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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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(三浦)按針メモリアルパーク(伊東市)

[yaz] 2018年11月14日 18:00

2018年11月10日、中央区観光協会特派員仲間と私が所属しているボランティアガイド団体「東京シティガイドクラブ」の仲間計8人で、江戸城石垣採石場「宇佐美のナコウ山」を登ってきました。(こちらは第三弾として、1月に報告の予定です。)

下山後、伊東駅近くの三浦按針(ウィリアム・アダムズ)が洋式船を建造したと言われる「按針メモリアルパーク」を訪問してきましたので報告します。

按針は、江戸日本橋に屋敷を貰い日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの一男一女をもうけ、日本橋とは強い繋がりを見せています。1598年にヤンヨーステンと共にリーフデ号で東洋に向かい、乗員24名と共に大分県臼杵市に漂着しました。徳川家康は三浦按針の能力を高評価し、政治・外交顧問として徴用し日本橋の屋敷の他、三浦半島逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。按針の名は、水先案内人を当時按針と称していたことによります。

慶長9年から11年の頃、家康の命令で浦賀水軍の総帥・向井将監と船大工一行とアダムスは、伊東の船大工を使い松川河口(唐人川合流地点)で日本初の洋式帆船80トンを建造し、この船で沿岸測量をしました。

造船所と考えられる場所は、「按針メモリアルパーク」のそばです。

 

按針メモリアルパーク指標.jpg

 

按針メモリアlパーク_地図.jpg

   

造船所と推定される場所に仲間と立ってみました。「想像より小さいな」というのが率直な印象です。

三浦按針造船所(2).JPGのサムネイル画像 PB100138.JPGのサムネイル画像

 

その後再び家康の命令を受け、外洋に出られる大型船120トンを建造し、慶長15年にこの120トンの船をイスパニア(スペイン)の提督ビベロに貸与して、アメリカを経てアカプルコ(メキシコ)に太平洋を横断して安着しました。     

         

三浦按針が制作した最初の洋式船.JPG

 

按針祭_花火大会.jpg

伊東市では洋式帆船建造進水を記念して毎年8月10日に按針祭を開催し、大花火大会を開催しています。私も昨年は見に行きましたが、すごい人出でした。

 

 

べったら市の旧名は「腐市(くされいち)」

[yaz] 2018年10月30日 14:00

宝田恵比寿神社を中心に、旧大伝馬町一帯(日本橋本町三丁目、大伝馬町)また堀留町にかけて「日本橋恵比寿講べったら市」が、毎年10月19日/20日に開催されています。既に終了してしまいましたが、友人が出店していましたので訪問し楽しい時間を過ごすことが出来ました。

"べったら漬け"は、麹と砂糖などの甘味料で大根を漬け込んでいるため、衣服にべったりとついてしまうことからきており、かつて若者が「べったりつくぞぉ~、べったりつくぞぉ~」と叫びながら縄に縛った大根を振り回し、参詣客の着物の袖につけてからかっていたという話です。ある意味、「婚活」ツールに利用してたということもあるかもしれませんね?

私はべったら市と呼ばれる前の名称「腐市(くされいち)」の話をしようと思います。

江戸末期に書かれた『守貞漫稿』27巻は、「10月19日の夜江戸大伝馬町腐市」から始まっています。中を読んでみますと、「又、新漬け大根を売る、所謂浅漬にて干大根を塩、糠を以って漬けたる、けだし糀を加えたるを良しとす。夜市等に之を売ること、唯この夜一夜(このよいひとよ)限れり」と記されています。特別製品には「麹(糀)」は入っていたのでしょうが、普及品には入っていなかったようですね。大伝馬町「腐市」_『守貞漫稿』.jpg

「べったら市」は19日限りのはずが、どうして19/20日の2日間になったのでしょうか?

注: 守貞謾稿(もりさだまんこう、守貞漫稿とも)は、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した書物。著者は喜田川守貞。1837年(天保8年)に書かれ始め、約30年間書き続けて全35巻(「前集」30巻、「後集」5巻)をなした。刊行はされず稿本のまま残されたが、明治になってから翻刻されたが、1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とみなされています。

 

 

江戸城石丁場遺跡「羽柴越中守石場」に登る

[yaz] 2018年10月 1日 18:00

江戸日本橋の小田原町の由来から、江戸城の石垣の石丁場遺跡に続く話を前月報告しました。実際に登ってみなければと考え、伊東市観光協会に連絡してガイドの方々の支援を得て登りました。その奮闘記を記述します。(道なき道、片側谷(注: 当然フェンスなし)の道、ロープを伝って上る道などを上り降りしますので、ガイドなしでの単独登山は非常に危険です)

日時: 2018年6月27日9:00集合

集合場所: 伊東線宇佐美駅

天候: 晴れ、31℃/24℃

予定通りの時刻に出発し、下の地図で示すように石切り場(ナコウ山)コースを通って頂上で「羽柴越中守石場」を見て、石切り場(白波台)コースを下る予定でした。しかし同行者が財布を登りの途中になくす事故があり探索のため同じコースを戻らざるを得ないはめになりました。国史跡を2度(息も絶え絶えでしたが)見る旅となってしまいました。

伊東市宇佐美_石切り場_地図(1).png 

江戸城石垣石丁場跡見学コース.jpg

宇佐美駅を出発した一行は駅脇の石丁場の説明板で全体像をつかんだ後、出発!!!!!!! 洞ノ入地区で発見された石を展示している郷戸(ごうど)公園をまず目指します。

宇佐美駅_石切り場紹介看板.jpg

  

郷戸公園(1).jpg

 

これから目指す「洞の入(どうのいり)」地区には、「石を掘り出す」「石を割る」「石の形を整える」「石に刻印を刻む」「完成した石を集積する」などの一連の工程を示す遺跡が集中しています。上記の築城石は、洞の入地区の砂防ダム付近から見つかったもので、洞の入地区に近い郷戸公園に保管し公開しています。刻印は「折敷(おしき)に三文字」といい、九州臼杵の稲葉家などが大阪城で同じ刻印を使っていることが判っています。

折敷に三文字.jpg

次に中央区立宇佐美学園(静岡県伊東市宇佐美545)に向かいます。以前は宇佐美駅の至近にありましたが、ナコウ山麓に移転しました。この学園前から「江戸城石丁場遺跡ハイキングコース」に向かいます。(まさか道なき道を続くとは知りませんで、元気いっぱい登り始めました)登り始めて後悔しても後の祭り。徳川家18代当主"徳川恒孝氏が揮毫した「江戸城石丁場遺跡」と書かれた石が左側に見えましたが、注目できません。

ハイキングコース看板.jpg

  

徳川恒孝筆_石狩場碑.jpg

ロープを伝って上る道(崖?)、片側が谷になった細い道(落ちたら大変)などが続きます。このような道を歩くときには余裕がありませんので、写真撮影は不可能です。だんだん脚が上がらなくなります。

次の写真は恐らく当時石を曳いた道と思えます。この「石曳き道」は作業場所と思われる区域の脇を通って、周りの地面から掘り下げられたような形状で続いたようです。道なき道の脇や上方や下方に、写真のような石が転がっています。

石曳き道(ナコウ山).png

 

残った石.jpg

 

大名家の印と思われるもの、何の印か判らないものなど、いろいろの印が刻まれた石が無数に残っています。仕事に従事した石工の印ではないかと思われるものもあります。伊東市教育委員会の調査によれば、これまでに30種類以上が見つかっています。今回登ったナコウ山・洞ノ入で見つかった石の刻印の素性を一覧表にしました。「まんじ」「〇に上」「三つ串団子」「矢筈(やはず)」など面白い刻印がありますね。「折敷(おしき)に三文字」も入っています。

洞ノ入地区刻印(1).jpg

洞ノ入地区刻印(2).jpg

 

石を割った「矢穴」のあとが残る「矢穴石」も無数にあります。土中から掘り出した自然石を江戸城の石垣に使う形にするには専門的な技術が必要です。石の性質を利用して思い通りに割っていきます。

ふうふう言いながら登っていくと、12:00頃にやっと頂上に到着しました。「羽柴越中守(細川忠興)」の石切り場です。昼食と休憩を約1時間。風が強く、頂上で立っていることもできません。(コンビニ・売店もないので弁当持参です)

石を割った跡を残した矢穴石.jpg 石切り場の標石.jpg

 ナコウ山の山頂.jpg     ナコウ山_山頂の地図.jpg    

東京からの同行者が「財布を落とした」と言い始めたので、白波台経由で帰る予定を急遽変更し往路をそのまま戻ることになりました。(こんな山の中に人が入ってくることもないので、財布は無事見つかりました。)

往路で疲れているせいもあって、下山もしんどいものでした。4~5回、転がりながら、江戸城石丁場遺跡前に帰還。記念写真撮影。

写真の後列の左右2名が伊東市観光協会のガイド、杖をついている私は前列。ガイドリーダが疲労困憊の様子を見かねて、杖を貸してくれたおかげでどうにか下山できました。伊東市のガイドの方の余裕のあること!

ヘロヘロの東京グループ.jpg

宇佐美駅到着 14:30 解散

  

【反省後記】

このような登山を伴うガイドに行く時には、次の点に注意すべきと感じました:

1) 一眼レフカメラのような重いものは持っていかないこと。リュックサックでも登るときに負担となる。→ 登り下りに集中しないと危険ですから、大型カメラでの撮影は不能ですから、持っていく意味がありません。

2) ジーパンは汗が出る季節には、脚を上げた時にまとわりつくので不適切。一層、疲労が増します。

 

ブログを見て、「江戸城石垣石丁場跡」登山に興味をお持ちいただければ幸いです。

11月初旬に再挑戦する予定ですが、今回のトライアルの結果を考慮し、軟弱な私も参加出来るよう今回ご報告した登山の半分程度のコースとなります。

 

 

江戸日本橋の「小田原」って?

[yaz] 2018年9月 5日 12:00

江戸時代、日本橋には本小田原町という場所がありました。現在の室町三丁目付近です。なぜ江戸に小田原という名前がついた町が作られたのでしょうか?築地には今も「築地警察署小田原町交番」という地名が残っています。「小田原町がないのになぜあるの?」という疑問を持ち調べてみたところ、伊豆の石切り場にたどり着きました。2回のシリーズものとして書きます。

9月号 江戸日本橋の「小田原」って?

10月号 石垣の"石"を供給した「伊東市宇佐美のナコウ山に登る」

 

日本橋北詰の「小田原町」は、町の名は小田原の石工善左衛門が当地を石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする所)として拝領したことが起源だという説がありますが、傍に堀はありますが大きな石を荷揚げする程のスペースがあったとは思えません。恐らく実際に石を荷揚げしたのは、「鎌倉河岸」か楓川の舟入運河ではないかと予想されます。外堀と今は高速道路となっている「楓川」の間の堀であった「紅葉川」は開掘後、数十年後には使用目的を果たし埋められてしまいました。

「小田原町」には魚市場(日本橋魚河岸)が開かれ、石工達は築地に移転して「南小田原町」と称したのではないでしょうか?確かに築地は日本橋の南に位置しています。その結果、日本橋北詰の「小田原町」は「本小田原町」と改称しました。

本小田原町_沽券図.png 

   

小田原町_交番.png

  

江戸城の石垣には諸大名の家紋に相当する刻印が打たれていますが、石はどこで採掘され刻印はどこで打たれたのでしょうか?

江戸城石垣見学.png

 

慶長8年(1603年)徳川家康は江戸に幕府を開き、「江戸城」の大規模な改築工事を行います。この工事は、諸国の大名に命じ、慶長9年(1604年)から寛永13年(1636年)ごろまで、家康・秀忠・家光の三代、約30年にわたって続けられました。この時、石垣に使う石が伊豆半島から切り出されました。真鶴・根府川付近からは安山岩系の石を採掘しました。風化しにくく耐火性に優れています。熱海から伊豆稲取に続く伊豆半島の山からは、凝灰岩系の石を採掘しました。凝灰岩系の石は耐火性が優れているだけでなく、加工しやすく運びやすいという利点がありました。

 

石垣を切り出した跡を「江戸城石丁場遺跡」と呼び、小田原市・熱海市・伊東市の石丁場(いしちょうば)は「国指定史跡」として認められています。遺跡は森の中に隠れています。中央区の小学生数十人を毎年受け入れている中央区立宇佐美学園の山奥に「宇佐美江戸城石丁場遺跡」があります。この遺跡には石垣に使うために加工した「江戸城築城石」が無数残っています。大名の家紋などの「刻印」が刻まれ、江戸に向けて運び出すばかりになったものも数多くあります。山で切り出され加工された築城石は、「修羅」(下の写真)と呼ばれるそりなどに乗せられ、大勢の手で曳かれて海岸まで運ばれます。海岸から「石船」に乗せられ、相模湾を通り江戸まで運ばれますが、多い時には江戸と伊豆の間を月に3,000艘の石船が行き来したそうです。

修羅_宇佐美_ナコウ山.png

 

九州の大名細川忠興公の石丁場遺跡が宇佐美のナコウ山にあります。ナコウ山の命名の由来は、石切り場の環境が非常に悪く石工が「泣く」ことからと言われています。私が踏破した(軟弱な私は踏破ではなく、伊東市観光協会のガイドさんに引っ張って貰って下山しました。最後には両股痙攣です。)山中で撮影した写真を次回お見せしますが、コンビニやの繁華街など考えられない環境ですから、「泣く」=ナコウというのは、体験した私は想像できます。海岸まで運ばれてきた築城石の一部は何らかの理由で石船に積むことが出来ず江戸まで運ばれないものもありました。宇佐美の海岸全体には、「矢穴石」(やあないし)や「刻印」のある多くの石が水につかっていたり砂に埋もれています。

 

石材の価格は「当代記」(寛永年間(1624年~44年))によると、「百人持ちの石は銀20枚」相当ということですから、初期慶長銀(161g)をほぼ金1両と仮定すると、石1個で200万円弱ということになります。大名にとっては相当の負担だったのですね。

石切り石を運ぶのは容易なことではありません。

次に示す写真のような山道を下ろしてきたのです。350m程度の山でも"石が転がり木片が転がった「道なき道」"を行くことは難儀でした。期待してください。

10月中旬以降に「江戸城石垣石丁場跡(伊東市宇佐美)」に再度挑戦の企画中です。

道なき道(ナコウ山).jpg

  

 

 

月島に「海水浴場」があった

[yaz] 2018年8月10日 12:00

月島地区をテーマに書くブログ最終回です。約100年前の東京のウォータフロント"月島地区"に海水浴場がありました。明治期に海水浴流行のきっかけをつくったのは、陸軍軍医総監の松本順(良順)で、医療とレクリエーションをかねて海水浴を奨励しました。

明治24年(1891年)大森海水浴場が、明治35年(1902年)には穴守海水浴場が、明治42年(1909年)には羽田海水浴場が開設されました。砂風呂などが人気を取り、大いに賑わったといわれます。大正時代に入ると「海水浴場」が都心を越えて月島・深川地区に波及し、大正2年(1913年)に完了した三号地の埋立(勝どき5~6丁目)と共に開設された月島海水浴場には、料理屋や宿泊施設・海の家が整備され大いに繁栄しました。下の地図では(三号地)の左側(西側)に海水浴場が見られます。

海水浴の様子を示す写真を見ると、今からは考えられない「ふんどし」姿の人が数多くみられます。

月島海水浴場(三号埋立地横).jpg 月島海水浴場の様子.jpg

1930(昭和5年)年代になると、「海水浴場」は衰退し始めます。埋め立て・海水汚染のためです。

第二次世界大戦後、高度経済成長期を迎えたこともあり、東京に海水浴場がよみがえることはありませんでした。月島も然りです。今日の東京の海は海水浴には不適当な状況にありますが、人工海浜や親水護岸などの整 備も進んでおり、さらに水質の改善が進行することによって、将来再びそのにぎわいを取 り戻すことに大きな期待が寄せられている。

参考文献:

1. 平成17年度日本大学理工学部 学術講演会論文集「東京のウォータフロントにおける余暇文化の変遷に関する研究」

2. 中央区沿革図集(月島編)

 

 

関東大震災時の震度から考えること

[yaz] 2018年8月 8日 14:00

東日本大震災以降、南海トラフを中心とした大地震の到来を心配しています。関東大震災時の東京府における推定震度から中央区の地層を考えてみたいと思います。

山の手・下町を含む江戸には埋め立てと堀の造成の歴史があります。江戸開府直後に、本郷台地から続く江戸前島の埋立により日本橋・銀座地区が作られ、日比谷入江を埋め立てて日比谷・有楽町・丸の内地区の武家屋敷地域が作られました。江戸時代には月島・晴海地区は海でした。

関東大震災時の東京府の震度分布を見てみましょう。赤坂溜池・麻布十番や江東区の赤数字(震度7相当)が気になります。

関東大震災時の東京の震度分布.png東京府の震度分布(関東大震災).png

埋め立てられて造成されたのではない佃島は、隅田川の上流から流れてきた土砂が自然に堆積してできた土地であることから、標高は月島・勝鬨地区よりも高くなっています。関東大震災時の震度は"5"程度だったようです。一方隅田川を浚渫した土砂を使って埋め立てられた土地である月島・勝鬨・晴海地区は関東大震災時の震度は"5~6"程度だったと言われています。

埋立地だから月島・勝鬨地区の関東大震災時の震度はもっと大きいのではないかという先入観を持っていましたが、銀座・日本橋程度で小さくてびっくりしています。

今の中央区には江戸前島と呼ばれた砂洲がありました。その西側は、日比谷から大手町にかけて日比谷入江が入っていました。開府後すぐ、幕府は埋め立てをしました。

江戸目島・日比谷入江.png

隅田川の東側は地盤が悪く、西側は地は良いと言われています。しかし一部洪積地盤に穴があいて、そこに沖積地盤が入り 込んでいるので、大手町側に激震地域があります。一方、江戸前島の地盤の良さは明確です。

東西断層(中央区~江東区).png

不動産を購入する場合には、古地図を見て地形を確認しましょう。「山の手なら安心、下町は危ない」という地名だけに踊らされないように!関東大震災発生日=9月1日の前に一言でした。