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歴史豊かな建造物をめぐるコース (2)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

三井記念美術館

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    三井家が収集した美術品約4,000点を所蔵する「三井記念美術館」。国宝・重要文化財をはじめとする三井11家から寄贈された名宝の数々を展示・公開し、文化財の保存とともに研究活動や芸術文化の発信に努めている。

三井家は元々、三井高利の時代から茶の湯が嗜まれ、生活文化として定着していたが、それに加え、北家(総領家)は長年にわたって表千家との親交を持っていた。また金融御用を務めていた紀州徳川家との茶の湯を介した交流もあり、そうした中で多くの茶道具が収集されてきた。また、北家は京都画壇とのつながりも深く、特に円山応挙の作家活動を援助していたことから、応挙をはじめとする円山四条派の作品も多く見受けられる。

三井各家のコレクションは茶道具、絵画、書跡、能面、能装束、拓本、刀剣、調度品、切手など多岐にわたる。

これらは戦後、第11代三井総領家当主・三井八郎右衞門高公の決断により、段階的に三井文庫に寄贈されていく。昭和59年(1984)には三井文庫別館が竣工し、翌年から美術品の一般公開を開始した。それに伴い、三井各家からは伝来の美術品や文化財の寄贈が繰り返され、その他の法人や個人からも寄付を受けるようになった。三井文庫が膨大な美術品を収蔵するに至ったのは、こうした経緯による。

やがて、三井文庫別館の展示活動は三井記念美術館に引き継がれ、平成17年(2005)、日本橋室町にある重要文化財・三井本館内7階に開館した。所蔵する美術品は国宝6点、重要文化財71点、重要美術品4点など約4,000点。切手類は13万点に及ぶ。

江戸時代の絵師の巨匠・円山応挙筆の国宝「雪松図屏風」は墨と金泥と紙の白色のみで、雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を情感豊かに描き出している。松は輪郭線を用いない没骨技法。余白が空間の広がりを感じさせる。

室町家からの寄贈は、書画、茶道具など約800点あり、中でも国宝「志野茶碗 銘卯花墻」はその中の白眉ともいうべき名品で、日本で焼かれた茶碗での国宝指定は、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみとなっている。

このほか、茶道具では長次郎作「黒楽茶碗 銘俊寛」や「大名物 唐物肩衝茶入(北野肩衝)」など重要文化財も数多く所蔵している。

館内の中央の展示室には、三井家とゆかりの深い国宝茶室「如庵」の内部を再現。三井家の美術品だけでなく、様々なテーマによる「特別展」を企画・開催し、東京駅周辺の3美術館とも連携して新しいアートスポットを創出している。 (三井広報委員会サイトから)

 

 十軒店 跡 (写真は2015年11月30日撮影、以下同じ)

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所在地 中央区日本橋室町3-2-15
十軒店は雛市の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。
『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治四十四年(1911)に十間店町となり、昭和七年(1932)、旧日本橋室町三丁目に編入されました。
平成十年三月
中央区教育委員会

 

 長崎屋跡

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所在地 中央区日本橋室町四丁目二番地
江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。

商館長に随行したオランダ人の医者の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。
鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。

 

石町時の鐘 鐘撞堂跡

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 江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報せていました。この鐘は、石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので、近くに長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。宝永8年(1711年)に鋳直したもので、(徳川家宣時代)高さ1.7メートル、口径93センチの和鐘です。現在は、十思公園に鐘楼を、設けて納めてあります。(観光協会サイトから)

 

 

夜半亭 (与謝蕪村旧居跡)

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