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◆ 京橋物語6~曲がり角の先の街

[隅田の花火] 2019年3月 7日 09:00

京橋物語のエピローグ。今回が最後となりました。

前回まで → 【①】 【②】 【③】 【④】 【⑤】

 

下は、戦後昭和37(1962)年頃の、銀座から見た京橋の街並みです。

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写真提供:中央区立京橋図書館

 

京橋通りに立つ建物は、前回の最後の戦前絵葉書からほとんど変わっていません。南伝馬町だった頃の大正時代の面影は、太平洋戦争を乗り越えて、昭和30年代も続いていたことがわかります。

 

しかし、東京オリンピックを前にして昭和38年に京橋川の埋め立てが始まり、京橋が無くなり、そのあと京橋の街の建物も一つ一つ姿を変えていきました。

 

今からちょうど50年前の昭和44(1969)年5月、京橋で最も名が知られていた建物「第一相互館」の解体式が行われています。今までずっと、この京橋のランドマークを眺め続けてきた都民から、「せめて屋上にそびえる、あの赤レンガのドーム屋根だけでも残せないものか」という投書もあったようで、惜しまれながらの解体でした。しかし、関東大震災と太平洋戦争を乗り越えたこの頑丈な建物は、解体するだけでも難工事だったそうです。

 

一方、川に架かる橋のほうですが、橋が無くなった現在も京橋跡に残されているものがあります。親柱です。親柱は3基残されていて、そのうち2つは明治8年の石橋のものと伝わる、擬宝珠の意匠の親柱、もう1つはロケットのようにも見える大正時代架橋の親柱です。

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わりと人気のあるほうは、江戸時代の香りが残る明治時代の親柱で、大正時代の親柱は、その時代に馴染みが薄いせいなのか、デザインが異様に感じられてしまう方もいらっしゃると思います。

 

この親柱はいつも、南伝馬町の街と一緒でした。大正時代に南伝馬町と一体感を持って街並みを作り、震災を乗り越え、銀座の復興を見守り、太平洋戦争も一緒に乗り越えました。しかし今はその仲間がいなくなってしまい、ある意味ひとりぼっちでかわいそうな感じもします。

 

そんな大正時代の親柱ですが、このデザインはそもそも何をモチーフとしているのでしょうか?

 

現在の京橋跡橋詰の「京橋大根河岸おもてなしの庭」には、大根河岸の記念碑や江戸歌舞伎発祥の碑があるのはご存知の方も多いと思います。しかしこの場所に、大正時代架橋の京橋の「袖柱」が残されていることは、あまり知られていないようです。

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現在、公園の車止めとして、重要な役割が与えられているこの袖柱。最近の公園の改修で、位置が少し移動したようですが、これを見て昔の袖柱だと想像するのは難しいかもしれません。

 

 

しかし、このデザインは立派です。よく見てみましょう。真ん中に大きい半球がモコッとしており、まわりに小さいのが4つ、モコモコモコモコッとしています。これ、何かに似ていませんか?。これまで、この長い物語にお付き合いして頂いた方であれば、想像してしまうものがあると思います。

 

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昭和初期・写真提供:中央区立京橋図書館

 

私には、南伝馬町のビルの「3つのドーム屋根」にしか見えてきません。

 

としたら、親柱の方も単純に、南伝馬町のビルの屋根をモチーフにしているだけではないのでしょうか。袖柱のイメージをグィ~~ンと上に引き伸ばしただけではないかと。かつての大同生命ビルのドーム屋根がトンガリ屋根になったかのように。

 

まあ、想像するのは自由で楽しいもの。歴史というものは謎があって、正体を知らない方が想像する余地があって面白いものです。せっかくなので、もう少し想像してみることにします。

 

大正時代の親柱にはまだ仲間が残されています。

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京橋跡の橋詰にある、銀座一丁目交番です。銀座のハシから、銀座の街をいつも見守っています。

 

この交番建築は80年代に建てられたそうですが、屋根のデザインは、間違いなく、大正時代のトンガリ屋根の京橋の親柱です。

 

しかし、それだけでしょうか。

 

ひさしや窓のデザインを見ると、明治の銀座の煉瓦街ではなく、大正から昭和初期にかけて、銀座の復興を見守ってきた「曲がり角の先」の街並みが見えてきました。豊国銀行、大同生命ビル、第一相互館、星製薬、三十四銀行、千代田館・・・。そしてトンガリ屋根の京橋。

 

かつての橋と南伝馬町の街並みが1つの建物になり、今は交番として銀座の街を見守っている。そう思うと、この交番のデザインは、とても素晴らしく思えてしまうのです。

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銀座通りを歩くと「曲がり角の先」に見える街、それが京橋です。明治や大正の頃を図書館で調べようとした時、日本橋や銀座の本はたくさんあるのですが、その中間にある京橋の街の本はほとんど無く、調べ方も分からず、街のイメージや時代背景を掴むこともできませんでした。そう思っていた時、あるものを見つけました。絵葉書の写真です。絵葉書は、過去の街並みをイメージできる一級史料であり、しかも京橋の街は日本橋や銀座に負けない位の絵葉書が残されているのです。その京橋の絵葉書を集め、時代順に並べ、文章で紡ぎ合わせてみました。

 

この物語で、明治・大正・昭和初期の街並みをイメージしていただきながら、今の「曲がり角の先」の街を歩いて頂ければ幸いです。きっとその先に、素晴らしい何かが待っていることと思います。

おわり。

***

<京橋物語・参考資料>

『日本近代建築の父アントニン・レーモンドを知っていますか』同プロジェクト委員会・㈱教文館/2016

『松坂屋・銀座とともに八十年』㈱松坂屋/2004

『松坂屋百年史』㈱松坂屋/2010

『松屋百年史』㈱松屋/1969

『震災復興<大銀座>の街並みから(清水組写真資料)』銀座文化史学会/1995

『明治・東京時計塔記改訂増補版』平野光雄・明啓社/1968

『第一相互館物語』第一生命保険相互会社/1971

『人民は弱し官吏は強し』星新一・新潮社/1967

『中央区沿革図集京橋篇』中央区立京橋図書館/1996

『銀座通聯合会六十年史料』銀座通聯合会/1980

『中央区の橋梁・橋詰広場~中央区近代橋梁調査~』中央区教育委員会社会教育課文化財係/1998

『東京再発見~土木遺産は語る』伊東孝・岩波新書/1993

『彩色絵はがき・古地図から眺める東京今昔散歩』原島広至・㈱中経出版/2008

『歩いてわかる中央区ものしり百科』中央区観光協会/2018

『京橋図書館画像データ』HP内記載の資料詳細欄

『戦前絵葉書』自己所有(特派員の活動費を使い収集)

***

*建物の名前や社名は時代により変遷しているものがありますが、物語の都合上、統一して記載しました。

*文章と絵葉書の年代を極力合わせるよう努めましたが、物語の都合上、合っていないものがあります。

*画像のいくつかをクリックすると拡大画像や解説画像が現れるよう施しました。

 

ご参考・現在の京橋の街並みの記事 →こちら

 

 

 

◆ 京橋物語5~南伝馬町から京橋へ

[隅田の花火] 2019年2月21日 09:00

京橋物語の5回目。前回からの続きです。

前回まで→ 【①】  【②】  【③】  【④】

 

関東大震災の後も大正時代の面影が残った南伝馬町。近代的なビルが立ち並ぶこの街は、銀座の復興していく様子を高い場所から眺め続けていくことになりました。椅子に座れば、とても気持ちが良さそうな眺望です。昭和の時代に入り、銀座通りの街並みも明らかに変わってきています。

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通りの左には、松屋の百貨店が既に開業しています。その奥にはうっすらと松坂屋も見え、銀座の街の復興は、この2つの百貨店の先導もあって急ピッチに進んでいるようです。

 

一方の昭和3(1928)年頃の南伝馬町の風景。通りには、路面電車・乗り合いバスが写り、活況を呈していることが分かります。星製薬のビルは改築が始まり、一番左の片倉館は増築によって大きくなりました。 

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昭和3年の秋には、昭和天皇の御大典(御大礼)が行われ、京橋に奉祝塔が立てられます。御大典というのは、即位の礼・大嘗祭といった一連の儀式のことです。大正天皇の時には、大正4(1915)年に行われたことは『京橋物語2』でご紹介致しました。

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今年2019年はその記念すべき年で、即位の礼が10月22日に行われるのはご存知の通りです。今年の即位の礼は、平成の時と同じように東京で行われますが、この昭和と大正の時には京都御所で行われたそうです。

 

そして、震災から7年が経過した昭和5(1930)年。震災復興事業に一つの区切りがつけられます。

s_hanabi_72-4.jpg震災で被害を負っていた星製薬のビルも装いが新しくなり、南伝馬町の街の復興も、これでひとまず終わりとなりました。とはいえ、大正時代の面影を残す南伝馬町の街並み。銀座通りを歩く人たちは一種の懐かしさを感じたのかもしれません。

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そして昭和5(1930)年3月下旬、帝都復興祭が開催されます。銀座通りには多くの市民が押し寄せ、復興した喜びを皆で分かち合います。

 

天を向く京橋の親柱と南伝馬町のビルの塔屋。記念の奉祝塔に、路面電車のダブルポール。その前に立つ群衆が見つめる先は、復興を終えた銀座の街です。

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今まで銀座を見守ってきた南伝馬町の街全体が、まるで銀座通りに向って「万歳!」と両手を上げ、復興した銀座の街を祝福しているようです。

 

もし中央区内で一度だけ、過去にタイムスリップすることができるならば、いつの時代のどこに行ってみたいですか?。私はこの素晴らしい写真の中のどこかを指定して、銀座通りを眺めてみたいです。左上の大同生命ビルのトンガリ屋根が良さそう。

 

 

でもやっぱり、右上に写る第一相互館の塔屋から、銀座通りを見下ろすのがいいかもしれないですね。

s_hanabi_72-7.jpg4丁目交差点に銀座三越も開業したこの年。銀座の街に町名変更がありました。4丁目までだった銀座は8丁目まで拡大、松坂屋銀座店が建つ尾張町の場所は銀座6丁目に変わりました。

 

そして翌年の昭和6(1931)年。南伝馬町にも同じことが起こります。

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橋が江戸以来の擬宝珠をやめたように、南伝馬町と周辺の街も江戸以来の町名をやめることを固く決心します。新たな時代へ向かおうとする意識のあらわれでしょう。選んだ新しい町名は『京橋』。それは、大正時代に形作られたモダンな街とモダンな橋が、名実ともに一体化した瞬間でした。

 

その翌年の昭和7(1932)年には、銀座4丁目交差点に服部時計店の時計台が建ちました。一方の京橋通りには、左手前に福徳生命ビルが竣工、京橋の街の顔が変わります。

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そして、京橋の街であの有名な建物を忘れてはいけません。京橋2丁目の星製薬と千代田館の間、千代田館の隣に建つことになるビルです。昭和初期の段階では、切妻屋根風なバラック、フランス料理店「鴻乃巣」が建っていました。

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昭和7(1932)年頃でしょうか。第一相互館から京橋2丁目を見ると、この時点で更地になったことが分かります。

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その建物はご存知、明治屋のビルです。昭和8(1933)年、千代田館の隣に竣工しました。下の絵葉書、僅かながら明治屋が写っています。

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こうしてみると明治屋のビルは、京橋の街に建てられたビルとしては、後発組だったことが分かります。因みに、この絵葉書に写っている建物で現在も残っているのは、この明治屋のビル、そして同じ年に竣工した、通り右奥に見える日本橋髙島屋だけかと思います。尚、銀座では同じ年に教文館ビルが建ち、現在も残っています。

 

またこの明治屋のビルは、地階と地下鉄駅を連結させて作られた建物で、建設中には、京橋駅まで地下鉄が走っていました。地下鉄銀座線は、始めから全通したわけではなく、浅草上野間が昭和2年に開通後、少しずつ開通区間を伸ばし、京橋駅までは昭和7年12月、銀座駅までは昭和9年3月に開通しています。

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写真提供:中央区立京橋図書館

 

銀座を中心に百貨店が進出し、地下鉄も開通したこの通りは、新しい客層を呼び寄せ、繁栄を極めます。しかしこの銀座通りの繁栄は、「銀座の復興を見守る」という、これまでの京橋の街の役割が終わったことを意味しました。

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この後、戦時色が濃くなり、統制がかかったのか、これ以降の京橋の絵葉書を見つけることができていません。ほぼこの形で太平洋戦争に突入し、終戦となりました。 

 

そして次回が最終回。これまで1~5回目までの長い物語となりましたが、画像のいくつかをクリックすると拡大画像や解説画像が現れるよう施してあります。もう一度振り返った上で、次回の最終回をご覧になっていただければ幸いです。

つづく。

 

 

 

◆ 京橋物語4~震災から昭和へ

[隅田の花火] 2019年2月14日 09:00

京橋物語の4回目。前回からの続きです。

前回まで→ 京橋物語 【①】 【②】 【③】

 

大正時代、大きく変貌していった南伝馬町の街並みが写された絵葉書です(大正10(1921)年頃)。絵葉書には「京橋通り」と書かれています。現在は「中央通り」という名前ですが、昔の絵葉書にはその場所毎に「銀座通り」「京橋通り」「日本橋通り」と印刷されました。それぞれの通りの名前が全国各地に写真付で届けられ、東京の発展が視覚的に知れ渡ったのです。

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しかし東京は、大正12(1923)年9月1日の出来事に襲われてしまいます。

 

この日の学校は始業式で、土曜日だったこともあり、子ども達は家路について昼御飯を食べようとしていました。被害の原因は、11時58分の地震の揺れによる建物の倒壊というよりも、そのあとに各地で発生した火災でした。それは南伝馬町も例外ではなく、街が焼かれてしまいます。

 

京橋川の少し上流、紺屋橋辺りから見ています。京橋川の護岸の先に写る大根河岸は焼失しています。しかし、南伝馬町の大きなビルは倒壊していないように見えます。

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京橋に近づいて確認してみます。下の絵葉書は、銀座側から京橋川越しに、橋と南伝馬町を見たものです。京橋は崩落を免れ、中央の背の高い第一相互館、左の大同生命、三十四銀行、右の豊国銀行のビル達は倒壊していません。あのモコモコした「3つのドーム屋根」は残ったのです。

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この関東大震災では、多くの有名な建物が崩れ落ちました。一番背が高いとされていた浅草の凌雲閣(浅草十二階)も被害を受けてしまい、南伝馬町の第一相互館がこの辺りで一番背の高い建物に成り代わります。第一相互館はこの後、復興してゆく東京を、一番高い場所から眺めていくことになるのです。

 

第一相互館から、震災の被害の状況を確認してみます。まず銀座の反対側、日本橋方面です。真下の街は、現在の京橋2丁目、当時の南伝馬町2・3丁目になります。

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瓦礫の山と化していますが、震災の3ヶ月前に竣工した千代田館は倒壊しませんでした。この葉書を作成したのは、千代田生命保険。葉書を各地に送り、本社の建物が倒れていないことを伝えました。それは契約者に安心してもらう目的があったようです。当時はまだラジオが無い時代。各地で情報が錯綜するなか、絵葉書は震災の情報を視覚的に伝えるメディアとして大きく機能したのです。

 

一方の第一相互館。この葉書も第一生命保険が作った絵葉書です。千代田館辺りから撮られた、9月28日の京橋通りになります。

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道路脇には小屋やテントのようなものが建てられ、通りには多くの人が集まっています。混沌としている様子も伺えますが、復興に向けて立ち向かう人びとのパワーも伝わってきます。

 

第一相互館から銀座方面を確認してみます。右下の京橋の袂には瓦礫が積まれているものの、その奥の大根河岸の建物は、仮屋のようなものが建ち始めているのがわかります。

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橋上には、荷馬車、リヤカーのような物が見え、復旧の真っ最中です。通り沿いの右側に建つ大きなビルは、震災を乗り越えた大倉組本館。通りの左側には、のちに開店する松屋の鉄骨が、僅かながら見えています。

 

銀座通りは、明治時代の煉瓦街から発展してきた高級街でした。しかしここでその時代の終わりが告げられ、新たな街へのスタートが切られることになったのです。

 

他のビルの状況を確認してみます。奥に東京駅が見える方角です。家々が建てられて、復興してきている様子も伺えます。

s_hanabi_71-7.jpg左のビルは片倉館、右は真四角窓の星製薬です。片倉館はこの後増築を繰り返して大きくなっていきますが、星製薬のビルは被害を受けてしまったため、この後、建て替えられることになります。真ん中に走る鍛冶橋通りは、震災復興事業による道路の拡幅が行われていきます。

 

この大震災の影響で、11月に行われる予定だった東宮殿下(のちの昭和天皇)の婚儀が延期となっていました。翌年の1月26日にご成婚、6月5日に祝賀となり、京橋には奉祝塔が建てられます。

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南伝馬町から銀座方面を写したものですが、銀座の新しい街並みが、もう形作られてきていることが分かります。この祝賀は、復興してゆく銀座通りに新たな希望と勇気を与えたのではないでしょうか。この5ヶ月後、銀座通りの尾張町には百貨店の松坂屋が開店することになります。

 

一方の南伝馬町。この界隈の大きなビルは倒壊しなかったため、銀座側から見ると震災前からほとんど景色が変わっていないように見えてしまいます。実際に絵葉書を見て、震災前なのか後なのか、時代を特定するのにとても苦労しました。

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手掛かりとなったのは、絵葉書に書かれている文字と、一番左手前に写るバラック風の建物です。この建物が写っていれば、震災後の南伝馬町の風景になります。

 

乗り合いバスが多く写るようになってくるのもこの頃から。大正14(1926)年の風景です。この年は、ラジオ放送が開始された年でもあります。

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震災があったにもかかわらず、大正時代の香りを残した南伝馬町の街並みは、何も起こらなかったかのように『昭和』の時代を迎えます。生まれ変わる為に最善の道を探る銀座の街からすれば、この南伝馬町の街並みは、ノスタルジックでもあり、見守ってくれているようでもあり、異様にも見えたかもしれません。

 

しかしここで突然、南伝馬町の街並みに変化が起こりました。

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左側の大同生命ビルのドーム屋根が、なんと、グィ~ンと伸びたのです。

 

このトンガリ屋根はまるで、大正時代の京橋の親柱の意匠が乗り移ったかのよう。橋を架け替える時にまさか将来を予見して、親柱の意匠をトンガリ風にしたというわけではないでしょう。南伝馬町の街はどちらかと言うと、新しく生まれ変わるというよりも、昔へと回帰しているように感じられてしまいます。

 

いずれにしても、南伝馬町の街並みと京橋の意匠が一体化したのは事実のように思います。

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このように、関東大震災を乗り越えた南伝馬町の街並みは、大正時代の雰囲気をそのまま昭和時代へと継承し、復興してゆく銀座の街を見守り続けていくことになったのです。

つづく。

 

 

 

◆ 京橋物語3~大正建築ロマン

[隅田の花火] 2019年2月10日 18:00

京橋物語の3回目。前回からの続きです。

前回まで→ 【京橋物語①】 【京橋物語②】

 

現在の中央通りと鍛冶橋通りが交わる京橋交差点に、大正時代の中期、円形ドームの塔屋のある建物が出現しました。今回はこの建物からお話を始めることに致します。

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これは、あの東京駅の駅舎や日本銀行本店で有名な、辰野金吾が設計した建築です。第一生命保険所有の建物で、名前は『第一相互館』。建設工事が始まったのは、東京駅が完成した翌年の、大正4(1915)年のことでした。

 

その当時、この辺りにあった高層のビルは、日本橋の三越本館、銀座の大倉組本館などの5階建てでした。第一相互館が完成すれば、それを上回る7階建て、屋上の塔屋まで45mの高さを誇る大建築となります。

 

当時は第一次世界大戦がもたらした好況時代であったものの、インフレによる建築材料不足が原因でなかなか工事が進まず、鉄骨が組みあがるのに2年もかかってしまいました。ご覧のように、異様な高さを誇る鉄骨状態の第一相互館がそびえていますが、度々工事が中断してしまったことで、お化け屋敷と呼ばれたこともあったようです。

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そんな中、辰野金吾が完成を待たずに急逝してしまいます。大正8(1919)年3月、今からちょうど100年前のことでした。その後の不況もあり、建設作業は困難を極めます。

 

第一相互館が建築中のさなか、その100年前の5月には京橋に奉祝塔が立っていました。三大祝典と称されたこの祝典。東宮殿下御成年式、市制三十年、奠都五十年の3つが重なったお祝いです。東宮殿下とは、後の昭和天皇のことで、この時に18歳を迎えられています。

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通りの右側には建築中の第一相互館が写っていますが、通りの左側では、大同生命ビルの向こうで何やらビルの工事が始まっています。元々4階建てだったビルを7階建てに改築している最中で、この年に完成したようです。

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このビルは、新興製薬会社の『星製薬』本社の建物で、創業者の星一(ほしはじめ)が建てました。星一は、アメリカに留学したあとこの会社を興し、特約店の方式を初めて取り入れるなどの経営手腕を発揮、この会社を東洋一とまで呼ばれる製薬会社に押し上げた人物です。

 

星一の息子は、SF作家として知られる星新一ですが、その後の星製薬の運命は、彼が書いた悲しい物語から伺い知ることができます。

s_hanabi_70-5.jpg建築中の第一相互館の斜め向かいに建てられたこの建物。銀座側から見ると正方形に近い窓の形が特徴で、この後も絵葉書の風景に度々登場してきます。屋上には「クスリはホシ」という看板が赤い文字で光っていました。

 

そんな星製薬のビルの完成を横目で見届けたあと、いよいよ辰野金吾の遺作・第一相互館は完成します。妥協を許さない施工を守り通し、予定より3年遅れ、工費は予算の倍、苦難の末の完成でした。大正10(1921)年3月のことです。

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辰野金吾建築の特徴でもある、古典的赤レンガスタイルが随所に生かされた建築でしたが、最大の特徴は何と言っても45mという建物の高さです。その塔屋からは、現在の中央区全域を見渡せていたはずです。

 

この写真は大正10(1921年)、第一相互館から見た銀座の方向です。

s_hanabi_70-7.jpg写真提供:中央区立京橋図書館

 

ご覧のように、銀座通りは京橋の所でカーブしているので、第一相互館の屋上は、銀座通りを真ん中から見下ろせる絶好のロケーションとなりました。この頃の銀座に見える背の高い建物は、通りの右側の大倉組本館だけであることがわかります。当時の銀座は、カフェーが隆盛を誇っていた時代でした。

 

一方の日本橋方面の眺め。同じく大正10(1921)年頃でしょう。こちらも大きなビルはあまり建っていないようです。

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左下には、田村の帽子店が見えています。以前に特派員のyazさんがレポートされた、レストランの鴻乃巣の場所はこの付近と思われます。当時の様子もよくわかりますので、是非こちらをご覧になってください。

★特派員yazさんの記事 → こちら

 

そして下の絵葉書、おそらく翌年大正11(1922)年の、銀座側から見た南伝馬町の風景です。

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南伝馬町が大都会の風景に変貌しています。その中でもモコモコモコッと短期間に現れた「3つのドーム屋根」は、銀座から見て、南伝馬町のシンボル的建物に見えたに違いありません。いつの間にか、大同生命ビル手前には『三十四銀行』の四角いビルが建ち、そして星製薬のビルの向こうにも新たなビルが建築中です。

 

手前をよく見ると、道路工事をしている様子も伺えます。南伝馬町は大正時代に入り、建築の分野で大変貌をとげましたが、それが土木の分野も呼応したのです。これはおそらく、京橋の架け替えに関わる工事と思われます。

 

京橋は、この大正11(1922)年に橋を拡幅、今までの江戸の伝統的な擬宝珠のついた親柱をやめることを決断します。そしてモダンなデザインの親柱を持つことにしました。南伝馬町の街並みにマッチした、近代的なデザインになりたかったのでしょう。この親柱は現在も1基、京橋跡の現地に残されていますので、ご存知の方もいらっしゃると思います。 

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こうやって見ると、この親柱のデザインは「3つのドーム屋根」が作り出す都市景観と調和し、銀座側から親柱越しに望む南伝馬町はまるで、上へ上へと伸びる、天に向かう街のように見えてしまいます。

 

周りにもビルが増えました。絵葉書の左上のビルは大正11(1922)年の竣工の『片倉館(片倉生命ビル)』。場所は現在の東京スクエアガーデンの鍛冶橋通り沿いで、数年前まで片倉工業ビルとしてこの地にありました。

一方、通り左側の一番奥に建てているのは、『千代田館(千代田生命ビル)』。翌年大正12(1923)年の竣工で、現在の京橋トラストタワーが建つ場所です。

 

このように大正時代は、第一次大戦による好景気の中で生命保険や金融会社が隆盛を誇り、南伝馬町には銀座に先んじて多くの高層のビルが建てられていきました。現在の我々から見れば、この頃に作られた南伝馬町の街並みは、大正ロマン全開といったところですが、当時の人々には、東京の代表的な都会の街並みとして知れ渡ったようです。

 

しかしこのあと、東京、そして南伝馬町は、あの日の出来事に襲われることになるのです。

つづく。

 

 

 

◆ 京橋物語2~明治の凱旋門

[隅田の花火] 2019年2月 6日 18:00

京橋物語。前回からの続きです(前回はこちら→【京橋物語①】)。

  

銀座から見た京橋の街です。この2つの街の境にはかつて京橋川が流れ、その上に京橋が架かっていました。明治・大正時代に架けられた橋の親柱が史跡として残されていますが、現在の街並みからその時代を想像するのは、もはや難しい状況となっています。

s_hanabi_69-1.jpgですが、銀座から望む京橋の街は、かつては絵になる風景として知れ渡っていました。どんな街だったのか。どのように街並みが作られていったのか。絵葉書を使い、何回かに分けてご紹介していきたいと思います。

 

一枚の写真からお話を始めることに致します。

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写真提供:中央区立京橋図書館

京橋川に架かる『京橋』を銀座側から見ています。時は明治28(1895)年、京橋の街通りは『南伝馬町』という町名で、橋の南伝馬町側には一時的に巨大な門が立っていました。これは日清戦争の時に建てられた凱旋門。出征した兵士を出迎えるため、全国各地にいろいろな形をした凱旋門が建てられたのだそうです。

一方の『京橋』。創架は江戸時代初期と言われますが、この時代の橋は明治8(1875)年、九州肥後の名石工・橋本勘五郎によって、木製から石造りに架け替えられたものです。見事なアーチを描くこの橋の親柱は、京橋の伝統的な擬宝珠の意匠を持っていました。

 

京橋はその後、明治34(1901)年に鉄橋に架け替わります。親柱や欄干は先代の石橋のものが転用されたと言われ、アーチの側面には中の構造が見えないように覆いが被さり、模様が施されていました。

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左の和風の門は明治38(1905)年頃、日露戦争の時に建てられた京橋凱旋門。凱旋門のある方が銀座側です。橋の上には路面電車が走り、京橋川には米俵を運ぶ小舟が浮かんでいます。

 

これは絵葉書です。絵葉書は明治33(1900)年に私製のものが許可されると、その後の日露戦争の戦勝ムードに乗って、大流行しました。この頃はまだラジオが無い時代で、各地に情報を伝える手段として絵葉書は重要な役割を果たしたのです。そしてその情報は、20世紀初期の貴重な史料という形で、時を隔てた現在にも届けられているというわけです。

 

銀座通りの絵葉書には、よく路面電車が写っています。京橋を鉄製に架け替えた後に、路面電車が通り始めたのが明治36(1903)年ですので、絵葉書は鉄製の京橋、そして銀座通りの路面電車の歴史と同じような時期に始まりました。

 

こちらは、南伝馬町から凱旋門の中の銀座通りを眺めたもの。万国旗がたなびく中、花電車が走り、橋の上には民衆が押し寄せています。歴史の教科書では学べない、当時の空気感が味わえるのも絵葉書の魅力です。

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絵葉書の魅力はまだあります。たまに、面白い物が写っていることです。こちらは、銀座から南伝馬町を眺めた絵葉書。右端にガス灯のようなものが写り、左下には電話ボックスが写っています。

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電話ボックスについては、以前に特派員のHanesさんがレポートされた記事で初めて知りました。是非こちらをご覧になってください。

    京橋にあった!日本初の街頭公衆電話 →こちら

 

因みにこの絵葉書は「手彩色絵葉書」と呼ばれるもので、一枚一枚に彩色師が色をつけたもの。その人の好みの色で塗られていることがあるので、本当の色であったかどうかはわかりません。

 

電話ボックスの右上の遠くに目を凝らすと、時計台が写っているのがわかります。これは南伝馬町の小林時計店。小林時計店は、八官町(今の銀座八丁目)に建てた大時計台が有名で、この南伝馬町の支店にも時計台を建てていました。あの服部時計店の創業者・服部金太郎は、この小林時計店の繁盛ぶりを見て、時計商になろうと決意したのだそうです。

 

下の絵葉書はおそらく明治末期の南伝馬町の風景。橋の向こう側には南伝馬町のビアホールがあり、一番右には「きやうはし」と書かれた京橋の親柱、そしてガス灯のようなものが写っています。

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現在の京橋跡には、「きやうはし」と「京橋」と彫られた2基の親柱が残されていますが、当時、実際に設置されていた場所はご覧のように、「きやうはし」は銀座側から見て手前右側、「京橋」は南伝馬町側から見て手前右側でした。

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因みに、もう2つあるはずの親柱について、過去の写真を調べてみたところ、1つは明治34年の架橋年月、もう1つは何か文字が彫られているようですが、解読できませんでした。

 

このあと、『大正』の時代に入っていきます。大正2・3(1913・4)年の頃と思われるこの写真。南伝馬町から銀座方面を写したものです。右側の建物は日就社。現在の読売新聞社がここにありました。

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日就社は、明治末期に時計台を立てていたものの、数年で取り外してしまいました。銀座の街は明治時代、新聞社が多数集まっていた場所で、情報の集積地でもあったのです。

 

一方の南伝馬町側には大正3(1914)年、日就社の橋の対角線上に『豊国銀行京橋支店』のビルが出来上がります。現在のLIXILの入るビルが建っている辺りです。

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絵葉書のデザインは、おそらく円形ドームの塔屋から見えた景色でしょう。大正時代に入ってこのビルができて以降、南伝馬町の街は急激なスピードで花開くことになるのです。

 

翌年の大正4(1915)年の京橋ですが、南伝馬町側に奉祝門、銀座側には奉祝塔が立っています。京橋をはじめとする主要な橋には、何か大きなお祝い事があると、こういうものが建てられました。

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これは11月に大正天皇の御大典(即位の礼と大嘗祭)が行われた時の絵葉書。スタンプに描かれているのは、皇位継承時の即位の礼で用いられる、八角形の高御座(たかみくら)です。現在の高御座はこの大正天皇の時に再現されたものだそうで、今年もこれが使われます。

 

違う角度から南伝馬町を見てみると、通りの右側に豊国銀行が写り、その向かいには新たな建物の建設が始まっています。

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これは、翌年の大正5(1916)年に竣工した大同生命保険東京支店の建物。『大同生命ビル』と呼ばれ、豊国銀行と同じような円形のドーム屋根を持っていました。このあと大正ロマンの雰囲気を醸し出す、南伝馬町の顔となる建物になっていきます。現在の場所で言うと、東京スクエアガーデンの地階にある、中央エフエムの上辺りです。

s_hanabi_69-12.jpg写真提供:中央区立京橋図書館

大正5(1916)年頃でしょうか。この大同生命ビルから眺めた橋、そして銀座の街並みです。

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背の高いビルが建ち始めた南伝馬町。銀座の街を高い場所から俯瞰できるようになり、これからこういう写真が現れるようになってきます。大正時代の南伝馬町はこうやって開幕したのでした。

つづく。

 

 

 

◆ 京橋物語1~銀座から見える曲がり角

[隅田の花火] 2019年1月31日 12:00

今日は銀座シックスの屋上に来てみました。

 

銀座通りの人混みを歩いたあと、ここに来てみると少し心が落ち着きます。屋上をゆったりと周遊して、東京タワーやスカイツリーを探してみるのも良いものです。でも眺めてみたいものは他にもあります。それは銀座の街並みです。その中でも一番なのは、4丁目交差点方面ではないでしょうか。

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和光の時計台は、実に良いです。ですが銀座の街は、思ったよりゴチャゴチャしているんだなぁ、という印象です。 

 

銀座シックスが建つ前、この場所にあったのは松坂屋銀座店。その松坂屋からの戦前の風景は、このような感じでした(昭和8(1933)年頃)。

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今と比べればスッキリとした、関東大震災から約10年後の銀座です。4丁目交差点に建つ和光はこの当時、服部時計店と言いました。右の向かいにあるのが銀座三越、服部時計店の向こうに見えるのが教文館です。

 

歴史を調べてみたところ、この3つが建てられたのは、以下の年でした。

    昭和5(1930)年・銀座三越 

    昭和7(1932)年・服部時計店

    昭和8(1933)年・教文館

もし過去に向かって少しずつ遡ることができれば、新しい順に建物が無くなっていくはずです。今回は少し趣向を変え、過去にタイムスリップして、銀座通りの時間旅行にご案内してみたいと思います。

 

まず、少しだけ遡ってみたのですが、無くなったビルがあります。分かりますでしょうか。

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歴史のとおり、教文館が無くなりました。服部時計店は建っているので、教文館が建つ前年の、昭和7(1932)年頃の風景です。

 

教文館の設計者はアントニン・レーモンド。銀座の街には、彼が設計した建物がいくつか建ちましたが、今いる松坂屋も彼の設計の時代があったそうです。

一方の服部時計店。この時計塔は2代目で、初代の時計塔が建ったのは明治27(1894)年でした。改築のために初代が取り壊された後に関東大震災に遭い、震災から9年後にこの2代目が建ったというわけです。

 

さらに遡ってみます。昭和4(1929)年頃の4丁目交差点です。

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服部時計店の建物が無くなりました。向かいにはクレーンが立っているので、三越は建築中といったところです。その向こうには山口銀行、さらに向こうに見える大きなビルは、百貨店の松屋銀座です。松屋はこの当時、既に営業していたことがわかります。

 

さらに遡りましょう。

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すると服部時計店の場所に低層のバラック風の建物が現れました。昭和初年の風景です。この低層の建物は震災後に建てられ、三越が入居して一時的に営業をしていたといいます。その後三越は、向かいの場所にビルの建設を始め、昭和5(1930)年の帝都復興祭の直後、大規模百貨店として今の銀座三越を開業しています。

 

さらに遡り、震災の年に近づいてみます。すると松屋のビルが鉄骨に変わります。

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写真の一番下には、松坂屋のビルの鉄骨の影が写っているように見えるので、松屋、松坂屋のビルが共に鉄骨だった時代のようです。歴史的にはそれぞれの開業が、

    大正13(1924)年12月1日・松坂屋

    大正14(1925)年 5月1日・松屋

ですので、大正13年頃の風景ということになります。大正13年といえば、関東大震災のあった翌年で、この風景の中にも建物を再建している様子をあちらこちらに見ることができます。

 

 

ご覧のように、現在の銀座シックスの屋上は、関東大震災の後、銀座の街の復興をずっと眺め続けてきた場所でした。

 

松坂屋は、銀座に初めて開業した大規模百貨店です。この当時、ここ銀座6丁目は尾張町と言い、ビルを建てたのは国光(こっこう)生命保険。上階で国光生命が営業し、下階に松坂屋が入って店を構えました。

s_hanabi_68-7.jpg今では信じられませんが、全館土足入場ができる初めての百貨店として話題を呼びます。賑わう屋上動物園や、近隣の駅から出る黄色い送迎バスもあり、松坂屋の開店によって銀座は、高級志向の街から一般大衆も楽しめる街へと変化していきます。

 

一方の松屋銀座はどうだったのでしょう。少し遠くて見えないので、空中移動して近づいてみます。

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はためいている旗は、松と鶴からデザインされた松屋のマーク、そして下に見えているのは銀座通りです。ここは完成後の松屋の屋上。銀座3丁目から1丁目の方向を眺めています。

 

松屋の開業は、松坂屋の開業から約半年後の大正14(1925)年でした。松屋自体は明治2(1869)年に横浜で鶴屋として創業していますので、今年は創業150周年にあたります。8階建てのこの建物は、生命保険会社により建設が始まります。しかし途中で松屋が下階に入居することに決まり、設計変更で大きな吹き抜けが作られることになりました。鉄骨の状態で震災に襲われるも、その20ヶ月後に開店します。

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特に内装はとても豪華だったようで、来店する多くの人びとを魅了し、話題をさらいました。このあと松坂屋と共に、銀座の復興を牽引していく立役者となっていきます。

 

銀座通りに目を移してみると、斜め向かい方向に大きなビルが見えます。これは大正4(1915)年に5階建てとして竣工した大倉組本館。建設当時は東京でも最高層のビルでした。

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建てられてた年からも分かるように、このビルは関東大震災を乗り越えました。大倉組本館といえば、アーク灯が灯された初代の建物の頃も知られていますが、それはこの風景の40数年前の話。写真は2代目の建物、昭和初年の風景です。カルティエが入る現在のOkuraHouseは4代目になります。

 

気になってしまうのは、銀座通りの向こうの「曲がり角の先」に見えるビル群。何だか大正ロマンを感じさせる、雰囲気の良さそうな街並みが広がっています。きっと素晴らしい街に違いありません。

 

大倉組本館の屋上に空中移動して、少し近寄ってみることにしましょう。

s_hanabi_68-11.jpg左側の「トンガリ屋根」と、右側の「円形ドーム」の背の高いビルが印象的。昭和初年です。

 

この場所で大正時代に突入してみます。大正14(1925)年頃の、曲がり角の先の街並みです。

s_hanabi_68-12.jpgん?何かが変わりました。

トンガリ屋根が円形ドームに変わっています。大正時代はトンガリ屋根ではなかったみたいですね。 この曲がり角の先にある街は、現在の京橋、この当時は『南伝馬町』という町名でした。曲がり角には京橋川が流れていて、その上に『京橋』が架かっているはずです。震災から数年しか経っていないこの時に、大きなビルが立ち並ぶ街は、どのような発展を遂げたのでしょうか。

 

今回はここまでに致します。銀座通りのタイムスリップと空中散歩。いかがだったでしょう。次回からは、この「曲がり角の先」の街並みについて、時代順にご紹介していきたいと思います。『京橋物語』のプロローグでした。

(参考文献等はエピローグに纏めて記載予定) 

 

 

 
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