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◆中央区 ここに歴史あり(44) 関東大震災復興事業を振り返る-4(銀座編)-銀座復興への足跡

[巻渕彰/写楽さい] 2012年6月12日 08:30

大正12年(19239月関東大震災発災から66カ月後の昭和5(1930)3月に復興式典が挙行されたことはすでに述べたが、先ごろ、岩波文庫『銀座復興』が刊行され、朝日新聞「昭和史再訪」(2012/6/2付夕刊)で復興式典が取り上げられた。大震災では銀座煉瓦街(金春通りの遺構碑=写真下左)が崩壊し、明治・大正期の近代遺産が消えた日でもあった。

 

今日、銀座に残る大震災帝都復興への足跡を探してみよう。

 

0913_44_120610ginza_fukko.jpgまず、「関東大震災10周年記念塔 銅造彫刻・燈臺(写真上左)が銀座四丁目先、数寄屋橋交番裏の数寄屋橋公園にある。10周年にあたる昭和8年(193391日に建立された。彫像は彫刻界の巨匠北村西望作で「燈臺(とうだい)」と名付けられ、青年が兜を装い、松明を捧げ獅子を従えた作品。西望は長崎出身、長崎平和祈念像の作者で、文化勲章を受章した。

 

刻まれた標語は朝日新聞社が懸賞募集して当選した、「不意の地震に不断の用意」である。昨年の東日本大震災では1000年に一度ともいわれる大地震津波に見舞われ、まさに"不意"の災害であった。震災後は誰もが防災対策の"不断の用意"を心掛けるようになった。79年前のこの標語は、震災の教訓をいつまでも忘れないようにと、われわれに語りかけている。

 

つぎは「新幸橋跡碑(写真上右)である。銀座八丁目先、内幸町方面に向かう銀座コリドー街の角に建っている。ここは戦後埋め立てられた旧江戸城外濠跡。関東大震災時には南の幸橋と北の山下橋に挟まれた堀川で、ここに橋は架かっていなかった。このため日比谷公園に逃げ込めなかった体験から、地元の篤志家・藤平久太郎らの私費と企業からの寄付で、昭和4(1929)9月に架けられた民間の橋であった。開橋式を祝い、渡り初めを挙行したのち、東京市にこの橋を寄付した、という。碑は同年10月建立で、寄贈した旨が刻まれ、篤志家の名前と寄付した企業名が添えられている。

 

冒頭に紹介した『銀座復興 他三篇』(写真下中)2012/3/161版の岩波文庫で、著者は水上滝太郎(1887-1940)、昭和6年(1931)発表。関東大震災で被災した銀座の人々が復興に立ち上がっていく姿を描いた小説である。料理屋を舞台に、焦土化した銀座で復興への勇気を奮い立たせる主人公の生きざまがみえてくる。

 

朝日新聞「昭和史再訪 関東大震災の復興式典」(写真下右)では、復興式典を報じた当時の記事に、「1週間続いた祝賀行事では、2万人のちょうちん行列など喜びにわいた」、と紹介している。また、「証言」コラムでは、中央区総括文化財調査指導員で、新書『銀座物語』著者である野口孝一さんを紹介し、「(盛り場として)復興後の銀座は飛び抜けることになりました。交通機関発達の恩恵を最も受けました」と述べている。●巻渕彰