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◆ 日本橋のアンテナショップで旅の余韻に浸る

[隅田の花火] 2018年11月16日 12:00

中央区の秋のイベントの「まるごとミュージアム」や「日本橋・京橋まつり」が終わり、いよいよ街の風景もクリスマスや歳末向けての装いに変わっていきます。冬に向かう街の風景を眺めていると、自然と今年一年の自分自身を振り返ってしまうものです。

 

ご存知のように中央区には、全国各地のアンテナショップが数多くあります。その中でも最近訪ねた旅先のお店は、その土地の記憶が新しいせいなのか、つい覗いてみたくなってしまいます。

 

仕事帰りに夜の日本橋を歩いて、いくつかお店を巡ってみましたので、旅の余韻に浸りながらご紹介してみることにします。

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日本橋にあるアンテナショップで一番神田寄りにあるのが、「日本橋ふくしま館-MIDETTE」。今秋に浅草から出ている東武電車に乗って、のんびりな「会津」の旅を満喫してきたのですが、その福島県のお店です。

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今年は「明治150年」ということで、東京では祝祭イベントも行われましたが、会津では「戊辰150周年」という呼び方をしていました。ご存知のように会津は、150年前の「戊辰戦争」で悲しい戦いが繰り広げられた場所です。そういう歴史があったことを改めて思い出させてくれた旅でもありました。

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そんな旅先での楽しみのひとつは、その土地の郷土料理。会津には「こづゆ」という料理があります。お正月や祝いの席で出される料理だそうで、乾物や根菜類の具がたくさん入った「ご馳走」。その素朴な味わいにとても癒されてしまいました。
このお店で探してみたところ、棚に並んでいたので買って帰りました。 

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食べたお土産があまりにも美味しくて、「もっと買ってくればよかった」と後悔した時に活用できるのがアンテナショップです。もしそのようなお土産があるようでしたら、お店に入って探してみてください。きっと見つけられることと思います。 

 

 

日本橋を渡って、今年新装された髙島屋の前に来ました。この辺りの街の風景も最近ガラリと変わってきて、散策する楽しみも増してきました。

s_hanabi66-5.jpgこの近くにある山口県のアンテナショップが「おいでませ山口館」。山口県は中国地方の最西にある県ですが、中国地方には魅力的な橋が多いので、橋好きな私にとってとてもうらやましい場所です。 

 

山口県では錦帯橋という歴史ある橋や関門海峡に架かる関門橋が有名ですが、一番思い出深いのは一昨年に訪れた「角島大橋」。まるで沖縄の海にいるかのような絶景は、今でも忘れることができません。

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さて、このお店に立ち寄ってみたのは、前回書いたブログ記事で吉田松陰について取り上げたこともあり、興味が生まれたからです。

 

    前回のブログ記事⇒ 十思公園で何を思う

 

今の中央区の小伝馬町にあった牢屋敷の中で、吉田松陰は「留魂録」という弟子宛の遺書を書き、翌日に処刑されました(安政の大獄)。弟子に渡った留魂録は、幕末の志士たちの心の礎となり、明治維新の原動力にもなりましたが、萩の松陰神社発行の留魂録の解説冊子がこのお店に置いてあったので、試しに買って読んでみました。

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幕末の安政の大獄で、福井藩士の橋本左内も松陰処刑の20日前にこの牢屋敷で処刑されています。松陰と左内が出会うことは叶わなかったようなのですが、松陰はこの留魂録にその左内のことを書いています。

 

左内は謹慎中も「歴史に学ぶ」姿勢を崩さず、中国の歴史書「資治通鑑」を読んで注釈をつけていたそうです。松陰は獄中でそのことを知って、その学ぶ姿勢に感銘を受け、左内に会えなかったことを嘆いています。

 

前回のブログ記事にも書きましたが、この「資治通鑑」は、小伝馬町牢屋敷の跡地に建てられた「十思小学校」の名前の由来にもなった書物。私の勝手な想像ですが、明治になってこの小学校の名前を考えた人は、この地にゆかりのある留魂録に書かれている「学ぶ姿勢」を、学び舎である小学校の名前に託したかったのではないでしょうか。

 

そう思うと、「十思小学校」という名前はとても奥深い名前なのだと感じてしまいました。

 

山口県は、金子みすゞや中原中也といった詩人を輩出した場所でもあります。アンテナショップにはその土地の歴史や文学に触れることのできるお店もあるようで、旅先でしか手に入れることのできない本もあるかもしれません。その方面がお好きな方は、お店に入って探されてみるのもよいかと思います。

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さて最後は、東京駅八重洲口の八重洲地下街にあるアンテナショップ「北海道フーディスト」です。北海道は広いので名産品も多く、店内でも様々な品が並んでいますが、その中でも有名なのは「昆布」ではないでしょうか。

 

今年の夏休みの旅先は、北海道の利尻島でした。

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そこで干されていた昆布は、旅で見た思い出の風景のひとつです。北海道の昆布は生産地域によって、羅臼昆布・日高昆布・利尻昆布などと呼ばれていたりしますが、それぞれ特長があるので、用途によって使い分けるのが良いらしいです。11月15日は「昆布の日」で、お店でもコーナーが設けられていましたが、アンテナショップは、その土地の名産品に触れられるのが最大の魅力です。

 

今年の夏には、天皇皇后両陛下が平成の世でおそらく最後の「離島への訪問」ということで利尻を訪ねられました。この利尻は島ではありますが、島全体が大きな山。北海道銘菓の「白い恋人」のパッケージにも描かれているその勇壮な姿は、多くの登山家を引き寄せます。

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今年私は、富士山を三十何年かぶりに登ることになり、練習としてこの利尻を登ってみたのですが、初心者登山なのでかなり過酷な道程。ですが今年一番の思い出となりました。

 

富士登山では、「プリンスルート」という登山道で頂上を目指すも、何故か東から西に向かう台風が接近し、残念ながら7合目で引き返しました。下山の道程はとても恐ろしく、山の天候の怖さをまざまざと体験してしまいました。

 

この「プリンスルート」は、登山好きで有名な皇太子殿下が登られた道ということで名付けられた、新しく築かれた登山道です。「平成」という一つの時代が終わり、いよいよ新しい時代への道が築かれていくことになりますが、その来年は災害のない平穏な年であってほしいものです。

s_hanabi66-11.jpgこれから街の風景もきらびやかになり、平成最後のクリスマス、そして歳末を迎える中央区。アンテナショップの多いこの街で、今年一年を振り返りながら、お店を巡ってみるのも楽しいもの。皆様、いかがでしょう。

 

  ●関連HP⇒  東京 中央区観光ガイド・アンテナショップ 

 

 

 

◆ 十思公園で何を思う

[隅田の花火] 2018年10月11日 12:00

築地方面から地下鉄日比谷線の先頭車両に乗って、小伝馬町の駅で下車。目の前にある改札を出てエレベーターで上がっていくと、お寺が現れる。このお寺の名前は「大安楽寺」。ここは、江戸時代に小伝馬町牢屋敷があった場所である。

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小伝馬町牢屋敷は2600坪という、当時の牢屋敷の中でも最大規模の広さを誇っていた。その位置は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、学校跡地の十思スクエア辺りとされているが、特に大安楽寺は処刑場のあった特別な場所だと言われている。なのでここに建つ赤い文字の石碑は、ほかでは味わえないような雰囲気を醸し出している。

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事実、明治時代になった後、この牢屋敷の跡地はなかなか使われない土地だったそうだ。そこで、霊を慰めるためにこのお寺が建てられた。「大安楽寺」という名は、財閥系出資者の大倉喜八郎と安田善次郎の二人の名前からとられたとも言われている。

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牢屋敷で処刑された有名人は、やはり吉田松陰だろう。幕末期の安政6(1859)年10月27日、安政の大獄により29歳の生涯を閉じている。隣にある「十思公園」には吉田松陰の石碑が建てられていて、松陰の辞世の句が刻まれている。

 

こういう土地柄ということもあり、訪れる人も少ないだろう思っていたが、意外にもこの石碑の前にパラパラと人が現れる。十数分の間に、若い男性、歴女的な女性二人組、80歳くらいのおじさん、と続いた。それぞれ、どういった思いでこの場所を訪ねているのだろうか。

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そのおじさんが声をかけてきた。刻まれている文字が読めないという。

 

身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも

留置まし大和魂

 

と、何とか二人がかりで読みあげたが、その後に続く、

 

十月念五日 二十一回猛士

 

の意味が分からなかった。

  

このおじさんは何と、吉田松陰の地元・山口県の方。瀬戸内に浮かぶ周防大島のご出身だそうで、『松陰先生』を慕ってこの場所を訪ねられた。思っていたよりもこの石碑の扱われ方が粗末であると感じられたようで、少し残念なご様子。「記念に写真を・・・」と撮ってさしあげたところ、かなり喜んで下さり、そのあと熱い語りが始まった。その『松陰先生』への思いは並々ならぬものであると感じながら、石碑の前で耳を傾けた。

 

 

あとで調べてみたところ、この辞世の句は小伝馬町獄中で書かれた「留魂録」の冒頭の一節。十月念五日(25日)に弟子宛の遺書として書き始め、処刑の前日・26日の夕方におよそ5000文字を書き終えている。「二十一回猛士」というのは、吉田松陰の号だった。

 

2通書かれたものの、弟子達に届けられた1通は幕末の動乱で失われてしまったのだとか。もう1通は八丈島(三宅島とも)に遠島になった同牢の沼崎吉五郎に託され、刑が解かれた十数年後、元塾生の野村靖の手に渡り、萩の松陰神社に預けられた、という長い物語がある。

 

十思公園にある石碑に刻まれた文字は、その松陰直筆の「留魂録」の文字を拡大彫刻したものであるらしい。なので『松陰先生』によって生み出された辞世の文字は、巡りめぐってこの小伝馬町の聖地に里帰りしてきた、ということになるのだろう。

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さて、この十思公園界隈にはいろいろな史跡があり、見るべきものは多い。その中でも今日見入ってしまったのは、「十思之疏」の説明板。十思は「じっし」と読み、聞きなれない日本語だと前々から不思議に思っていたが、今日はようやくその疑問を解決することができた。

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明治になり、ここの学区が第十四小区だったことと、中国の歴史書「資治通鑑」の中の「十思之疏(じっしのそ)」の音が十四に通じるところから「十思小学校」と名づけられた。十思小学校はもう無くなってしまったが、ロマンチックな建築だけは今も残してくれている。

 

この十思の考え方は、あの徳川家康公も貞観政要という書物で参考にしていたらしい。リーダーとなるべき人が読む訓示のような文章なので、もしかしたら吉田松陰や井伊直弼も読んでいたのかもしれない。

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子どもの頃を思い起こすと、学校では意味も分からず名文を暗唱させられたものだ。この十思小学校で学んだ子どもたちは、この十思を暗唱させられたのだろうか。

 

子どもの頃に暗唱した名文は、今思うと、とても良いリズムであることに気づかされる。そのリズムはたぶん、大人になってから少しは役に立っているのだと思う。

 

分かりやすく訳された十思を見てみると、少々耳が痛くなる。暗唱するなら、3つぐらいの思いに絞った方が良いかもしれない。

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さて、この小伝馬町界隈は、地図で見てみると浅草橋から常磐橋へ向かう大きな道筋のほぼ中間地点であることがわかる。

 

家康公が江戸にやって来て街づくりが始まり、水上交通や陸上交通の整備が行われたが、この道筋はその陸上交通の要衝だった。家康公の地元の商人も呼び寄せられて、以降、とても栄えた場所となる。大伝馬町・小伝馬町・馬喰町・横山町といった昔の町名は今も残っているが、通旅籠町・通油町といった消えてしまった町名もあるようだ。

 

なのでこの辺りは、歴史好きな方であれば、古地図を開いて江戸時代の頃に思いを馳せながら歩くのが楽しいのかもしれない。

 

浅草橋の方に行くか。常磐橋の方に行くか。
小伝馬町の交差点から人形町の方へ歩くと、ひとつ目の交差点に寳田恵比寿神社の標識が現れる。もうひとつ先が江戸時代の本通りのようだが、10月19・20日には「べったら市」があるので、今日は標識の指示に従い、常磐橋の方角・寳田恵比寿神社の方へと歩いてみた。

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この道は「えびす通り」という細めの通りで、途中に馬込勘解由の屋敷跡、寳田恵比寿神社、於竹大日如来の井戸跡といった史跡が現れて、昭和通りに突き当たる。そこにある「小津史料館」には、この辺りが栄えた江戸時代の頃を知ることのできる、良い史料が整えられている。

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ご紹介が逆になってしまったかもしれないが、この辺りを散策される時は、まずこの小津史料館に入られるのが良いと思う。そしてべったら市がある時季に合わせて歩くのが一番だ。

 

この場所は、昭和通りを地下道で渡れば「くすりミュージアム」、その先に中央通りの日本橋室町があり、人気繁華街からも至近の距離となっている。

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◆ 初秋・人形町辺りを歩く

[隅田の花火] 2018年9月13日 14:00

9月8日の土曜日、深川での用事を済ませ、隅田川大橋を中央区のほうに渡りました。まだ夏っぽい雲が風に流れていますが、スカイツリーの上空は少し秋っぽくなってきた感じ。もう少したてば涼しくなるのでしょうか。

今日は人形町の森乃園でほうじ茶を買って、そのあと出世稲荷神社のある堀留町の方へ歩こうと思っています。

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隅田川大橋が通るこの道は、水天宮の交差点から「人形町通り」と呼ばれ、人形町、堀留町、小伝馬町へと通じ、その先は秋葉原まで続いています(結局、今日は小伝馬町まで歩いてしまいました)。

 

橋を渡りきると、そこは高速のジャンクション。その構造は見るからに複雑すぎて、日本人って何十年も前によくこんなものを作ったなぁと、訪れる度に感心してしまいます。

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水天宮の前に来たので、階段を上って境内に立ち寄りました。みなさま安産祈願のためにいらしたのでしょうか、結構混んでいてビックリです。いいお天気で良かったと思います。

 

人形町では毎年秋に「てんてん祭り」が行われます。このイベントは、水天宮があるということで安産を願うお祭りとして「とつきとおか」に因んで名付けられました。平成の歴史と共に始まり30回目となった今年は10月7日(日)開催の予定になっていて、その前には「人形市」も10月4~6日にあるので、人形町の秋はイベントづくしとなっています。

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今日の目的の1つは、人形町の甘酒横丁にある森乃園で「極上ほうじ茶」を買うこと。この金色のパッケージのお茶はおふくろのお気に入りで、前に一度お土産で買っていったところ、そのまろやかな味の虜に。わざわざネットで取り寄せているというので、今度から帰省する時にはこのお茶をお土産に買っていくことにしました。

 

狭山茶の茶所で長年を過ごし、お茶にはうるさいおふくろが認めたお茶ですので、間違いなく美味しいお茶だと思います。

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お店の周りには、ほうじ茶を焙煎する癒しの香りが漂い、誰もが店先で足を止めます。まだ暑さが残っているので、ほうじ茶のソフトが人気です。二階には甘味処があって階段では少し並んでいるようでした。

 

 

そして今日行きたいもう一か所の「出世稲荷神社」を探しに堀留町へ。途中、道に迷ってしまい、小舟町の辺りをさまよい辿り着いたのは堀留児童公園。お祭りの準備中で仮小屋を建てていましたが、かなりの大きさに驚いてしまいました。

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近くに貼ってあったポスターを見ると、今週末に4年に1回の八雲神社の大祭が行われるようです。

  13日(木)夕方 遷座祭

  14日(金)午後 神幸祭

  15日(土)午後 本社神輿渡御

 

特派員ブログの左下にある検索ボックスで「八雲神社」と検索すると、いくつか他の特派員さんの記事がヒット。神社は神田明神にあるそうで、お祭りの時にこの堀留児童公園に仮小屋が建てられ、小舟町辺りでお神輿が担がれるようです。

 

4年に1回ということで行ってみたかったのですが、予定があって行けないのが残念です。

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さて出世稲荷神社ですが、少し探し回ってみたところ、堀留児童公園の少し人形町通り寄り、マンションの敷地の奥のわからなそうな所にありました。ですが赤い幟旗を何本か立てて案内はしているようなので、それなりに参拝される方もおられるようです。こういう場所ですので、幟旗が立てられていなければ多分、見つけられなかったかもしれません。

 

境内は狭いながらも小綺麗に整えられていて、こういう小さな神社を見守り続ける心遣いは、とてもありがたいものだと感じました。

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この神社は江戸時代初期、吉原遊郭の設置を幕府に願い出た庄司甚右衛門らによって建てられたそうなので、このあたりが遊郭だった時代を物語る神社なのかもしれません。その後この辺りが芝居街になって、初代市川團十郎がこの神社に日参して名を上げ、出世したこともあって、出世稲荷神社と名付けられたようです。

 

 

この神社を訪ねてみたいと思ったのは、昨年の夏にこのブログで「初代市川團十郎」の記事を書いた日に起きた出来事があまりに衝撃的だったからです。

 

それは昨年の6月21日夜のことでした。書きかけのブログ記事を何故か今日中に書き上げねばと思い、22日の朝3時までかかって観光協会様に承認依頼。普通だと公開まで2・3日かかるのに何故かその日の昼12時に公開されました。

 

まさかその夜に麻央さんが亡くなられてしまうとは。。。23日朝のニュースを見た時は、何故このタイミングでこのような記事を書いてしまったのだろうと、申しわけない気持ちでいっぱいでした。

 

なので機会があったら、初代市川團十郎にゆかりのあるこの神社に参拝してみたいとずっと思っていました。

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海老蔵さんと麻央さんの長男の勸玄(かんげん)くんが舞台に立った、というニュースを聞くと、少しほっとします。これからの歌舞伎役者としての成長を期待し、今日はお願いをしました。

 

 

もうひとつ神社をお参りしました。人形町通りを渡ったところにある堀留町・三光稲荷神社です。

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この神社にお参りすると、いなくなってしまった猫が見つかるということで、猫の置物がたくさん置いてありました。見つかった猫の飼い主がお礼に置いていくそうです。もしねこが見つかったら、置きに来ようかと思います。

 

この辺りはビジネス街なのか、土曜日の今日は物静かです。あまり訪れたことはないのですが穏やかに歩きたい時は良い街かもしれません。近くに古い建築の「ハリオグラスビル」があるのを思い出したので、初めてですが眺めに行ってみました。

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昔は金融機関が使っていたビルなので強固に建てられ、デザインも良いので残り続けることができたのでしょう。この辺りではこのような芸術的なビルはもう見当たらないので、この街のシンボルとしてずっと残り続けてほしいものだと思いました。

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今日は、神社を中心にゆるりと歩いてみましたが、もう少し食の秋を楽しめばよかったかな。今度はもう少し調べて食の街人形町を攻略してみようかと思います。

 

  ◆人形町商店街のホームページ  → こちら

 

 

 

◆ 橋の日・夏の隅田川で夜景を撮る

[隅田の花火] 2018年8月10日 18:00

8月4日土曜日の夕刻、隅田川テラスの「中央大橋」のところに来ています。近くの住吉神社では祭礼が催され、家族連れや子供達で賑わっていましたが、とにかく『暑い!』。涼を求めて川面の風に当たりに来ました。

 

中央大橋は、東京とパリ市の友好関係を象徴する橋です。パリ市から贈られたメッセンジャー像が立っていたり、橋の袂にはパリ広場があったり。

そんなパリのイメージで写真を撮ってみました。

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中央大橋の「白」と遠くの永代橋の「青」。それに屋形船の「赤」を組合わせて、フランス国旗のトリコロール3色で決めてみたかったのですが、ちょっと船がピンク色すぎたかな。

 

今日8月4日は「橋の日」だそうです。特に当ても無くここに来たので、久しぶりに隅田川の橋の夜景でも撮ってみようかと、中央大橋から上流のほうに向かってみました。

 

中央大橋から見える1つ上流の青いアーチが「永代橋」です。奥に見えるのは、スカイツリーで今日は紫色。永代橋の色と合わせて、少し涼しげな印象を与えてくれています。

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永代橋は関東大震災の復興の時に架けられた歴史ある橋。最近、街路照明の形が建設当時のデザインに変わりました。

 

永代橋はその外観から「男性的」な橋と言われますが、照明器具は意外と可愛らしい大きさ。「俺には飾りは必要はない」といった感じなのでしょうか。

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この橋には親柱も無く、華美な装飾も施されていません。この男は、そのずっしりとしたアーチの形だけで美を追求しているのです。

 

永代橋のすぐ上流は日本橋川との合流点。そこに架かる「豊海橋」は工事中です。脇に架けられた仮設橋で日本橋川を渡りましたが、いつもと違うアングルで豊海橋を見ることができます。

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橋好きな私は、「橋の底ってこうなっていたのかぁ」と、仮設橋の上から豊海橋を眺め続けたわけですが、結構この豊海橋ってゴツいんだなぁ、というのが印象。日本では稀少な橋梁形式で「フィーレンデール橋」といいます。

 

少し歩いて隅田川の上流に見えてきたのは「隅田川大橋」。夜景の撮り方がわからなかった頃、ここに何回か練習で通った記憶があります。確か、特派員になってから。その頃が懐かしいです。ここは、じっくりと夜景を撮ることができるお勧めスポットです。

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この橋からは、大都会東京を象徴するような永代橋の風景を望むことができます。なので夜景を撮る人が結構います。だいたいの人はきちんとした三脚を構え、良い一眼レフカメラで。

 

一方、私が隅田川で夜景を撮るスタイルは、ストラップを首にかけ、100円ショップで買った手のひらサイズの三脚を着けて、橋やテラスの手すりに置いて撮ります。カメラは7年くらい前のコンデジ。周りを見てしまうと少し劣等感を感じてしまいますが、たくさん歩き回って写真を撮りたい私は、手軽に撮れるこのスタイルがお気に入りです。

 

ブログに上げるぐらいであれば多分この程度で十分です。でも人様に見ていただく訳ですから、自分なりに手を抜かないようにしていますが、ちょっと暗すぎたかな。

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ここでなんと、1枚撮ったら不覚にも、カメラの電池が切れてしまいました。。。

 

鞄の中を探したら、スマホに取り付ける100円ショップで買った三脚が奇跡的に入っていたので、スマホで撮ってみることに。4、5年前のSONYエクスペリアのスマホですが、それなりに撮れてしまいます。

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デジカメでもスマホでも、夜景の撮り方の基本は変わりありません。少し撮り方をご紹介してみます。

 

風景の写真は、水平であるはずのものをきちんと「水平に撮る」ことが重要。水平でないと写真を見ていただいた人に違和感を与えてしまいます。そして、夜景の場合は「手振れさせない」ことが重要です。

 

この2つを解決するためには

 ・三脚を使う

 ・2、3秒のセルフタイマーを使う

だけで十分。フラッシュは不要です。

 

あとは、多くの光を集める為に「長時間露光」でシャッタースピードを遅くしてみたり、

「ISO感度」を上げ下げして好きな明るさに調整する方法がありますが、このあたりはカメラの機能に依存してしまいます。

 

私のスマホには「ISO感度」と「ホワイトバランス」調整の機能があったので試してみました。

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ホワイトバランスの設定で色味を変えることができます。見た目を涼しめにしたり、暖かめにしたり。夏なので涼しめの方が良いですかね。

 

そして、写真をSNSにあげる時など、写真に文章を添えることができるのであれば、3、4行の文章を添えてみることをお勧めします。

 

写真一枚一枚に文章を添えることで、ありふれた写真でも意味を持った写真になり、命が吹き込まれます。同じ写真でもより美しく見えたり、楽しく見えたり、すごく悲しく見えたり。添えられた文章で写真の印象はガラリと変わってしまうものです。

 

 

以上、グダグダと歩いてきた隅田川ですが、都会を縫うように流れているので、夜になれば多くの光に溢れています。夜景を眺めるだけでも十分かもしれませんが、夜景撮影は、ひと手間を覚えてしまうと案外簡単なもの。夜は写って欲しくないものが闇に消え、美しい明かりだけが残るので、誰でも美しい写真が撮れてしまいます。

 

もしご興味があるようでしたら、是非この隅田川で挑戦していただけたらと思います。

 

 

 

◆ 夏の月島・アミダくじで歩く路地裏

[隅田の花火] 2018年7月 3日 09:00

6月30日の土曜日。

前日、記録的な早さで梅雨が明け、隅田川の勝鬨橋から見える空は、すっかり夏空となってしまいました。

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お昼時なので「何か食べようかなぁ」と、築地から月島のほうに歩いています。

勝鬨橋を渡って次の信号を左に曲がり、月島川を渡りました。ここが「月島」です。

この道は「西仲通り」という、それほど広くはない通り。でも「もんじゃストリート」とか「もんじゃ通り」と呼ばれている、月島の観光では幹になっている通りです。

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これからの季節、月島や佃ではいろいろなイベントが目白押し。「月島は夏」と言っても良いくらい、楽しみな季節です。

 

今日は、そんな夏の月島の「路地裏」を歩いてみようと思い立ちました。

月島の街並みは「路地裏」が良いと言われます。

確かに魅力的な道が多いのですが、歩く時は、つい自分で道を選んでしまうもの。歩いたことのない道はたくさんあります。そこで、以前からやってみたかった歩き方がありました。それは、

 

『アミダくじのように歩いてみる。』

 

自分では道を選べません。テキトーであるようで、規則的でもある、運任せな歩き方。「今日しかないだろう」と、この歩き方を試してみました。

歩いてみた後に地図を見てみたら、下のような道を辿っていました。行きたい方向に進めない歯がゆさがあったものの、新たな発見のあった道もあり、面白い歩き方だったと思います。

s_hanabi62-3.jpg路地裏の道は生活道路でもあるので、紹介しづらいところがあるのですが、☆印を中心に、歩いたところを取り上げてみます。

 

月島川を渡って右に曲がり、くねくねと歩いていきます。自然と、明石家さんまの「アミダばばぁの唄」が鼻歌に。

すると早速現れたのが「マイカイキッチン」という路地裏のお店(1つ目の☆)。初めて知りました。中を覗いてみると、お昼時なので、お客さんがいっぱいです。

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テイクアウト専門店で、ポキなどのハワイ料理のお惣菜やお弁当を扱っています。なんだか美味しそうなので、定番そうな「ポキ丼」を今日の昼飯にすることにしました。

このお店のあるところは、道がクランク状になっていて、「この先、続いているのか?」と、少しワクワクする路地裏でした。

 

もんじゃ通りに戻ると、行き止まりの道にも遭遇しましたが、曲がり角に現れたのが「猫屋」の看板(2つ目の☆)。猫好きなので、このお店には何度か行ったことがあります。

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猫関連のグッズが揃っているお店ですが、ポイントが高いのは猫が現れそうな路地裏にあるところ。

お店の中は、グッズの良さもさることながら、ディスプレイのされ方が、とても綺麗。でも私が良いと思うのは、路地裏に似合ったウッドテイストのお店の外観。広めのウインドウから中を覗いてみるのが、とても好きなのであります。

 

そして、一度は隅田川に近い通りに出たものの、またもんじゃ通りに。

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もんじゃ通りに建つ建物は、商店建築なので、見上げてみるのがオススメ。西仲通りが、もんじゃ焼きで名を馳せる前の時代を感じることができます。

月島の路地裏の特徴は、軒先にならぶ「鉢植え」の多さではないでしょうか。月島が夏に似合う理由は、たぶんここにあります。緑の多さが、気持ちを涼しくさせてくれるのです。

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無秩序なようで、実は綺麗に整えられている月島の路地裏空間。月島の道が作り出したひとつの生活文化なのではないでしょうか。

 

もんじゃ通りの「月島警察署 西仲通地域安全センター」が見えてきました(3つ目の☆)。ここに勤務されているのは、警察官OBの「地域安全サポーター」です。

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関東大震災後の1926年に建てられた鉄筋コンクリート製の交番建築で、今年で92年。現役では東京最古の交番建築だそうです。路面電車のような、ほのぼのとした形がたまりません。

この交番建築の斜め向かいは、現在大規模な高層ビルが建築中。

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特にこの辺りは趣のある商店建築が建ち並らび、路地裏の道もありました。今までの生活文化が無くなってしまったという意味では少し寂しいです。

路地裏の軒下には、石仏までありました。少しビックリ。手を合わせましょう。

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「東京メロンパン」というお店(4つ目の☆)で店員のお姉さんの笑顔に負け、メロンパンを購入。その先の道は大規模な建物が建ち並び、路地裏がなく、サラッと月島駅にたどり着いてしまいました。

 

ここから先は「佃」地区。ここまで来たら、「佃島の住吉神社まで行ってみたい」。もしかしたらアミダくじで辿り着けるのではないかと思い、続けてみることに。

佃の路地裏も月島に負けず、鉢植えが見事です。

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残念ながら、佃島のほうには近づけそうにないアミダくじ。でも、あのお店に行けるのでは、と期待を寄せていたら、奇跡的に辿り着きました。

「佃もち」で有名な「二葉家」さんです(5つ目の☆)。

s_hanabi62-12.jpg初めての方は、戸を開けるのに勇気が必要かもしれません。でもこういう年季の入った引戸のお店には、なかなか出会えませんので、歴史の重さを引戸で堪能してしまいましょう。

 

佃もちを買いました。これからの季節は冷やしても美味しいですよと、店主からのお言葉です。

さらに進むと、あの「肉のたかさご」ではありませんか(6つ目の☆)。

s_hanabi62-13.jpgやき豚が気になったけれど、もうすでに買いすぎなので、我慢してコロッケだけにしておきました。

30度をはるかに越える気温に、この空腹。さすがに疲れてきた。さて、どこで食べようか。

 

アミダくじの終着地点は、青い空が感動的な隅田川の河畔でした。

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リバーシティの高層マンションが日陰を作ってくれて、座ると風がとても心地よい。ここが都会であるとは思えない風景です。

 

マイカイキッチンのポキ丼。これ、かなり美味しいと思います。特に気に入ったのは、マカロニのサラダ。やみつきになりました。

コロッケも普通に美味しい。メロンパンと佃もちは、お土産にすることにしました。

 

s_hanabi62-15.jpg近くには中央大橋。隅田川河畔には、こんな夏景色があったんですね。今日は、たくさんの発見があった実りある一日となりました。

 

<夏の月島と佃・主なイベント>

月島草市:7月7日(土)・8日(日)

佃島盆踊り:7月13日(金)~15日(日)

 

住吉神社例祭(本祭)

 大幟柱掘出:7月1日(日)

 大幟柱建て:7月29日(日)

 大幟旗揚げ:8月3日(金)

 獅子頭渡御:8月4日(土)

 宮御輿渡御:8月5日(日)~6日(月)

 

 

 

◆ 築地・海軍の石碑から伝わるもの

[隅田の花火] 2018年6月11日 18:00

今年の3月に日帰り旅行で訪ねた軍港の街・横須賀。旧日本海軍の記念艦三笠の展示や、日米艦船を見物する軍港巡りなど、この街独特の観光スポットがあり、とても楽しい街だった。

 

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横須賀海軍カレーを食べながら、東京中央区の「築地」も昔は海軍の街だったんだよなぁ、と思い起こしてみた。確か今の築地には、石碑や説明板が残っているだけ。横須賀と比べてしまうと寂しい感じがしてしまう。 

 

しかし石碑には、「石碑にしよう」とした人の大きな思いが込められているものである。

 

石碑を建てた理由の多くは、無くなるもの、無くなったものを偲ぶ人がいて、その思いを後世の人に伝えたかったから、ということなのだろう。

なので石碑を見るときには、建てた人が伝えたかった思いを、「感じてみる」ことが必要なのかもしれない。

 

そう思いながら、築地の海軍関連の石碑を巡ってみることにした。

 

 

築地の国立がん研究センターの敷地には、2つの旧海軍関連の石碑が仲良く並んでいる。

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左「海軍兵学寮跡」と右「海軍軍医学校跡」。

 

石碑を建てた人の思いは、石碑のどこかに記されているものだ。 

 

フェンスに密着している「海軍兵学寮跡」碑の裏側を頑張って見てみると、何やら文字が書かれている。概略は次のような感じである。

 

 『海軍兵学寮沿革

  ・1871(明治4)年7月29日に海軍兵学寮をこの地に新築

  ・1876(明治9)年8月31日に海軍兵学校と改称

  ・1888(明治21)年8月1日に江田島に移転

 1934(昭和9)年5月建立』

  

この碑が建てられたのは、海軍兵学校が江田島に移転した時ではなく、その46年後であった。

 

築地は明治初頭から海軍の街として栄えてきたものの、1923(大正12)年の関東大震災で多くの海軍施設を失ってしまう。そして帝都復興で、この海軍用地に市場が移転してくることに決まるのである。

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築地の中央卸売市場の開場は1935(昭和10)年。なのでこの碑は、市場が出来上がった頃に、築地から離れていった海軍施設を偲んだ人によって建てられたことが想像できた。因みに碑名を記した齋藤實は、時の内閣総理大臣で、この学校の卒業生である。 

 

 

一方の「海軍軍医学校跡」碑。医学校は終戦の1945(昭和20)年まで続いた。石碑の文字は、最後の校長の神林美治軍医の筆であるということなので、学校が無くなってしまったことを偲んで建てられたのだろう。

 

海軍の医学教育は、1873(明治6年)に築地で海軍病院付属学舎として始まっている。その後、いろいろな変遷を辿ったものの、多くの医療関係者を育て、終戦を築地で迎えている。

 

 

関東大震災前の大正時代の頃に、かつての築地川の采女(うねめ)橋辺りから眺められる築地方面の建物があった。

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采女橋があるところは昔、築地川と築地川東支川の交差点だったそうだ。東支川に架かる「北門橋」のむこうに見えるのは、海軍大学校の海軍参考館という建物だった。

 

築地の海軍施設へ行くときは、この北門橋を渡ったのだろう。今はもう、東支川は完全に埋め立てられていて、川が流れていたという面影はない。

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采女橋の袂の高速出入口の隣の道は、かつて海軍の敷地に繋がる「北門橋」が東支川に架かっていた辺り。海軍の敷地への橋を渡るかのように道を進んでいけば、この海軍の2つの石碑を見つけることができる。

 

 

さて、築地の海軍関連で外せない石碑に向かってみる。築地場内市場の魚河岸水神社遙拝所にある「旗山」の石碑である。

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この石碑は、築地市場開場後の1937(昭和12)年に建てられた。この石碑の前面に書かれている文章は少し薄くなっている。読むのが難しいので、いい加減かもしれないが、概略はたぶんこのような感じである。

 

『・ここは徳川時代に松平定信の別邸「浴恩園」の景勝地に設けられた築山の一部だった。

 ・1869(明治2)年に海軍関連施設がこの地に置かれた。

 ・1872(明治5)年に海軍本省設立後、海軍卿旗をこの丘に立て、「旗山」と呼んだ。

 ・この地はまさに海軍経営の大元であり、その発祥の地といってよい。』

 

と、この地が海軍発祥の地であるいわれが語られている。

碑文はまだ続いていて、読むと石碑が建てられた時の思いが伝わってくる。

 

『・それ以来長い年月あった海軍施設が移転していき、わずか1、2の官庁が残っているのみである。

 ・地形はだいぶ変わってしまい、昔の面影を見つけ出すのも難しくなってきた。

 ・この旗山の地に碑を建てて思い出となるように残すことにした。

 ・1937(昭和12)年1月5日  海軍大臣 永野修身 』

 

今年の10月に豊洲へと移転する築地の市場。去っていくことを寂しいと思う気持ちは、築地から海軍施設が去っていった80数年前も同じだったようだ。

s_hanabi61-7.jpg市場の移転に伴い、魚河岸水神社の遙拝所も豊洲へと移転していく。しかしこの旗山の石碑は、建てられた時の心情と共に、ここ築地の地に残り続けていくのだろう。

 

 

そして最後に、勝鬨橋の袂にある「海軍経理学校之碑」の石碑である。

s_hanabi61-8.jpg鏡面仕上げで、勝鬨橋も碑面に映すこの石碑は、碑文が分かり易くて読む人に優しい。

 

学校は1874(明治7)年に芝山で海軍会計学舎として開設され、その後築地に移転。日露戦争後の1907(明治40)年に海軍経理学校となり、震災後、今の築地市場の立体駐車場辺りに移されて終戦まで続いた。

 

石碑は1976(昭和51)年、戦後30年を機に、学校の同窓会によって建てられている。

 

この石碑には裏側にも文字が刻まれている。それは、この学校で学んだ人たちが見ると喜ぶ仕掛けになっている。またその内容は、学校がここ築地にあった頃の情景が伝わってくるものである。

 

ここでは内容を書かないことにしておこう。

s_hanabi61-9.jpg場外市場は築地に残り続ける。市場で楽しんだ後に、隅田川を眺められる勝鬨橋の袂で、石碑の裏を見て感じ取ってもらえたらと思う。

 

 

築地には、海軍関連の史跡はまだある。最近では史跡の碑も案内板のような形で作られることが多くなった。

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形にもよるかもしれないが、石碑は古くなっても保存しようとする心が働き、後年まで残り続けるものだ。そして建てた時の素直な心情が碑文に記されていれば、後年に読まれた時に味わい深いものが伝えられる気がしてならない。海軍の石碑を巡ってみて、そう感じた。

 

もしかしたら、こういうブログ記事も石碑みたいなものなのかもしれない。何かに感動したり、残念に思ったりしたことがあったら、後年に誰かが読んでくれることを信じて、素直にその時の心情を書き記しておいたほうが良いのではないかと思った。

 

 

 
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