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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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区民有形文化財(3)

[CAM] 2016年2月13日 14:00

聖路加国際病院 トイスラー記念館

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 所在地 中央区明石町10(聖路加国際病院)
 
 昭和8年(1933年)、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
 設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
 平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
 外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
 この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。

 平成183月    中央区教育委員会

 

 

アメリカ公使館跡石標

IMG_2735.JPGアメリカ公使館は安政6年(1859年)ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8(1875年)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。 のち明治23年(1890年)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。

 最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。

 8個の石標のうち3個は昭和59年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えられるものとして中央区民文化財に登録されており、うち3個をここに、2個を聖路加ガーデンに設置する。

    1998年5月              聖路加国際病院

 

 

区民有形文化財(2)

[CAM] 2016年2月13日 09:00

カトリック築地教会聖堂

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所在地 中央区明石町5-26

カトリック築地教会は、明治四年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治七年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地三五・三六番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治十一年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和二年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁画をモルタル塗りとしています。
また、旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治九年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。
平成十三年三月
中央区教育委員会

 
屋根正面のバラとチューリップの彫刻

IMG_2726.JPG 築地教会聖堂は、区民有形文化財(建造物)であるとともに、東京都選定歴史的建造物にも指定されている(「ものしり百科」152頁)。手前が区民有形文化財、その先が都生活文化局による都選定歴史的建造物指定の標示板。

 

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 門の真正面にある、「暁星学園発祥の地」の碑。背景は明石小学校で、左に「ガス街灯の柱」(「ものしり百科」65頁)が少し写っている。 

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築地市場近辺(2)

[CAM] 2016年2月10日 14:00

波除稲荷神社

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所在地 中央区築地6-20-37
波除稲荷神社の起立は万治年間(1658~61)といわれています。当時、築地一帯の埋立てに際し、堤防がたびたび波に崩されて工事が難行していました。ある日、海中に漂う稲荷神の像を見つけ、これを祀ったところ、風も波もおさまり、工事が無事完了したと伝えられています。「波除」という尊称もこの伝説に由来するものです。
以来、厄除や航海安全の神として、人々に厚く信仰され、祭りでは数多くの獅子頭が町をねりあるき、獅子祭りと呼ばれていました。今でも三年に一度、六月に行われる例大祭では、嘉永元年(1848)に作られた獅子頭が築地周辺をねりあるき、その伝統を伝えています。
江戸時代、築地の南側には尾張徳川家の蔵屋敷があり、社殿前の天水鉢は、そこで船から荷物を陸揚げする小揚(こあげ)の人たちから奉納されたもので、獅子頭とともに中央区民文化財に登録されています。
平成六年三月

獅子頭と天水鉢

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築地場外市場(撮影は2月8日午後遅く、春節でしたが、人通りはほとんどありませんでした。)

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(築地場外市場公式サイト「築地資料館」から)

 現在、場外市場と呼ばれる地域(現:食のまちづくり協議会)は、異なる歴史的背景を持つ3つのエリアから成り立っています。1つは、築地六丁目南町会と海幸会(かいこうかい)のエリア(波除神社前から旧小田原橋)で、江戸時代の地図には南小田原町一丁目と記され、築地埋立て以来の町家だったといわれています。2つは、築地場外市場商店街振興組合のエリアで、本願寺の境内にあって本寺に付属する地中子院(小寺)58ヶ寺が集う寺町でした。3つは、共栄会を含む築地4丁目の西側のエリアで、明治維新で上地されるまでは武家屋敷でした。

 町家と寺町と武家屋敷・・・この3つの地域が、大正12年の関東大震災後で全焼し、隣接する海軍用地に築地本場が開場したのを機に、場外市場が自然形成されていきました。当時、人々は暮らしながら商いを営み、市場でありながら、銭湯・床屋もあれば子どもらの賑やかな声も聞こえる町でした。やがて第二次世界大戦の敗色が濃くなり、食品は価格統制され、疎開する家族も多く、東京大空襲による全焼こそ免れましたが、戦争は町に暗い影を落としました。

 戦渦を免れたこの町の復興は早く、戦後は繁栄の一途を辿ります。やがて、場外になだれ込むヤミ屋の横行に対抗する手だてとして、本願寺寺町跡地の商店主達は、昭和20年、築地共和会という商店会を作り、自治に乗り出します。この会が、平成5年に法人格を得て設立される築地場外市場商店街(振)の前身です。昭和23年、築地6丁目南の商店の有志は海幸会を結成、当初は気楽な無尽の集まりでしたが、時代の変遷とともに商業団体としての結束を強くします。戦後、築地4丁目交差点角の林医院の建物を買取り、営業をスタートさせた30数店舗は共栄商業協同組合を結成し、昭和63年には現在の共栄会ビルを建てました。

 このように、築地に各々の歴史を刻んできた築地4丁目町会・築地6丁目南町会・築地場外市場商店街(振)・共栄商業協同組合・海幸会(かいこうかい)の5団体が集い、平成18年「築地食のまちづくり協議会」を発足させました。ともに手を携えて未来の場外市場の発展を目指すためです。

 

 

築地市場周辺(1)

[CAM] 2016年2月10日 12:00

築地市場正門近辺

IMG_2724.JPG市場内

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 (東京都中央卸売市場サイトから)

築地市場は、日本橋にあった魚市場と京橋にあった青物市場が移転し、昭和10(1935)に開場しました。  
その後、戦後の復興、昭和30年代から昭和50年代にかけて施設の整備拡充を図りました。 昭和60年代に入り、施設の老朽化・過密化が著しくなったため、築地市場の再整備事業を推進することとし、仮設施設等を建設しました。しかし、工期、建設コスト、基幹市場としての機能維持の視点から見直しを行うことし、「現在地再整備」と「移転整備」を比較検討の結果、平成11(1999)11月、移転整備へと方向転換することとしました。そして、狭隘化が著しく、流通環境の変化に対応できない状況等から、平成13(2001)12月に策定した第7次東京都卸売市場整備計画において、豊洲地区に移転することを決定しました。 現在、豊洲新市場については、平成27年度中の施設竣工に向けて整備を進めています。

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20151119日付の「日経新聞」は、築地市場の現状と豊洲新市場への移転について、次のように解説している。

 

>人口減少や流通経路の多様化に伴い年々、卸売市場の取扱高は縮小している。世界中からモノが集積する築地も例外でない。全国中央卸売市場協会によると、中央卸売市場の総取扱金額は2012年度に約3.8兆円と、直近ピークの91年に比べ6割減少。都によると築地は13年に4500億円と90年のほぼ半分に縮小した。
 農林水産省の推計によると全国の卸売市場経由率(水産品)は12年に53%。過去20年で20ポイント低下した。贈答用のウニやイクラのほか冷凍物や加工品も取扱量が減った。・・・・・・ 「スーパーや量販は独自の流通経路を確保している」(東京都水産物卸売業者協会=東京・中央=の浦和栄助・新市場対策部長)ことが影響。施設改修による魅力向上は喫緊の課題だった。

 

 豊洲新市場 豊洲新市場は閉鎖型施設として2016年3月以降に完成、11月に開業予定だ。敷地面積は約40ヘクタールと、世界の主要市場で07年に中国で開場した上海東方国際水産センター(36ヘクタール)や、イタリアのミラノ市場(68ヘクタール)に匹敵する。
 1935年に開場した築地市場は約80年が経過し老朽化が進む。トラック輸送が主役になった今、荷物の受け渡しを効率的に手掛けるのも不都合が生じていた。01年に豊洲市場への移転が決まった。

 

 正門横のコンクリート壁に設置された「浴恩園跡」の説明版

IMG_2705.JPG魚河岸水神社の石垣部分に設置された浴恩園の面影を描いた銅版画

IMG_2711.JPG   魚河岸水神社の前に立つ海軍発祥の地を記念する石碑、「旗山」と刻まれている

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続きを読む: 築地市場周辺(1)

 

晴海周辺散策コース

[CAM] 2016年2月 9日 12:00

十返舎一九墓

IMG_2692.JPG所在地 中央区勝どき4-12-9(東陽院)
十返舎一九は本姓を重田といい、明和二年(1765) 駿河(静岡市)に生まれた。その後、江戸に出て、日本橋の出版業者、蔦谷重三郎付の作家となり、多くの黄表紙・洒落本を書いた。なかでも、『東海道中膝栗毛』はよく知られ、主人公の栃面屋弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語であり、続編に続編を重ね、一九の代表作となった。
天保二年(1832)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られた。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移された。
墓石には次の辞世が刻んである。
 此世をば どりやお暇(いとま)に 線香の 煙と共に はい左様なら
 
墓は、区の歴史や文化に関わりの深いものとして、中央区民文化財に登録されている。
平成四年三月
中央区教育委員会

 

朝潮小橋

IMG_2684.JPG橋の途中に設置されているベンチ

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ほっとプラザはるみ(画像は同施設サイトから)

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  施設には、温水エリア、リラックスエリア、屋外ジャグジー、流水エリア、高温エリア(室内ジャクジー)、展望ステージ、サウナ風採暖室、岩盤風採暖室、トレーニングルーム、フィットネススタジオ、リラクゼーションコーナー、等があります。

  

ほっとプラザはるみ4F屋上庭園から晴海埠頭方面を臨む

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区民有形文化財

[CAM] 2016年2月 8日 12:00

椙森神社

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 所在地 中央区日本橋堀留町1-10-2
椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当りくじである富興業が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興業をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
平成八年三月
中央区教育委員会

 

富塚の碑 (椙森神社)IMG_2700.JPG

 

 小網神社

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所在地 中央区日本橋小網町16-23
社伝によれば、当社は小網山万福寺を別当寺として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代始めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留川の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。
境内には、昭和四年(1929)の造営による社殿及び神楽殿が残っている。社殿は伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされている。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面形態を持つ。この社殿及び神楽殿は、中央区に現存する数少ない木造の神社建築として、棟札等の造営に関係する資料とともに中央区民文化財に登録されている。
平成三年四月
中央区教育委員会

 
小網福禄寿

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