868)7月、鉄砲洲に置かれていた外国事務局が「長崎会所」に残されていた品々の引き渡しを受けます。その中に西洋書籍1万7千冊余が含まれていました。この長崎会所とは「江戸長崎会所」のことで、万延元年(1860)に、江戸の船松町二丁目(現中央区明石町 6~7 番地隅田川沿)で「蕃書」(=洋書)や西洋銃の売り捌きそのほか長崎会所の御用達を務めていた長崎屋(江原)源右衛門宅を指しています。

  

源右衛門宅は鉄砲洲船松町2丁目はずれ、細川若狭守屋敷北隣の河岸添地でした。長崎屋は新たに輸入小銃の売り捌きにも当ることになり、商売が繁盛して景気が良く新しい事業にも乗り出しました。新材木町の丁字屋仁平と手を組んで生糸貿易に一役買いました。船松町から南飯田町続きの埋め立て地に引っ越しましたが、安政条約締結の結果、東京を開市せざるを得ず、築地に居留地を作ることなりました。そのため源右衛門の土地は引き払わざるを得なくなりました。その後、本所小梅の裏長屋に引っ越し、明治8年8月5日5人の子女を残して没しました。鎖国を継続した江戸時代海外との門戸を開くことに大いに貢献した長崎屋でしたが、最後は思いがけない結果となりました。今は江原姓を名乗る人はいません。

 

参考文献:

切絵図考証(21) 安藤菊二著 郷土室だより(中央区立 京橋図書館) 1982.01.15

 

 

歩いて楽しむ隅田川テラス (プロローグ)

[皐月の鯉の吹き流し] 2018年3月10日 14:00

歩いて楽しむ隅田川テラス (プロローグ)

隅田川テラスを勝鬨橋から清洲橋まで歩いて楽しみます。コースは、築地大橋付近を出発

勝鬨橋、佃大橋、中央大橋を渡り、新川公園、永代橋、清洲橋。すべて橋の下を歩きます

(地図参照)

 

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この間月島川水門の所は迂回し一般の道路を歩きますが、信号はなく隅田川の景観を 楽しみながら歩けます。

 

先ず、昨年のことですが東京2020オリンピック1000日前にちなみ東京タワーが 10/27(金)・10/28(土)の2日間、特別ライトアップされました。 1000の表示は東面(芝公園方面)1面のみとのことで、勝鬨橋から築地大橋の間で 見ることが出来ましたが10/28はあいにくの雨でした。

 

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<<<<< この写真や肉眼では良く分かりませんが 1000の文字です >>>>>>

 

 

もう一つ昨年の話。昨年から今年にかけて野菜が高いということですが その原因は寒さと昨年の台風の影響だそうです。 10月22日台風の翌朝、勝鬨橋付近隅田川テラスの様子。 写真のように冠水しています。ここまで水面が高くなったのは初めて見ました。 水門も閉められていました。

 

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<<<< 冠水した隅田川テラス 勝鬨橋付近 >>>>>>>

 

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<<<< 南高橋から見た亀島川水門  >>>>>

 

 

さて次回以降、橋の下を歩いて楽しむ隅田川テラスを掲載します。

 

 

中央区をまち歩き 千社札 スタンプラリー 3月31日まで

[銀造] 2018年3月10日 09:00

 3月1日から、「中央区をまち歩き 千社札 スタンプラリー」が始まっています。 期間は3月31日(土)までです。

参加の要領は、先ずスタンプラリーの台紙を、銀座エリアはG Info 、築地エリアは、総合案内所ぷらっと築地、 日本橋エリアでは日本橋観光案内所、人形町エリアは人形町商店街協同組合事務所前(大観音寺下)、月島エリアは、月島もんじゃ振興会協同組合、京橋エリアは、中央区観光情報センターで入手します。

 スタンプ押印の場所は、上述の台紙の入手場所と同じです。 そして、必ずもらえる参加賞「江戸文字職人が書いた 千社札シール」と、アンケートに答えると、抽選でゲットできるかも知れない地域の賞品の受け取り場所は、京橋エリアの中央区観光情報センターですので、最初のスタートは、京橋以外の場所からスタートされたら良いでしょう。

 暖かくなってきましたので、3月3日昼、G Infoから、築地場外市場の総合案内所ぷらっと築地月島エリアの月島もんじゃ振興会協同組合まで一気にお散歩でスタンプを頂いてきました。 ちょっと、人形町、日本橋方面へは歩くには、少し遠いかなと思い、、良い事を思いつきました。 

そして、中央区民の足、「江戸バス」を利用しました。北循環への乗換券を貰って、月島から日本橋まで100円で行けました。(土曜日だったので、人形町のスタンプ場所はお休みでした)

 江戸バスの運転手さんは、とても親切に乗換券を発行してくれるし、乗換場所も教えてくれました。

日本橋観光案内所では、スタンプ押印だけでなく、日本橋の老舗の商品を販売しているので、品定めをして、榮太樓總本鋪の「有平糖 バニラミルク飴」を購入しました。

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これは、ホワイトディのお返しにも人気になると思います。(私は自家消費です

京橋エドグラン地下1階の中央区観光情報センターで、台紙を見せて、必ず貰える参加賞「江戸文字職人が書いた 千社札シール」を貰いました。

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アンケートに答えて、くじ引きに挑戦しましたが、やはり私は籤運が無いようです。

京橋エドグランの地下にあるお店で、ちょっと遅めの昼食を楽しんで、自分へのご褒美としました。

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 さあ、皆さんもお散歩がてら、千社札スタンプラリーに参加されませんか? とても楽しいですよ。

※ 必ずもらえる参加賞「江戸文字職人が書いた 千社札シール」とは、築地の津多屋商店さんが描いた素敵な江戸文字です。津多屋商店さんは、「中央区まちかど資料館」に参加されています。

そのHPもご覧ください。 http://chuoku-machikadotenjikan.jp/tenjikan/

 

 

聖路加画廊で3月12日に開かれる大島紬「エイ子の編衣展」

[桜やよい] 2018年3月 9日 14:00

聖路加国際病院本館の1階レストラン前にあるスペースに第1画廊があることをご存じでしょうか。「エイ子の編衣展」が平成30年3月12日(月)~3月17日(土)10時~17時※17日14時迄開催されます。

本場奄美大島紬の織糸と奄美泥染の絹糸を使い、奄美の自然をイメージしてオリジナルの作品を手編みしています。絹糸100%の帽子、ショール、ボレロ、手袋、アクセサリーなどの優しい着心地を触って感じていただければ幸いですー案内文

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森エイ子さんは聖路加画廊の他に銀座・浅草・川越・神楽坂・奄美大島は国内、海外はニューヨーク在住の縁もあってニューヨーク等で個展を開かれてきたそうです。

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エイ子さんは鹿児島県奄美市笠利町出身です。平成29年9月16日に奄美大島の奄美パークで、長年の夢だった故郷での「エイ子の編衣とファッションショー」を開催したそうです。東京から駆け付けた友達と奄美大島の友達が当日モデルを引き受けてくれ、更に島唄のコラボで大いに盛り上がったそうです。

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エイ子さんの作品をご紹介します。

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お嬢様のためにウェディングドレスは、シルク100%で結婚式に間に合うように製作したそうです。右隣は、母親であるエイ子さんのドレスです。2人でエイ子さんの手作りの服を着ることが夢だったそうです。

2016平成28年第24回ユザワヤ創作大賞展手編み部門銅賞、2014平成26年第23回ユザワヤ創作大賞展ニット部門大賞も受賞されています。

エイ子さんの実家は笠利町で大島紬の織元でした。幼い頃から大島紬が織られる過程を見て育ちました。ご主人の転勤でベネズエラ・ニューヨークと海外生活を送りました。

その後帰国してからアイデンティティーに目覚め、絹糸を奄美大島紬の泥染めで糸を染めるところから取り組み、糸をよって糸作りから始めて、手編みで編んでいます。編んでいる時が一番幸せを感じるとのことです。作品がみなさんに気に入ってもらえたら、大事にしまっておくのではなく、惜しげもなく毎日でも身に付けていただきたいという気持ちをお持ちのようです。

シルク100%でしかも一品物。同じ品はないそうです。色の異なる数本の糸を撚って一本の糸を作ることから、作品がいろいろな色合いで見ていただけるだけでも楽しめます。

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ネックレス-・パールネックレス・チーフ(男性・女性用)

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飾りレース襟・ミニショール・ミニポーチ

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手袋(なんと、指を外せば手を洗うときも捲り上げるだけ)・靴下・帽子

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ボレロとノースリープワンピース・ワンピース

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大判ショール・ボレロ

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大型ショール・ボレロ

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ベスト

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ボレロ・セーター

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洋装にも合う羽織                                                                                          奄美大島と言えば、NHK大河ドラマ「西郷どん」が放映されていますが、2年間菊池源吾と名乗って潜居していた龍郷町が笠利町の隣にあります(1858安政5年31歳12月を出発1859安政6年1月12日大島龍郷・阿丹崎着)島の名門龍氏一族の娘愛加那23歳と結婚する(1859安政6年32歳11月8日)1861文久元年11月20日34歳新家屋落成11月21日姓名改め帰藩召喚状到来1862文久2年1月29日34歳強風で流され、再出帆と記録されています。

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龍郷町の西郷南洲流謫(るたく)跡ー西郷隆盛が愛加那と菊次郎のために新居を建てたいと考え、自ら設計し、台風が当たらない場所をくまなく歩き回って決めた場所だということです。県の指定文化財となっていますが、個人所有ですので事前に予約をして行きました。ご当主の龍 昭一郎様に出迎えていただき、丁寧に案内していたたいたのには恐縮しました。

龍郷町で愛加那と2人との子ども(菊次郎・菊草)にも恵まれ、生涯の中で一番幸せな時を過ごせたのではないだろうかと思いながら、西郷隆盛ゆかりのお品をゆっくり拝見しながら居させていただきました。

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2番目の奥様愛加那と西郷隆盛像が額に飾られていました。

帰り際に立派な石碑をよく見ると、1898明治31年大島島司・笹森儀助の尽力により建立された碑文は勝海舟の揮毫によったものでした。

 

 

西郷どんは日本橋人形町に明治4年から6年までの2年間住んでいたことをご存じでしょうか。1871明治4年44歳明治政府の参議となる。廃藩置県行う。1872明治5年45歳参議兼陸軍元帥・近衛都督に任命される。1873明治6年朝鮮への派遣を巡る対立から辞表を提出し、鹿児島に帰る。

 

日本橋小学校・幼稚園、日本橋図書館、魚久のある広い酒井雅楽守の屋敷を邸宅にしたようですが、2,633坪を金1,586円で購入したそうです。しかし、西郷どんは屋敷の中の長屋のみを使用していたそうです。西郷どんの人柄がよくわかりますね。

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 「割烹とよだ」は1863文久3年に屋台「天狗鮨」「とよだ」と2つのお店から今の「割烹とよだ」に統合されたお店です。4代目橋本 敬様にお話を伺いました。2代目の御婆様からお話を聞かれたとのことです。西郷どんが「あかべろべろしょっばづけ(マグロ漬け)」を好んで食べにいらしたそうです。吉野鮨監修「あかべろべろしょっぱづけ」を再現する企画もあるそうです。

中央区日本橋室町1-12-3☎03-3241-1025

平日 11:30~14:30/17:00~22:00 土 11:30~14:30/17:00~21:00 火・祝休み

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「千疋屋総本店」1834天保5年創業は西郷どんが住んでいた屋敷からすぐそばの親爺橋の人形町3丁目あたりにあったそうです。熱い夏の日には2代目の御内儀むらさんに「おっかあ、でっかな西瓜、持って来いよ」と注文。その大きな声は店頭に響いたそうでした。西郷どんがとってもスイスが大好物だったことを千疋屋さんに伺いました。

中央区日本橋町室町2-1-2☎03-3241-0877  10:00~19:00

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今後のご活躍はと聞きすると、エイ子さんは2018平成30年12月1日(日)~12日(水)京王プラザホテルで個展を開催される予定だそうです。

着物離れの時代にシルクを使って編み物に変身させて、現代でもシルクの肌触りの柔らかさや軽さを身に纏ながら、この日本ブランドを世界に発信できるといいですね。2020年東京オリンピック開催が世界の人々から今よりさらに、日本文化が注目されるチャンスだと思います。日本の心を表す「おもてなし」を今から心掛けていきたいものですね。

(森エイ子様・西郷南洲流謫跡 龍様・割烹とよだ・千疋屋総本店からは取材、写真の記載の承諾をいただきました)