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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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文豪と丸善  尾崎紅葉、最後の買物

[与太朗] 2013年1月30日 15:00

 「いいか、宮(みい)さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、・・・」


 現代のわれら、1月17日といえばまず阪神・淡路大震災ですが、お年を召した向きはやはり、「熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人連れ・・・」と歌になった尾崎紅葉(1868-1903)の『金色夜叉』を思い出すのではないでしょうか。


 その紅葉と日本橋の丸善を結ぶ逸話が、内田魯庵(1868-1929)の『思い出す人々』に描かれています。魯庵は評論家、翻訳家、小説家として活躍した人ですが、当時丸善本社に書籍部顧問として入社、PR誌「学鐙」の編集や洋書の販売に尽力していました。


 明治の文壇にあって一世を風靡し、広汎な読者を獲得した紅葉ですが、若くして不治の病におかされ、余命三月を宣告されます。やせ衰えて丸善に来た紅葉は、『ブリタニカ』を注文しますが、品切れのため代わりに『センチュリー』を百何円の大金を手の切れるような札で買っていきます。紅葉は決して豊かではなかったそうです。魯庵は、死の瞬間まで知識の欲求を忘れず、豊かでない財嚢から高価な辞典を買うことを惜しまなかった紅葉に讃嘆します。


 魯庵は紅葉や硯友社の作品については批判的で、二人の仲も疎遠だったようですが、このときの「小一時間の四方山話」では、わだかまりもなく打ち解けることができたと書いています。そして誰も知らない「この紅葉の最後の頁を飾るに足る美くしい逸事」を後世に伝えるのだと言っています。「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。」


 久しぶりに立ち寄った丸善。中央区観光検定のテキスト『中央区ものしり百科』や『過去問題集』、それに旧テキストもここの一階で買ったことを思い出し、二階に上がれば、文庫の売り場に『金色夜叉 上下』『思い出す人々』が今も並んでいます。その昔、田山花袋が当時の丸善の二階で、前借した十円でモウパッサンの十二冊の短篇集を買い、撫でたりさすったりした、と書いた『東京の三十年』も同じ棚にありました。三階に上がるとカフェは昼食時、創業者早矢仕有的が生み出したハヤシライスのランチを楽しんで店を後にしました。

 

 

 

大石内蔵助 中央区からいざ討入りへ

[与太朗] 2012年12月29日 09:00


 「冬は義士、夏はお化けで飯を喰い」 12月は講釈師の書入れ時といわれますが、赤穂義士が本所吉良邸に討入り、吉良上野介の首を上げたのは元禄15年12月15日の夜明け前(西暦1703年1月31日)、今から310年前になります。


 中央区内の義士討入り関係の史跡としては、浅野家上屋敷跡(明石町)、浅野大学長広邸(銀座4)、間新六墓(築地本願寺)、堀部安兵衛武庸之碑(八丁堀1)などのほか、史跡とは言えませんが、本所から泉岳寺までの義士引揚げルートのうち、永代橋~霊岸島~稲荷橋~浅野旧邸の前を通り、木挽町~汐留橋までが中央区内になります。また堀部弥兵衛・安兵衛の刃傷事件後の屋敷(東日本橋2)や石町三丁目、南八丁堀などに三か所の義士の潜伏先が区内にあったといわれています。


 大石内蔵助・主税が討入りまで潜伏したのは、石町三丁目南側の小山屋弥兵衛裏店でした。小山屋は訴訟のために江戸に訪れる者が利用するいわゆる公事宿で、かなり繁昌しており、そういう所がかえって人目に立たないということでしょう。大石主税が討入り前の9月に江戸入り、公事訴訟に来た垣見左内と名乗って小山屋に泊り、内蔵助は11月に伯父垣見五郎兵衛として合流します。ほかに小野寺十内ら数人の浪士もここに集まり、小山屋は討入り準備の中枢となります。


 なお、石町三丁目といえば「時の鐘」やオランダ・カピタン江戸参府の際の定宿「長崎屋」が有名ですが、小山屋も一部オランダ人の宿舎として使われたそうです。「ここがあのオーイシが住んだ所か」などと話す彼らを想像するのも楽しいですね。


 ところで石町三丁目の小山屋はどこにあったのでしょうか。物の本によれば「現在の日本橋本町4-1にあった」、「長崎屋(日本橋室町4-4)と軒を連ねる場所にあった」、「小山屋の真向かいに石町の鐘があった」、「(天ぷらの)てん茂の場所(日本橋本町4-1-3)にあった」・・・などと書かれています。これらはすべて石町通り(現在の江戸通り)の北側になります。(石町三丁目はいわゆる両側町で通りをはさんだ南北両側で成っています。現在の地番では北側は日本橋室町4-4と日本橋本町4-1、南側は日本橋室町3-4と日本橋本町3-3になります。) ところが四十七士の一人、寺坂吉右衛門の覚書「寺坂私記」には「石町三丁目南かは小山屋弥兵衛裏店」とあるので、南側にあったとするのが自然ではないかと素人なりに考えるのですが。詳しい方のご教示をいただければ幸いです。


 小山屋から本所吉良邸に向かった大石らはついに本懐を遂げます。この年の暮はとりわけ寒気が厳しかったそうです。寒がりと伝わる大石ですが、さぞかし満ち足りた心境で新しい年を迎えたことでしょうね。


【写真】 江戸通り、室町三丁目交差点より東方を望む。

      左側(北側)に長崎屋跡の説明板があります。

 

 

 

忘れない 風化させない 『東日本大震災の記憶と復興』展

[与太朗] 2012年11月26日 15:58

IMG_0659.JPG 2011年3月11日午後2時40分、みなさんはどこにいらっしゃいましたか? 私は日本橋三越前の地下コンコース、あの熈代勝覧の壁面のすぐ近くで、生れてこの方初めての長く激しい揺れに襲われましたが、奇しくもその同じ場所で『東日本大震災の記憶と復興』展が開かれています。(30日まで。無料。)

IMG_0428.JPG 死者・行方不明者約2万人、家屋の全・半壊約36万戸・・・大災害から600日余りが過ぎましたが、各地に地震・津波の痕跡が残り、避難生活を強いられる方もまだ多数おられます。被災者・被災地への思いを「忘れない」、大地震と戦った日々を「風化させない」との思いで、このたびの大震災への対応や復興の状況を伝え、今後の被害軽減につながるようこの展示を行ったと主催者は言っています。

 展示内容は、大震災の被災物(道路標識、時計など)や津波被災前後の写真パネル、復興活動の紹介パネルなどですが、石巻北上川河口や高田松原の写真は、何度見ても肌に粟が生じる感があります。

 その他、興味深いものに東北の災害伝承の紹介があります。岩手・山田町の船越山ノ内「役の小角伝説」、宮城・多賀城市の「末の松山・小佐治物語」など、過去の大津波の経験から安全な避難場所を後世に伝えた伝説です。

 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは (清原元輔)

 百人一首でお馴染の歌です。末の松山を波が越える・・・ 起こりえないことのたとえにされる言葉ですが、東日本大震災でも周辺まで津波が押し寄せましたが、末の松山だけが浸水せずに残ったそうです。

 ※日本橋『東日本大震災の記憶と復興』展

   ●11月30日(金)まで。 無料

   ●会場 中央区日本橋室町1-3 東京メトロ三越前駅コンコース

   ●主催 「東日本大震災の記憶と復興」展実行委員会

   ●協力 名橋「日本橋」保存会 ほか

   ●企画 特定非営利活動法人全国街道交流会議

   ●後援 中央区 ほか

  

 あの3月11日、地上の中央通りでは、翌日開かれる日本橋架橋100周年『江戸古町祭り』の準備が大詰めを迎えていました。私もイベントの一つ「はしご酒大会」の前売りチケットを買って当日を楽しみにしていましたが、祭りはあえなく中止。いずれ東北の酒と肴でのはしご酒大会を復活させていただきたいですね。

【写真上】 会場正面

【写真下】 地震直後、地上の様子(2時55分撮影)。何が起きたのか、まだ誰も知らない。

 

 

漱石の足あと in 中央区

[与太朗] 2012年10月31日 12:00

 今年の夏を彩ったロンドン五輪。閉幕後の英国代表選手のパレードには、大成功に沸く100万人の市民が沿道を埋めたそうです。日本メダリストの銀座パレードは50万人でしたから、さすがご当地ですね。このロンドンに留学した日本人といえば真っ先に名が挙げられるのが夏目漱石(1867-1916)。今回はこの文豪と中央区のかかわりを訪ねてみました。


 漱石は生れも住まいも中央区(日本橋区+京橋区)と縁はありませんが、記念碑の類いが区内三か所にあります。いずれも生誕の地早稲田に近い早稲田大学の関係者が建てたもので、漱石作品ゆかりの場所にあります。


IMG_0573.JPG①「漱石『猫』上演の地真砂座跡」碑
  (平成15年 日本橋中洲5-1)


  明治38年1月から39年8月まで10回にわたり「ホトトギス」誌に掲載された『吾輩は猫である』は大人気となり、伊井蓉峰一派により明治39年11月3日から30日まで、真砂座で上演されました。(漱石はこの舞台を見ていないようですが。)



IMG_0578.JPG②「漱石名作の舞台」碑
 (平成17年 日本橋1-4コレド日本橋アネックス広場)


 このあたり狭い横丁に震災前、木原店という寄席があり、『三四郎』『こころ』に登場します。漱石自身も落語好きで、若いころしばしば訪れたところ。



IMG_0582.JPG③「漱石の越後屋」碑
 (平成18年 日本橋室町1-4-1三越本店屋上)


 越後屋呉服店(三越)は『道草』『趣味の遺伝』などに登場します。また「虞美人草浴衣地」を売り出し大評判となります。


 江戸生れ・東京人の漱石。都心の日本橋・銀座には大いに関心があったはずで、その作品には、竹葉亭、天賞堂、資生堂、明治屋、丸善等々、今に続く名店・老舗が多く登場します。ご本人も何度も足を運んだことでしょう。


 漱石の日記を見ると、一時連日のように銀座を散歩した記述があります。明治43年、いわゆる「修善寺の大患」の直前6月18日から7月31日まで日比谷公園近くの長與胃腸病院(長與善郎の兄が院長)に入院しますが、退院前の一週間は毎夜のごとく銀座を歩いたようです。7月28日には天賞堂の屋根に上り、脚下を見て身のすくむような気がした、とあります。(この入院中の日記には・・・・・胃潰瘍治療のため熱した蒟蒻で腹部を温めるという珍妙なる療法を二週間続け、皮膚が火ぶくれになってしまいますが、蒟蒻代に一週間15丁で25銭支払ったとあります。また、瀧山町(銀座六丁目)にあった朝日新聞社に勤務していた石川啄木が、7月1日と5日の2回、見舞を兼ね社用で訪れた・・・・・などの興味深い記述があります。)


 漱石の出世作『吾輩は猫である』の単行本を刊行した大倉書店、服部書店はそれぞれ日本橋区、京橋区内にあり、おそらく何度か行き来したのではないでしょうか。加えて入社した朝日新聞社も瀧山町にあったわけで、漱石と中央区のご縁は案外深いものがあるようです。これからも区内に記念碑ができるかもしれませんね。

 

 

 

『森繁久彌と向田邦子展』  日本橋三越で開催

[与太朗] 2012年6月 9日 08:30

IMG_0571.JPG 文化勲章・国民栄誉賞に輝く名優、森繁久彌(1913-2009)と、今も根強い人気を誇る脚本家で直木賞作家の向田邦子(1929-1981)。森繁久彌の生誕100年と「向田邦子賞」創設30周年を記念して、二人の交流と活躍をたどる展覧会が日本橋で開催されています。

 【森繁久彌と向田邦子展】

  6月6日(水) → 18日(月) 

  日本橋三越本店 新館7階ギャラリー

  入場料 : 一般・大学生 800円

 

IMG_0566.JPG 2009年に96歳の天寿を全うした森繁久彌と、対照的に51歳の若さで台湾の航空機事故に散った向田邦子。1959年秋頃、森繁のラジオ番組『奥様お手はそのまま』の台本を書いた向田邦子は森繁に認められ、以後彼の出演するラジオ・テレビ番組の脚本を任されてその才能が開花し、『七人の孫』、『だいこんの花』、『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』などで不動の地位を築いていきます。「ズブの素人の私がどうやら今日あるのは、フンドシかつぎがいきなり横綱の胸を借りてぶつかりげいこをつけてもらったおかげ」(『余白の魅力 森繁久彌』)と彼女は感謝しています。彼女の突然の死を嘆き悲しんだ森繁は三周忌に際しその墓前に句を捧げました。 

 「花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る」

 

 お二人とも生れも育ちも中央区とはご縁がありませんが、向田邦子はシナリオライターを志す前は映画雑誌の編集者で、9年間在職したその出版社・雄鶏社は江戸橋にありました。1978年の第一エッセー集『父の詫び状』所収の24編(乳がん手術の後遺症のために右手が使えず、左手で書いたそうです)は『銀座百点』に掲載されたものです。また、彼女をかしらに四人姉弟は水天宮のお札のおかげでつつがなく生れたと聞かされて育ち、人形町の魅力を熱く綴ったエッセー『人形町に江戸の名残を訪ねて』を遺してくれました。

 

IMG_0565.JPG 中央区とは関係ありませんが、ここで蛇足を一つ。森繁久彌は戦後まもなく世田谷に居を構えましたが、最寄りの小田急線千歳船橋駅近くから森繁邸に至る道はいつからか「森繁通り」と呼ばれていましたが、一昨年、世田谷区はこの通称を正式名称とする「命名式」を行いました。森繁邸は現在高級マンションに変わっていますが、入口に掲げられたその名前は「SETAGAYA  TEVYE」。900回公演を誇るあの名舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主人公の名前がつけられています。

 

【写真上】 日本橋三越本店の展覧会場

【写真中】 向田邦子の墓(多磨霊園)

       墓碑右手のブック形の碑に「花ひらき・・・」が

【写真下】 森繁久彌の墓(谷中霊園)

       

 

 

北村透谷  我事終れり 五月に死す

[与太朗] 2012年5月31日 08:30

IMG_0562.JPG 恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、・・・

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 近代日本文学の先駆者、透谷北村門太郎は明治元年小田原に生れ、明治14年、京橋区弥左衛門町七番地に父母弟と移り住みます。父は大蔵省に出仕、母は煙草小売店を始めます。泰明小学校に転入した彼は、谷口和敬校長から抜群の才能を認められます。翌明治15年卒業後は政治家を志し、自由民権運動に加わりますが、やがてそこを離れ、キリスト教に入信、文学の道に進み、一世を驚かす詩や評論を発表しましたが、精神を病み、明治27年5月、早熟の天才は満25歳4ヶ月の短い生涯に、自ら終止符を打ちます。


 弥左衛門町七番地は、現在の銀座4-3あたり。数寄屋橋から尾張町交差点に向かって中ほど左側、角地の二階建てでした。(透谷という筆名はスキヤ橋からきています。) 透谷はその後何度も転居しますが、しばらくするとここに戻ります。
IMG_0555.JPG泰明小にはもちろんここから通ったし、石坂美那子との結婚も、『楚囚之詩』を自費出版したのもこの自宅でした。死の前年、咽喉を突いて自殺を図ったのはこの家の物干し場でした。
透谷の文章に感銘を受け、親交を結んだ島崎藤村も、あの煙草屋の二階 にはよく遊びに行ったものだと言っています。(藤村も泰明小に学びましたが、透谷との親交はずっと後の明治25年、巌本善治の紹介で始まります。)

 泰明小学校の入口には「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに 学ぶ」というおなじみの記念碑があります。中央区に残る透谷のよすがはこれだけのようですね。
(蛇足を一つ。上記の記念碑ですが、生年順、転入順、文学上の関係等々、いろいろ考えても名前の順が逆だと思うのですが、・・・)

IMG_0561.JPG(ついでにもう一つ蛇足を。透谷の生地小田原では、「北村透谷生誕之地」碑(浜町三丁目)、「透谷北村門太郎墓」(城山一丁目、高長寺)、「北村透谷碑」(南町二丁目、小田原文学館敷地内。藤村の奔走でできたもの。藤村筆で「北村透谷に獻す」と彫られている。) などのほか、小田原文学館では関係資料を多数見ることができます。透谷に興味ある方は必見です。)


【写真】 上から

 ◎旧弥左衛門町七番地(現在の銀座4-3)あたり

 ◎泰明小学校入口の記念碑

 ◎「透谷生誕之地」碑(小田原市浜町三丁目)

 ◎北村透谷の墓(小田原市城山一丁目・高長寺)