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「江戸の町割りからはじまる、東京23区の成り立ち」

[CAM] 2015年11月20日 12:00

 先に、池田弥三郎氏の著書『日本橋私記』から、「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」(88)という主張を引用、紹介した。

 

 これは、「もともと」という意味であって、「江戸」の範囲はどこまでであったか、ということを明確に定義することはかなり難しい。少なくとも時点の特定が必要であろう。例えば、いわゆる「朱引」というものが行われたのは1818(文政元)年であるから、家康入府以来200年以上も経過した後のことであった。

 

 雑誌『東京人』(都市出版)の2015年5月号が「『東京35区』の境界線を歩く」という特集を組んでいる。この中で、「石原たきび」という方が「江戸の町割りからはじまる、東京23区の成り立ち」という記事を執筆されている。簡明にまとめられているので、この内容を紹介しておきたい。

 

 豊臣秀吉から関東地方開拓の命を受けた徳川家康が、江戸城に入城したのが1590(天正18)年。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで全国制覇を果たすと、地方の寒村に過ぎなかった江戸は幕府の所在地として急速に発展する。

 

 江戸の範囲は明確に決まっていなかったが、1818(文政元)年に幕府の正式見解が示される。これはおもに寺社奉行の管轄範囲を指し、地図上に朱色の線で囲んだことから「朱引」と呼ばれた。また、その内側には町奉行の管轄下とされるエリアが黒線で囲まれ、こちらは「墨引」という。

 

 江戸市中(御府内)とされる朱引内のエリアは、現在の千代田区、中央区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、渋谷区、豊島区、荒川区のほぼ全域と、品川区、目黒区、北区、板橋区の一部。山手線エリアの約二倍の面積である。

 

 1878(明治11)年には「郡区町村制」が施行。東京府15区が制定された。その内訳は、麹町区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。

 

 やがて、昭和になると東京市部は「35区」時代に突入する。1932(昭和7)年に周辺の582町村(荏原郡、奥多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の各全域)を編入し、新たに20区を制定。それまでの15区とあわせて35区となった。さらに、1936(昭和11)年には、北多摩郡の千歳村と砧村を新市域の一つである世田谷区に編入。このエリアは、現在の東京23区にほぼ相当する。

 

 その後、1947(昭和22)年3月には、戦災復興の中で35区は22区に整理統合され、さらに同年8月、板橋区から練馬区が分離して23区となった。