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長崎屋の場所

[O'age] 2017年3月27日 09:00

オランダ商館長一行の定宿長崎屋跡の説明板は日本橋室町4-4-10 に立っている。鎖国政策をとっていた江戸時代、最新の科学技術や外国語を学ぼうと多くの天文学者、医師、蘭学者などが訪ねて交流した重要な史跡である。(「中央区ものしり百科」より)

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長崎屋の建物は正面が南向きで、裏側(北側)は"カ子ツキタウシンミチ"(鐘撞堂新道または鐘突き唐人道(現・時の鐘通り))で、この道を挟んで時の鐘撞堂があったと推定される。上記説明板の立っている位置付近に正面入口があったのではないか。
「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」。

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銅鐘石町の鐘・保存先(十思公園内)

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安政六年(1859)六月十四日に"鉄砲洲船松町二丁目(現・中央区湊町 [現・明石町ではないか?筆者O'age] )"に移転。鉄砲洲は江戸の蘭学発祥の地。明和八年(1771)、杉田玄白・中川淳庵らが前野良沢の居所に会して「ターヘル・アナトミア」に打ち向い、「艪舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」と嘆息した地は同じく鉄砲洲。

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オランダ商館長のおこなった江戸参府旅行は、定例化したのが嘉永十年(1633)から年一回で、寛政二年(1790)からは貿易の半減に伴って五年目毎、四年に一回で、嘉永三年(1850)まで百六十六回。この嘉永三年に旅宿の業務はやめて、鉄砲洲移転後は輸入薬種に代表される輸入品取扱商店から輸入書籍や鉄砲その他の雑貨を扱う商店に変わり、長崎屋は"唐人参座"から"江戸長崎会所"へと転換することになった。長崎屋の第十一代目当主の源右衛門が明治八年(1875)本所で亡くなったという。
(片桐一男著「それでも江戸は鎖国だったのか」吉川弘文館、坂内誠一著「長崎屋物語」流通経済大学出版会 より)