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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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師走のあかつき公園

[ジミニー☆クリケット] 2018年12月12日 12:00

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区立あかつき公園の、「生きている化石メタセコイア紅葉がみごとです

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生きている化石」と呼ばれる理由は、1941年に、化石学者三木茂日本産化石規準標本とし,スギ科の新属としてメタセコイア属を創設し、このメタセコイア属の植物は、当時絶滅したものと推定されていたところ、1946年に中国四川省で、メタセコイア現生種)が発見されたことによるものだそうです

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メタセコイア落葉樹で、落葉する前に、赤茶色紅葉します

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あかつき公園メタセコイアは、「メタセコイアの林」と書かれているくらい密集して立っていますので、とても迫力があります

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去年までは気付きませんでしたが、メタセコイアができていました

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メタセコイアの和名はアケボノスギだそうで、アケボノスギあかつき公園にあるのも何かの縁でしょうか

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2015年12月に同公園のメタセコイア紅葉を紹介したブログ記事はこちら ⇒

/archive/2015/12/post-2953.html

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Discover Chuo City : カトリック築地教会の敷地に住んだ億万長者

[Hanes] 2018年12月11日 14:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
もし、「カトリック築地教会の敷地に億万長者となった人物が住んでいたことがある」と言ったら、皆さんは信じますか?
私は初めてこの話を聞いた時、手放しで信じることができませんでした

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その人物は信徒ではなく、なおかつ関東大震災前の話なので、
教会にその人物についての資料は残っておらず、「やはりそんな事実はなかったのか...」と思いかけたその時、
茨城県のとある資料館にて、偶然にもそれが事実だったと知ることになりました。
今回はそのような嘘のような本当の話を通じて、
これまでほとんど知られてこなかった築地の歴史のワンシーンをご紹介します

時は戦後。日本には「戦後の三長者」と呼ばれる3人の億万長者がいました。
元力士でホテル・ニューオータニ創業者である大谷米太郎
大阪造船所社長である南俊二
そして、今回の主人公となる炭鉱経営者菊池寛実です。

お隣の港区には、「菊池寛実記念 智美術館」があるので、
彼の名前を聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません

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栃木県の馬頭町出身の彼は、炭鉱で成功していた叔父の山崎藤太郎を頼って上京し、
入船町の運河に面した場所にあった山崎商店にて、隅田川で石炭の荷下ろしをする見習いとなりました。
当時内風呂のある家は少なかったので、一町内にひとつは銭湯があり、
彼も石炭や粉炭の汚れを洗い流しに銭湯に行っていたようです

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(もしかしたら入船湯のことかもしれませんね!)

そんな彼もやがて結婚し、アメリカ大使館やホテルオークラの近くである赤坂霊南坂に住み始めます
そしてその後、築地明石町に引っ越すことになるのです。

「大正十年、一家は霊南坂の家から築地明石町に移った。この家は、昔の居留地のまんなかにあったカトリック教会に隣接する教会付属の建物で、ローマ法王所有の家であった。明治十年以前の建築で、古くはあったがレンガ建ての立派な洋館で、二階を住居とし階下を辰ノ口炭砿の事務所に使った。新興成金の住居にふさわしい、というより身分不相応なくらいの堂々たるものであった。」
立石任夫『菊池寛実伝』(大心塾、1979年)、p. 180.※非売品

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(菊池寛実記念高萩炭礦資料館(茨城県高萩市)にて撮影。)

「不景気のあとの不況の波が押し寄せてきた大正十(一九二一)年、寛実は転居している。新婚生活五年目であった。赤坂霊南坂から、築地明石町へ移転した。新居は新築ではなく、カトリック教会に付属した洋館で、ローマ法王庁所有の家だった。築四十五年というから古いが、赤レンガ建ての洋館で、当時まだめずらしい。どうしてこの家が手に入ったのか。娘の智によれば、ローマ法王庁の大司教座が霊南坂に移ったのにあわせて、寛実が譲り受けたらしい。二つの西洋館のうち、一軒は会社が使用し、もう一軒は住まいになっていた。この明石町は隅田川の河口に近く、川沿いで眺望も悪くない。数十年前まで、川に望んだ料亭など、なかなか風趣があったものだ。もともと、明治初年の、いわゆる築地居留地のあとだけに、大正時代にはまだ、居留地の名残が新東京風景としても知られているところだった。」
早乙女貢『怒涛のごとく:菊池寛実の不屈の生涯』(2008年、原書房)、p. 119.

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(菊池寛実記念高萩炭礦資料館(茨城県高萩市)にて撮影。)

寛実は、関東大震災で家が消失したのを機に引っ越すことになりましたが、
その当時の教会の様子は、以下のように記録されています

「ローマ法皇庁の力も、贅を尽くした西洋建築もこの地震の前には、抗する術もなかった。地震は火災を引き起こし、火は風を呼び、烈風が火災を煽って、東京を焼き尽くしたのだ。(...)余震のつづく三日目には、早くも入船町の焼け跡の敷地に杭を打ち縄張りして、バラックを立てた。(...)寛実はそのバラックで早くも仕事を再開始し、ついで、ふたたび明石町の旧居跡にも、バラックを建てた。ここは敷地が広いので、空地を貯炭場に利用できる。教会が荘厳な雰囲気で蟠踞しているときはとても言い出せなかったことが、震災がもたらした幸いといえようか。教会のあった敷地が石炭置場になるなどと、だれが想像し得ようか。この明石町は隅田川と掘割に囲まれているために、水運に便利なことが石炭の運搬に最適だったのだ。」(早乙女、pp. 124-126)

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(菊池寛実記念高萩炭礦資料館(茨城県高萩市)にて撮影。)

信じられないかもしれませんが、先日同期特派員の湊っ子ちゃんさんもご紹介していた教会敷地内の建物は、
かつて炭鉱事務所として使用され、石炭置場になったこともあるのです
そしてまた、後に億万長者となる菊池寛実の若き日を見届けた場所でもあるのです

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(高萩炭礦の事務所の遺構)

黒いダイヤモンドで日本の発展を支えた男の築地での一時は、
既存の文献にはほとんど残っておらず、忘れられつつあります。
しかし、外国人居留地としての印象の強い築地明石町に、それも教会の敷地に、
そのような人物が住んでいたことは非常に意外で、興味深い話ではないでしょうか?

このように、中央区内には興味深い人物伝がまだまだ眠っています。
今後も石炭を掘るがごとく、人物伝を「採掘」していきたいと思います

 

 

新富2丁目、美味しいイタリアン〔トラットリア ドゥ タスク〕

[ジミニー☆クリケット] 2018年12月 8日 14:00

新富2丁目、ランチメニュー豊富でどれも美味しい自家製パスタイタリアン、「トラットリア ドゥ タスク」です

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営業時間は、月曜日から金曜日までがランチタイムディナータイムで、土曜日ディナータイムのみとなります

くわしい時間は、末尾のHPで確認してください

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本日は、パスタセットトマトソースの「国産ハマグリ ロッソ」を注文

いろいろ魚介のペスカトーレ」も捨てがたかったのですが、次回でしょうか

最初に、グリーンサラダ

ドレッシングが、食欲を高めてくれます

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そして、「国産ハマグリ ロッソ

プリップリハマグリどっさり入っています

今日は、普通盛150gのところ、料金が同じで大盛200gでお願いしました

生麺なめらかさハマグリトマト美味しさを堪能しました

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とにかく、こちらはパスタ種類が豊富で、どれも美味しい

お勧めです

今年10月に同店を紹介したブログはこちら ⇒

/archive/2018/10/post-5648.html

こちらのお店のHPはこちら ⇒

http://du-task.com/

 

 

この季節の赤、黄、緑

[ジミニー☆クリケット] 2018年12月 6日 14:00

通勤途上で実感したこの季節ならではの

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築地川亀井橋公園サクラの葉です

特に1本のサクラの葉が赤いです

昭和通りイチョウ

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昭和通りはまだ、完全にすべてのイチョウの木が黄葉しているわけではありません

そもそも、葉が緑色に見えるのは、「クロロフィル」が含まれているからだそうで、になって日照時間短くなると、そのクロロフィルが分解されるそうです。

そして、葉の赤色は色素「アントシアン」に由来し、アントシアンからにかけての葉には存在せず、老化の過程)で新たに作られるとのこと

また、葉の黄色は色素「カロテノイド」により、カロテノイド色素系キサントフィル類は若葉の頃から葉に含まれるのですが、からにかけては視認はできず、に葉のクロロフィルが分解することにより、目につくようになるそうです。

へぇ~

そして、銀座柳通りのヤナギの

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この季節だからこそ、寒さにも負けずこの緑色を保ってくれているのがありがたいですね

ということで、この季節ならではの、でした

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ちなみに、12月4日現在の状況です。

 

 

臘八 築地の七転び八起き

[あすなろ] 2018年12月 4日 14:00

早い物で本年も師走となりました。

12月1日から8日までの8日間は、臘八大接心。

禅宗の修行道場ではお釈迦様と同じように
この一週間坐禅三昧の生活を送ります。


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お釈迦様の教えに「禅」を通じて
大成されたのが達磨大師。

「起き上がり小法師」のダルマさんは、
達磨大師の「坐禅」の姿だと言われていますね。


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黒々とした眉とお髭が魚の「築地だるま」です。
築地らしい活きの良い筆文字で
お顔の両側に"魚河岸"と"TSUKIJI"
と描かれています。

七転び八起きのダルマさんは、
商売繁盛や運が向く縁起物ですね。

鮭といっしょに吊るされてました。
築地場外市場で探してみてください。

◆歌川国芳 五節句之内睦月
 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

中央区の歩道っておもしろい!21【居留地中央通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月 3日 12:00

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こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地六丁目4番から湊一丁目1番までの、「居留地中央通り」を歩きたいと思います。この通りは、平成25年度に愛称のついた、京橋地域で一番新しい通りです。最近、整備の完了した入船・湊地域の歩道には、トキワヤマボウシの木が植えられました。

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♪ YEDO HOTEL


晴海通りに面した、築地市場内の駐車場は、その昔軍艦操練所があった場所です。

ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)、この地にあった築地講武所内に、軍艦教授所を創設したのが始まりでした。

旗本や御家人、諸藩士から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転の練習などが行われ、向将監(むかいしょうげん)や、勝海舟などが頭取を務めました。

慶応元年(1865)には、海軍所と改称されましたが、類焼により、現在の旧浜離宮庭園の地に移ります。

明治元年(1868)、新政府により「東京開市」が各国に通告され、今の明石町一帯に、築地外国人居留地が設けられました。海軍所跡地に建設された「築地ホテル館」は、「外国人旅館」「YEDO HOTEL(江戸ホテル)」などとも称され、交易で訪れた外国人のための逗留施設として開業しました。

kyotu10.png設計・施工は、清水喜助と考えられており、木造2階建、客室は102室もある大きなホテルでした。

外壁はなまこ壁、各室には暖炉が備え付けられて、海岸側にはベランダがあり、東京湾を一望できました。

また、印象的なのは、建物の中央には塔屋が設けられており、そこに鐘が吊るされて、さらに塔屋を中心に、左右対称の造りになっているところです。

これは、明治20年代まで各地に見られた、「擬洋風(開化式)建築」の典型的な特徴であり、外観は洋風でありながら、建築資材や技法は和式となっています。

しかしながら、明治5年(1872)、銀座の大火により、築地ホテル館は全焼してしまいました。


kyotu08.jpg♪ 築地外国人居留地への玄関口


さぁ、あかつき公園にさしかかりました。今のあかつき公園一帯は、かつて「明石堀」と呼ばれる大きなお堀でした。その中央に架かっていたのが、外国人居留地への玄関口とされた、「新栄橋」です。

居留地中央通りは、かつての新栄橋を渡る格好になっています。新橋から来た多くの外国人は、この橋を馬車で渡って、築地外国人居留地に入りました。

kyotu02.JPG♪ カトリック築地教会

聖ルカ通りを横切り、居留地通りと交差する地点、かつての居留地「36番」には、樹木に囲まれた小さな教会が、ひっそりとたたずんでいます。カトリック築地教会です。

カトリック築地教会は、明治7年(1874)、東京で最初の教会として、築地外国人居留地に建てられました。当初の名前は、築地聖ヨゼフ天主堂。東京で最初のカテドラル(司教座聖堂)でもありました。

kyotyu12.png明治11年(1878)、ゴシック様式赤レンガ造りの聖堂が建てられます。明治21年(1888)には、神学校内に暁星学園が発祥しました。ところが、関東大震災により焼失。現在の聖堂は、昭和2年(1927)、ジロジアス神父のもと再建されたものです。

レイ大司教の希望により、ギリシャ建築パルテノン型が採用され、ドリス式オーダー列柱、ペディメント(破風)には、チューリップとバラの彫刻が施されています。

明石町一帯は空襲を免れ、カトリック築地教会は、東京で最も古い教会のひとつとして、壮麗な姿を今に伝えています。

kyotu11.png聖堂の中に保存されているのは、「江戸のジャンヌ・ルイーズ」の愛称で親しまれた、アンジェラスの鐘です。明治9年(1876)にフランスのレンヌより贈られたもので、大小ふたつの鐘の対でした。ルイーズは小さいほう。大きいジョセフィーヌは、大正9年(1920)、大司教座と共に、関口教会へ移りました。


♪ 居留地中央通りに建つ記念碑

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1.明治14年(1881)雙葉学園発祥の地碑

2.明治15年(1882)立教女学校発祥の地碑

3.明治21年(1888)暁星学園発祥の地碑

4.明治28年(1895)関東学院大学発祥の地碑


また、居留地の外には、外国人に家を貸すことの許された「相対借地地域(雑居地)」というものがありました。居留地内には住まわず、この地区に住む外国人も多かったそうです。

相対借地地域は、居留地中央通りを沿うようにして、現在の築地六丁目・七丁目、入船・湊地域と、新富町がそれにあたりました。

今も入船地域では、聖路加国際病院の十字架がまっすぐに見える路地があります。地域のみなさんには、"十字架通り"の愛称で親しまれています。
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中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第28号 平成30年12月2日