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ガード下の「今川小路」 ~レトロな居酒屋横丁~

[O傘] 2010年12月 3日 11:15

中央区の北西の端をJRがわずかにかすって通っています。そのガードの一つにレトロな雰囲気を残している居酒屋横丁「今川小路」(いまがわこうじ)があります。

 

地図.gif中央区の端を通りぬけるJR線には、3つのガード(架道橋)があります。

南側から順に、

大きな外堀通りを通す「龍閑橋(りゅうかんばし)架道橋」、

 

「本銀橋(ほんしろがねばし)架道橋」、

 

そして今川小路のある「白幡橋(しらはたばし)架道橋」です。

IMG_2220coltcomp.JPG今川小路には、車が通りにくい狭い道の両側に、昔ながらの小さな居酒屋さんが軒を並べます。

 

神田、有楽町、新橋などのJR駅付近のガード下は、ご承知のようにレストランや居酒屋さんなどが多く見受けられますが、

 

中央区内のガード下の飲食店としては、この今川小路が唯一です。

 

実はこの今川小路のお店ですが、

 

南側中央区本石町で、

北側は千代田区鍛冶町(神田)

 

に所属し、中央の道路が区境になっています。

 

上の地図ですと、ちょうど日本橋本石町の北端(区境)と交差しているJRのガード下に「今川小路」があります。

 

 

この道路は、中央通りや昭和通りを突っ切って、昔の距離の単位で八丁(町)(約870m)ほど、ほぼ直線的に浜町方面(北東)に伸びています。

 

また、この道路は、江戸時代の日本橋川と浜町川を結んでいた龍閑川(江戸時代の名称は「神田堀」)といわれた川を埋め立ててできた道路です。【参考】

 

龍閑川は、昭和22年まで当時の「日本橋区」と「神田区」の区境川(くざかいがわ)でした。その後、昭和25年に龍閑川を埋め立てられてできた道路(龍閑新道)が、中央区千代田区の区境道路になりました。

 

IMG_7313tcolcomp.JPG   IMG_7312coltcomp.JPG   IMG_7310tcompt.JPG  

 

この付近のJRガードの名称にも、龍閑川の橋名や当時の町名が使われています。

IMG_5475colcomp.JPGこの白旗橋ガード下の今川小路には、

昭和26年頃から居酒屋さんなどが並び始め、

最盛期には30軒ほどの小さな居酒屋さんが集まったそうです。白幡橋ガードの大きさは、幅が約10m、長さが約50mで、

ここに居酒屋さんがひしめき合っていたそうですが、

最近、東北縦貫線の工事のため、今川小路の東側半分の約20mには残念ながら店舗がなくなってしまいました。

それでも今川小路の西半分には、中央区側に「神田(じんた)」、「まりせ」、「里(さと)」、「耕(たがやす)」、「があどした」の居酒屋さんが、

そして千代田区側に「大松(だいまつ)」、「柳水(りゅうすい)」などの居酒屋さんが健在で、昭和30年頃のレトロな雰囲気でお店を続けています。

IMG_7319colcomptcol.JPGその中の、中央区側の一番東側に位置する居酒屋さん「神田」(じんた・・と読む)に入りますと、8人も座ると満席になるL字型のカウンターがあり、常連さんが手作りの料理に舌鼓を打ちながら 人気の焼酎の緑茶割りを飲みつつ、ママさん相手に話に花が咲いていました。

通信カラオケもあり、古い歌から新しい歌まで幅広く歌われているそうです。最近は勤め帰りの若い人も増えているとか。

 

また、この今川小路は、昭和30年頃の時代設定で、夜の巷(ちまた)の居酒屋横丁のシーンの映画撮影によく使われるそうです。

 

居酒屋「神田」には、俳優の「根津甚八(ねず じんぱち)」さん、「村田雄浩(むらた たけひろ)」さん、そしてママさんのスリー・ショットの写真が飾ってありました。今川小路でのロケのときに寄ってくれたんだそうです。

 

中央区で唯一つのガード下の居酒屋横丁「今川小路」、レトロな雰囲気を今に伝える「今川小路」に足を運んでみてはいかがでしょうか・・・、中央区にもこんなところがありました。

 

 

【参考】 龍閑川と橋

龍閑川は、江戸時代(天和年間とも元禄4年(1691年)ともいわれますが)に掘られたそうで、当時は「神田堀」(別名:銀(しろがね)堀、神田八丁堀、火除(ひよけ)堀)といわれました。

十返舎一九(じゅっぺんしゃ いっく)の傑作「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」の弥次さん・喜多さんは、この神田八丁堀に住んでいた想定になっています。

 

この堀は幕末の安政4年(1857年)に一度埋め立てられ、明治16年(1883年)に再び掘られて川の名前を「龍閑川」としました。

 

龍閑川の名前の由来は、神田堀時代の日本橋川の出口にあった「龍閑橋」が明治16年の再掘まで捨てられずに残っていて、その名に因んだようです。龍閑の名前は、お城の接待役坊主の「井上龍閑」が近くに住んでいたからと言われています。 IMG_7382colcomp.JPG龍閑川は、その後次第に水質が悪化して下水化したため、昭和25年に川底におおきな下水管を埋設してそこを流すようにして、川は埋め立てられて道路(龍閑新道)になり、今日に至っています。

 龍閑川の埋め立てについては、龍閑新道を今川小路から東に進み、昭和通りに出るところに区立地蔵橋公園があり、そこに埋め立ての経緯を記した碑があります。

 

 

龍閑川の橋ですが、武揚堂で出版した「地図物語 あの日の日本橋」によれば、明治40年頃の龍閑川には、日本橋川との合流点から浜町川の合流点に向かって順に、①「龍閑橋」、②「白幡橋」(乞食橋)、③「西仲之橋」(主水(もんど)橋)、④「今川橋」、⑤「東仲之橋」、⑥「地蔵橋」、⑦「火除(ひよけ)橋」(待合橋)、⑧「九道(くどう)橋」、⑨「甚兵衛(じんべい)橋」、⑩「竹森橋または玉出(たまで)橋」(幽霊橋)の10の橋が架けられていたそうです。

なお、()内の名称は、その橋の江戸時代の呼び名で江戸切絵図(嘉永3、近江屋五平板)などに載っています。

IMG_7698coltcomp.JPGその中の「今川橋」ですが、江戸時代に地元の名主「今川善右衛門」から名付けられた橋と言われ、

日本橋から中山道を歩いて最初の橋が今川橋でした。「熈代勝覧」(きだいしょうらん)や「江戸名所図絵」に描かれていて、

今川橋の付近には瀬戸物屋が多かったようです。(上の写真は、ちくま学芸文庫「新訂 江戸名所図会」より)

IMG_3484coltcomp.JPG現在は、今川橋の跡に碑が立っています。また、「大判焼き」や「回転焼き」などともいわれる、例の「今川焼き」ですが、

この橋のそばで焼き菓子を売っていたところ「今川焼き」の名がついたとも言われています。

 

 

今川焼風景.jpg大正15年(1926年)に架けられたコンクリート製の「龍閑橋」が、今川小路の道路が外堀通りに出るところに保存されています。

 

    IMG_3480coltcomp.JPG IMG_3479tcolcomp.JPG 

日本橋川の龍閑川の入り口と思われる川岸に、埋設された下水道の水門を見ることができます。

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