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池田弥三郎『日本橋私記』(橋名の起原)

[CAM] 2015年7月10日 09:00

  池田弥三郎氏(19141982)は、もう亡くなられて30年以上になるようですが、我々の世代には、タレント教授としてなつかしいお名前です。銀座泰明小学校のご卒業。

 

   本書は1972年の刊行ですが、冒頭の章「わたしの追憶」は「同じ東京の下町でも、日本橋区と京橋区とでは、万事に日本橋が京橋に優先した。それは、今、中央区として、表面一つにはなっているものの、やはりどこかに影をおとしている。京橋区内に生まれて育ったわたしとしては、残念ではあるけれども、これは素直に認めるより仕方がない。」という文章から始まっています。

 

  「銀座に育ったわたしは、銀座通りこそ、東京一の、君臨する場所と思いこんでいたのだが、実は、最も中心というべき町は、『擬宝珠から擬宝珠』と言って、日本橋から京橋までの通りの方で、その方が上なのだと聞かされて、子ども心に、がっかりしたことがある。・・・・・公平な心で日本橋の歴史を省みてみると、たしかに銀座は日本橋の場末であった。銀座の生活の歴史は浅いのである。」(24)とも述べられています。

 

 著者の「わたしの橋名起原説」も述べられています。これによると、

 

(1)  日本橋は、もと日本橋川(当時その名はなかったが)に架けられていた、粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」  と言われていた。

(2)それが、江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰言うとなく、二本橋は日本橋だと言われるようになっていった。

(3)そして、誰言うとなく言い出した「日本橋」という名を、誰もが素直にうけいれられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表の土地となり、さらに全国里程の中心となり、五街道発足点ともなっていったために、ますます「日本橋」の名がふさわしくなっていった。

――と、こういうような筋道が考えられるのではなかろうか。 (48)

 

 最近の書物を見ると、(1)の部分は略して、はじめから(2)(3)の経緯を述べるものが多いように思われます。しかし、この橋が最初に架けられた1603年頃の江戸というかこの地域はまだ荒涼たる新開地に過ぎなかったこと、当初のものはほんの粗末な橋であったであろうこと、池田氏が言うように、橋の名に限らず、地名というものは、そもそも単純で端的、直観的な名づけられ方をされるものであること等を考え合わせれば、起原としては(1)の段階があったと言うべきではないでしょうか。

 

 池田氏は「なお、大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられています。

 

 私が見た限り、大阪にも「日本橋」「京橋」という地名が存在することとの関係性に言及した論は、この池田氏のものが唯一のように思われます。

 

 これに限らず、池田氏の論を読むと、関西文化への敬意が感じとられるのは、氏が「田舎者」ではなく銀座で生まれ育った都会人であることとともに、折口信夫に師事したことによるのでしょう。