中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

◆中央区 ここに歴史あり<5>~江戸の町地は中央区の広さ!?~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月 8日 17:00

江戸の範囲は、御府内と呼ばれた朱引き内と、町奉行支配の墨引き内との2つの区分があった。この領域に武家地、町地、寺社地が存在していた。 


これらの広さはどのくらいだったのだろうか。資料には、「明治2年(1869)の土地利用状況調査によれば、武家地(約1170万坪)が全体の約70%、町地(約270万坪)と寺社地(約270万坪)が約15%ずつ・・・」(『江戸博覧強記』小学館、2007/6)とある。調査時期は明治期であるが、幕末期と大して変わっていないとして話を進めたい。 


そこで 中央区の面積と比べてみると、中央区全体は約10.1k㎡で約300万坪、陸地面積に限れば約8.25k㎡で約250万坪となる。なんと、江戸期の町地面積と中央区の面積がほぼ同じなのだ。 中央区23区部で2番目に狭い面積であるが、この 中央区の広さが、江戸の町地の広さだったのには驚かされる。 


さらに、人口をみていくと、江戸の人口は時期により変動があり、諸説もあるが、概括的にいわれている約100万人とすれば、そのうち、町人は約50万人とされる。 


江戸の約15%にあたる約270万坪の町地に50万人が暮らしていたのだ。つまり、現在の 中央区に江戸の町人50万人が住んでいたことになる。中央区の人口は約11万人(2009年7月現在)なので、単純計算すれば、江戸町地は実に現 中央区4.5倍ほどの人口が集中した場所だった、となるが、どうだろうか。 


0913_5_090620_nagaya01.JPGこれだけでもびっくりだが、江戸庶民の多くは長屋暮しというから、いかに過密であったか想像に難くない。しかし、一方では、狭いながらも知恵を出しあって、いきいきと生業に励み、暮らしていた逞しい姿が感じられる。(写真は深川江戸資料館の長屋風景=同館は2009/7から約1年間改装工事のため休館 


今日の中央区はマンション居住世帯率が日本一とされ、高層マンションが建ち並び、敷地の立体的利用が図られているので、居住空間は江戸期とは比べようがない。しかし、江戸期の町地の暮しを現在の 中央区と重ね合わせてみていくと、時代の変化や生活の向上を真に享受する上での鑑になるのではないだろうか。 


中央区は江戸の御城下町(おしろしたまち)で、「元祖下町」である日本橋・京橋の町地は商業地、職住地などとして数多くの職種の人々で賑わいをみせ、江戸繁栄の源流となっていく。そして「人が住み、人が集まるところ、活気あり」の体を形づくった。今日の 中央区にその意気をつなげていきたいものである。


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>

第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>