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◆ 隅田川・両国橋の球体ってなんだろう

[隅田の花火] 2017年7月24日 09:00

そろそろ隅田川に、夏の風物詩「隅田川花火大会」がやって来ます。いよいよ本格的な夏ですね。

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江戸時代から続くこの花火。打ち上げ場所は、浅草に近い桜橋・駒形橋辺りの2ヶ所なのですが、昭和の一昔前までは、少し下流の中央区・墨田区をつなぐ両国橋の辺りでした。

 

両国橋は江戸時代に隅田川で2番目に架けられた橋。その当時、武蔵国と下総国の2つの国をつなぐ橋だったので、いつしか「両国橋」と呼ばれるようになり、人が集まる場所として、花火が打ち上げられるようになったのだそうです。

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今の両国橋は関東大震災の復興で1932(昭和7)年に完成。橋は「桁橋」というタイプで、形はシンプルなのですが、橋に近寄ってみると、親柱にある大きな球体が目を引きます。昔からこの辺りは花火に関わりがあるので、球体はよく「花火玉」を型どったものだ、と言われます。

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よく見てみると、親柱の袖には9つの小さい球体があったりします。また、大きな球体の側面には横に長い四角形があって、中には横の「2本の線」と、縦の「4本の線」があるんですよね。大きな球体もそうですが、何だかよくわかりません。

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そんなある日、昨年の春ですが私は特派員ブログで両国橋の記事を書き上げました。その時、記事に載せた2つの写真を並べた時に、ふと思ったのです。

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「この四角形、橋じゃねぇ?」

 

球体の見方を変えてみるのです。四角形を球体の上に持ってくるような形で90度転がしてみた姿を想像します。それと江戸時代の絵を比較すると、この四角形は、上向きに弓なりになった橋に見えてしまいました。

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ひとたび橋に見えてしまうと、想像が妄想へと発展します。現地で両国橋を見て、思ってしまいました。

 

「この四角形、両国橋に違いない。。。」

 

実際の両国橋と四角形を比べてみます。

 

 

まず四角形の中の横の「2本の線」。

今の両国橋は真ん中に車道があって、その両脇に2つの歩道がありますが、2本の線はその境目を表します。

 

では縦の「4本の線」は何なのか?

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これは「街灯」のある4カ所です。

 

両国橋が架けられた当初からあった、趣のある街灯。歩道と車道の境目のところに、片側に4つ、合計8つ立っています。四角形で考えると、横の「2本の線」と縦の「4本の線」でできる、8つの交点にこの街灯は立っているのです。

 

しかもご丁寧に、この「4本の線」は歩道に引かれているではありませんか。

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四角形はもう両国橋にしか見えなくなりました。

 

 

両国橋は「国と国とをつなぐ橋」。

 

四角形が両国橋だとすると、球体は「世界」とか「地球」のイメージが浮かんできます。球体全体でいうと「世界のどこかの国と国とをつなぐ両国橋」ということになり、「世界平和の祈り」のような思いがこの球体から伝わってきます。

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江戸時代の「明暦の大火」という災難を契機に両国橋は初めて架けられて、近隣にその被災者を弔う回向院が建てられたり、その後の時代に大飢饉の慰霊のために行った水神祭の折、川開きで花火を打ち上げるようになったり(隅田川花火大会のルーツ)と、両国という場所はいろいろな「祈り」がささげられてきた場所です。

 

そして起こった関東大震災という災難。隅田川には新たに橋が架けられたり、架け替えがが行われるのですが、

 

 相生橋  1926年(復興局架替)

 永代橋  1926年(復興局架替)

 駒形橋  1927年(復興局架橋)

 蔵前橋  1927年(復興局架橋)

 千住大橋 1927年(東京府架替)

 言問橋  1928年(復興局架橋)

 清洲橋  1928年(復興局架橋)

 厩橋   1929年(東京市架替)

 白髭橋  1931年(東京府架替)

 吾妻橋  1931年(東京市架替)

 両国橋  1932年(東京市架替)

 

両国橋は隅田川の震災復興橋梁としては一番最後に架けられた橋なのです。

 

復興の祈りをささげる場所として隅田川で一番ふさわしい、両国という場所。震災復興の締めくくりとして、「平和の祈り」を両国橋の親柱に表現したと考えるのも何ら不思議ではありません。

 

 

墨田区の両国駅の近くにある「東京都復興記念館」。ここにある震災復興当時に作られた東京の街のジオラマを見ると、隅田川に架けられた橋は震災復興の象徴であったことがよくわかります。

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この当時の隅田川下流の10橋を「隅田川十大橋梁」と言いますが、新大橋を除いて、残りの9つは震災復興で架けられた橋。東京の新名所となりました。

 

短期間にこれだけの多くの橋を架けることができたのは、この頃、ワシントン海軍軍縮条約で日本は軍艦の製造が制限され、鉄と工員を橋に回すことができたからなのだそうです。

その後の戦争で軍艦は海の藻屑と消えた傍らで、橋は残った訳ですから、軍縮により生まれた隅田川の橋はまさに平和の象徴とも言えるわけです。

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(震災復興下流の9橋・東京都復興記念館)

 

架橋が一番遅かった両国橋。架けられた時には全ての橋が揃っていました。

両国橋の小さな9つの球体ですが、これらにも橋が架かっているのではないか、と頭に浮かびました。大きな球体1つと小さな球体9つに架かる「隅田川十大橋梁」です。

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(十大橋鳥瞰図・東京都復興記念館)

 

隅田川の橋が表現する「世界平和の祈り」。

 ・・・少し妄想に過ぎますでしょうか。

 

 

そんなふうに思っていた矢先、昨年の秋に出版された「橋を透(とお)して見た風景」という本に、両国橋の親柱の球体の正体が書かれました。

 

この球体はなんと「地球儀」でした。「地球」という答えは、間違っていなかったみたいです。

 

でも球体を見てどう感じるかは人それぞれ。平和な感じがする「花火玉」でも良いような気がします。

 

せっかくなので、もっとスケールを大きく考えてみました。

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「四角い窓から望む大きな太陽と、太陽が照らす水金地火木土天海冥の9つの惑星。」

 

冥王星は今は惑星から外されてしまいましたが、アメリカ人により発見されたのが1930年2月。両国橋も1930年2月に着工。9つの惑星は既に揃っていました。

 


冥王星は英語ではプルート(Pluto)。この頃に始まったとされるあのアニメのキャラクターの名前に採用されたくらいですから、世間の注目度は大きかったでしょう。

 

橋の完成は昭和7年。この頃の人々の目は、花火を眺めるように空を向いていて、永遠の宇宙に夢を見ていたと思うのです。

 

 

<参考図書>

東京の橋~水辺の都市景観 伊東孝 1986年・鹿島出版会

半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義 2013年・文春ジブリ文庫

橋を透して見た風景 紅林章央   2016年・都政新報社