亀島橋は区内の数多くの橋の中では、やや地味ですが、いくつか見どころがあります。
「堀部安兵衛武庸之碑」その反対側には「銀座柳四世」「芭蕉の句碑」さらに「この地(八丁堀)に移住し功績を伝えられる人物」として「東洲斎写楽」と「伊能忠敬」の説明文があります。句碑の木製の説明版がかすれてほとんど読めないのが残念です。「ものしり百科」にはない見どころもたくさんあり、そういうところを探して歩くのも面白いです。
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正一位稲荷五柱大明神 純子稲荷神社 初午祭
毎年、2月11日に新亀島橋のたもとにある「純子稲荷神社」の初午祭が行われます。今日は雪のちらつく大変寒い日でしたが、氏子衆が集まってきていました。神社の名前にしては珍しいので、興味を持っていました。全国の「純子」さんの守り神になるといいと思いました。 以下、「純子稲荷神社」の説明書きです。出典は神社に置いてある「御由緒」からの抜粋です。
御鎮座:元文年(1737年) 御神璽:伏見稲荷大社 御神名:純子大神 御縁起:「純子稲荷神社は、長禄元年(1457年)、太田道灌が千代田城(竹橋北の丸―のちの江戸城)築城の折、守護神として京都伏見稲荷を勧請して城地内・北の丸に創建した"千代田稲荷神社"の縁起をひき継いでおります。 千代田稲荷神社は、天正18年(1590年)徳川家康公の江戸城入城後、江戸城(現皇居)内の紅葉山に遷座され、更に、慶長8年(1603年)の江戸幕府の開府に先立ち、天下普請・城地拡張のため、開府前年の慶長7年(1602年)、家臣 長野又四郎により豊島郡千代田村(現・常盤橋)、後の北町奉行屋敷の土手堤に遷座されました。城外への遷座後も、幕府の鎮守神として、又江戸の安泰を祈願する千代田稲荷神社として格式高い祭祀が行われたと伝えられています。 その後、享保6年(1721年)徳川八代将軍吉宗公のご尊意により、千代田稲荷神社は城下の鎮守と庶民愛護の祭神として日本橋小伝馬町(現小伝馬町2丁目)に遷祀されました。 御名の由緒:「神社の御名命名は、町奉行のおとりなしにより、当地の細川越中守(兜町二)、松平和泉守(兜町一)、松平越中守(八丁堀)、松平越前守(新川)の司掌職・九鬼式部少輔(藩邸・現兜町・坂本町公園)が、当地が財宝保全の瓶かめ造りの名地でもあったことから、亀島(瓶島かめじま)の町民の請いを入れられ、"純心な精神を子々孫々に伝え遺すにふさわしく"との意をもって、"純子稲荷神社"と命名が行なわれ、爾来、町奉行諸士、与力、同心、町衆の守護神として祀られ、御神徳高い稲荷五柱大明神として崇敬殷賑を極めたと伝えられています。」
鉄砲洲稲荷神社 寒中禊ぎ
1月13日の今日、鉄砲洲稲荷神社の寒中禊ぎを見てきました。前日は初雪が舞うなど天気が心配されましたが、寒いものの、冬晴れに恵まれました。参加者は105名で、最年長は83歳、最年少は9歳でした。女性も多くいました。毎年来られる指導の方が、見物の方の分まで禊ぎをしてくれますという言葉が印象的でした。外国の見物の方もいらっしゃいました。これで、1年無病息災で過ごせそうです。
築地本願寺
休みを取った平日に、築地近辺に行ってきました。平日でもやはり場外市場は観光客などがたくさんいて、市場の移転でも影響はないようです。帰りに築地本願寺に寄りました。「中央区ものしり百科」に載っていない記念碑もありました。正直いままで気づきませんでした。
「親鸞上人像」「陸上交通殉難者追悼之碑」を写真に収めました。 「親鸞上人」は築地本願寺の宗派である浄土真宗の宗祖として、像が建てられています。「陸上交通殉難者追悼之碑」は昭和44年に三笠宮様を名誉総裁とした陸上交通殉難者追悼建設会が交通事故の犠牲者を悼み、交通事故の絶滅を願って建てられたものです。 ゆっくりと見て回ると意外な発見があるかもしれません。
諸国往来市
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