神田との境界に竜閑川(りゅうかんがわ)があった。かつては神田区と日本橋区、現在の
浜町川と接していた辺りが「竜閑児童遊園」(日本橋小伝馬町19-4)である。ここに区境・竜閑川に架かっていた橋を模したものであろうか、何となく郷愁を感じさせる情景がある(写真上)。写真の橋をはさんで左側が
この辺りに架かっていた橋は、明治期は「玉出橋」だが、江戸期の絵図には「幽霊橋」ともあり、何とも怖そうな場所であったのだろうか。現在、この遊園の場所は、
竜閑川は日本橋川(旧外堀)と浜町川を結んだ堀川。明暦3年(1657)の大火後、防火のために8丁(約870m)の土手が築かれ、元禄4年(1691)ごろに町人たちの費用で堀割が開削され、通称「神田八丁堀」と呼ばれた。当初は白銀(しろがね)堀ともいわれたが、のちに竜閑川と名付けられたそうだ。竜閑の名は、川の西側の町に御坊主「井上竜閑」が住んでいたから、という。
神田八丁堀は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく=明和2年(1765)-天保2年(1831)。東陽院の墓碑は中央区民文化財史跡指定)『東海道中膝栗毛』で弥次さん(弥治郎兵衛)がこの新道の小借家に住んでいた、という滑稽本の舞台として知られている。
日本橋川に接する西端の場所(日本橋本石町四丁目)に「竜閑橋(龍閑橋)」が架かっていた。大正15年(1926)架橋の親柱と橋桁一部が、いま残っている(写真下)。当時は橋長10.5m、幅員27.0mで、わが国初の鉄筋コンクリートトラス桁構造であった、とのこと。竜閑川には、ここ竜閑橋から東へ、白旗橋、西仲之橋、今川橋(国道17号)、東仲之橋、地蔵橋(昭和通り)、火除橋、九道橋、甚兵衛橋、玉出橋があった。今川橋跡と地蔵橋跡には記念碑や説明板が設置されている。