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◆春の中央区歴史散歩2014 ~知られざる中央区の原型 「江戸前島と歴史探訪」~ 申込受付中!

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月12日 09:00

近年、住んでいる土地や地形への関心が高まっている。中央区の地形の成立は、江戸前島と呼ばれる半島状の砂州を中核として、その後、周辺が埋め立てられた、といわれている。

今回の歴史散歩は、その江戸前島の周縁付近を歩きながら沿道の名所旧跡を、4月、2回にわたって探訪するコース。主催は中央区まち歩きボランティアガイドの「中央区文化財サポーター協会」

 

→ただいま、申込受付中! 詳しくは「区のおしらせ中央」 3月11日号をご覧ください。こちら>>

 

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(左図)「江戸の原型」(鈴木理生著『江戸はこうして造られた』ちくま学芸文庫版、2000年1月発行、p21から部分) (右図)国土地理院の電子国土ポータルサイトから「土地条件図」と「明治前期の低湿地図」を合成

 

江戸前島と現代の地形を見ていこう。

 

左図で中央の半島状一帯が江戸前島と呼ばれている。御茶ノ水と記された本郷台地の南に位置し、日本橋台地ともいわれる。尼店が日本橋付近で、将門首塚は大手町辺りであろうか。江戸前島の西は日比谷入江、東が海上である。

 

この江戸前島の地形をもとに江戸が造られていったといわれている。神田山を取り崩して日比谷入江を埋め立て、旧平川を外堀や日本橋川の源流とし、堀割で水路をつくる。旧東海道は江戸前島の尾根部辺りを通したとされる。江戸初期の町の様子は絵地図『武州豊嶋郡江戸庄図』が物語っている。

 

右図は最近公表された、地形構造が分かる最新データである。中央に逆「く」の字に折れ曲がった黄色の場所は「砂州」と分類される微地形で、左図の江戸前島とほぼ重なることが分かる。東京駅辺りはやや異なるが、新橋辺りが江戸前島の南端であることは合致している。右図は明治前期、つまり幕末期の中央区の姿ともいえる。水路が張りめぐらされ、月島はまだ存在しない。

 

この2図を重ね合わせると、今日の中央区中心部は江戸前島と呼ばれる砂州から誕生したといえるようだ。では現在、その痕跡はあるのだろうか。晴海通りや永代通りを東西にわたる地点で標高差を調べてみると、江戸前島の尾根部、現在の中央通りは周辺より標高(海抜)が高くなっている。外堀跡や楓川跡は江戸前島の外縁部付近と思われる。

今回の歴史散歩は中央区の地形形成の原点を探り、江戸・東京の歴史を見つめる、これまでにない新しい試みである。@巻渕彰

 

 

 

◆江戸狩野派の基礎を築いた 「探幽3兄弟展~狩野探幽・尚信・安信~」

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月 8日 09:00

奥絵師・江戸狩野四家の屋敷はすべて、今日の中央区内に置かれていた。狩野永徳の孫・探幽(たんゆう)は江戸開府とともに江戸に移り、鍛冶橋に屋敷を拝領する。5歳下の弟、尚信(なおのぶ)は竹川町(銀座、のち木挽町移転)に、11歳下の弟、安信(やすのぶ)は京橋中橋にそれぞれ拝領屋敷を得て、江戸狩野派の基礎を築いた。その3兄弟の展覧会「探幽3兄弟展~狩野探幽・尚信・安信~」(3月30日まで)が、板橋区立美術館で開かれている(写真上)

 

0913_562_140226kanoutanyu.jpg室町時代から隆盛を極めた狩野派は、探幽のときに江戸に拠点を移し、幕府御用絵師として活躍した。慶長7年(1602)山城国(現京都府南部)に生まれる。家康に謁見し、京より召されて御用絵師となり、元和7年(1621)に鍛冶橋御門外に屋敷拝領する。延宝2年(1674)73歳で死去。

 

尚信は慶長12年(1607)山城国生まれ。寛永7年(1630)、江戸で徳川秀忠に謁見、御絵御用を申付けられ竹川町に屋敷拝領。慶安3年(1650)44歳で死去。安信は慶長18年(1613)山城国生まれ。元和9年(1623)狩野宗家を継ぐ。寛永年間に中橋に屋敷を拝領する。貞享2年(1685)73歳で死去。

 

中央区の江戸狩野屋敷跡を訪ねよう。「狩野画塾跡」は銀座五丁目、旧木挽町で昭和通りに面して説明板が設置されている(写真下)。ここは木挽町狩野屋敷跡で、銀座竹川町から移転してきたもの。江戸狩野派として幕末まで存続し、明治画壇に狩野芳崖や橋本雅邦などを輩出した。

 

中橋狩野屋敷跡は京橋一丁目、旧大鋸町で、歌川広重住居跡の説明板の中に、わずかに狩野屋敷があったことが触れられている。探幽の鍛冶橋屋敷跡は八重洲二丁目、鍛冶橋交差点付近であるが、坂本龍馬が通った千葉定吉道場が一時置かれたところが鍛冶橋狩野屋敷付近だった、とその説明板にある。江戸狩野四家として浜町狩野屋敷があったとされるが、詳細は不明である。@巻渕彰

 

 

◆明治銀座、偉才の先覚者と親子三代 ~「岸田吟香・劉生・麗子」展~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年3月 3日 08:14

近代明治の銀座煉瓦街に薬舗「楽善堂」を開き、目薬を製造販売する事業家として、また出版人、思想家、文筆家としても名をはせた岸田吟香(ぎんこう)、息子の画家・劉生(りゅうせい)、孫娘・麗子(れいこ)の親子三代にわたる展覧会「岸田吟香・劉生・麗子―知られざる精神の系譜」展(会期4月6日まで)が世田谷美術館で開かれている(写真上)


0913_561_140222kishida.jpg岸田吟香は天保4年(1833)、現在の岡山県に生まれた。医師ヘボンに出会い和英辞書を編纂し、維新後は明治6年(1873)、尾張町(現銀座五丁目)の日報社に入社、『東京日日新聞』主筆として活躍した。独特の語り口やユーモア、論客ぶりが評価されたという。

 

明治8年(1875)、銀座二丁目に薬舗「楽善堂」を開業し、これまで研究をしてきた目薬「精錡水(せいきすい)」の製造販売に乗り出す。ヘボンから処方された日本初の液体目薬で、ガラス瓶にコルク栓の画期的なものだった。明治38年(1905)、銀座楽善堂で死去、72歳。

 

劉生は明治24年(1891)吟香の四男として、銀座に生まれ、銀座で育った。14歳のとき父が他界。大正2年(1913)22歳で結婚し、代々木に転居する。画家として成熟していき、愛娘をモデルに「麗子像」を描き続けた。

 

昭和2年(1927)の随筆『新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)』に、思い出として「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこ(銀座二丁目)で育ってきた」と記している。昭和4年(1929)、38歳の若さで死去。

 

麗子は大正3年(1914)、劉生の長女として生まれた。4歳から父の「麗子像」モデルを務める。15歳のとき父が逝去。その後、絵画や演劇、小説などの表現者として生涯を送った。評伝『父 岸田劉生』の刊行を目前に昭和37年(1962)、48歳で急逝した。

 

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)常設展示室には、岸田目薬「精錡水」看板(写真下)、ガラス瓶、引札などの所蔵品が展示されている。@巻渕彰

 

 

 
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