隅田川に架かる橋のひとつ「新大橋」。 オレンジ色の主塔が特徴的なこの橋は、清洲橋のひとつ上流にあり、中央区の日本橋浜町から江東区の森下方面に繋がります。1977年(昭和52)に架けられた比較的新しい橋です。
今回はその先代の橋、1912年(明治45)に現在地に架けられた鉄製の旧橋の話なのですが、この橋はトラス橋という剛健なフォルムでありながら、優美な装飾が施された橋だったといいます(下の写真は現在の橋の主塔に取り付けられているプレートで旧橋が描かれています)。
この旧橋の一部は、愛知県犬山市にある「博物館明治村」に登録有形文化財として保存展示されています。かねてから明治村には行ってみたかったのですが、ようやく念願が叶いこのシルバーウィークに見に行って来ました。
一目見た感想ですが、意外に大きかった印象でした。明治村には日本橋浜町側の8分の1程度が移築されているのですが、これを単純に8倍した姿を隅田川上にあったかのように想像してみると、当時もかなり大きく感じられたのではないかと思います。
全長173メートル、幅25メートル、開通して間もなく市電も通るようになったそうで、この明治村にもその跡が再現されています。
それと、この橋の特徴とされる装飾。思っていたよりも繊細で美しかったです。橋自体が重厚な感じなので、よりそう感じられるのかもしれません。一番驚きだったのはの野村素介筆の「橋銘板」。色合いはエレガントを通り越してゴージャスな感じです。
橋銘板、照明器具や歩道の高欄の色は、以前灰色系のペンキで塗装していたそうなのですが、今年の春に創建当時の色に復原する形で塗り直されたとのことです(下の写真は、曲線を多く取り入れた歩道の高欄の装飾)。
白い花崗岩製の高欄や親柱は荘厳さを感じさせる造りです。
明治時代に架けられたこの旧橋ですが、よく話に取り上げられるのは関東大震災の時の出来事です。
他の橋が震災で落ちる中、当時比較的新しかったこの橋は落ちることなく、燃えることもなく、逃げ惑いこの橋に殺到した群衆の多くの命を救いました。そのため「人助け橋」とか「お助け橋」と呼ばれるようになりました。
現在の橋の中央区側の袂には、「大震災避難記念碑」「人助け橋の由来碑」があります。
「大震災避難記念碑」は思っていたよりも大きく、見上げるような感じ。これは当時の人々のこの橋に対する感謝の大きさを物語るものなのかもしれません。
大震災の10年後の昭和8年に建てられたものだそうで、書かれているのは、この橋に避難されてきた近隣神社の神の力・荷物を捨てる適切な判断をした人の力があったので多数の避難者が助かった、というような内容です。
一方の小さいほうの「人助け橋の由来碑」は、旧橋から今の橋への交代時に建てられた碑。震災当時、久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する警察官の適切な判断を称える内容が記されています。
多数の避難者を誘導すると同時に、このままでは避難者全員が焼死してしまうと判断し燃えそうな荷物を隅田川に捨てさせ、一万人を超える命を救ったのだそうです。
ですが、この橋が防災上も優れた橋だったということがいちばんの理由ではないかと思います。
明治村は今年50周年だそうです。こういう歴史的価値のある建造物が現物の資料として残され、見ることができ、感じることができること。すばらしいことだと思います。
橋に限らず、ビルや建物の建て替えの際には後世に伝えるための努力も必要だということをここに来て感じました。