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銀座5~8丁目ウォーキングコース (3)

[CAM] 2016年1月 9日 18:00

新橋演舞場(撮影は1月5日16:00ごろ)

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(松竹サイトから) 新橋演舞場の新築開場は大正14年4月のことでした。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(芸者屋屋号森川家)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源といいます。

新橋演舞場が建てられたのは、当時の東京市京橋区木挽町10丁目14番地(のちの6丁目9番地、そして現在の中央区銀座6丁目18番2号)で、この場所は、偶然にも芝居狂言「加賀見山旧錦絵」のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡でした。

建設以前は、狭い川に面した荒れ果てた空き地で、草木もうっそうと茂り、夜は道行く人も珍しい実に不気味なところだったといいます。そこに定員1,679人の三階建ての立派な劇場が建てられたのです。

多くの優れた専門家が結集し大正12年に着工。その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングもありましたが、20ヶ月にわたる全工事を完了し開場にこぎつけました。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。昭和15年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新国劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのです。

第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。昭和23年に復興されましたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなりました。

そこで昭和57年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場です。新装には最新システムの導入だけでなく、ゆとりある客席空間、正面玄関のレンガなど、旧演舞場設計の精神が大切に受け継がれています。

 

東京商工会議所発祥の地
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明治維新の国是をふまえ 欧米諸国の制度文物を採り入れ 時の産業界の指導者が相携えて 明治11年3月12日 商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である
ここには明治24年以来 農商務省 次いで商工省が昭和18年まで所在し 明治 大正 昭和の3世代にわたって 日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった
昭和53年3月12日 東京商工会議所創立100周年にあたり ここに記念碑を建てて後世に残すものである
東京商工会議所会頭 永野重雄 

 

佐久間象山塾跡

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 所在地 中央区銀座6丁目15番地域

 この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(18111864)の私塾がありました。

 象山は初め儒学を修め、天保10(1839 )神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。

 後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町5丁目(現在地付近)に塾を開きました。嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は20坪程度の規模で、常時3040人が学んでいたといいます。

 その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河合継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永6年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である121日に象山に入門しました。

 木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永7年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられて、塾も閉鎖されました。

平成223月         中央区教育委員会

 

狩野画塾跡(昭和通りに面する。後部の建物は電源開発ビル)
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江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(一六三〇)に江戸に召し出され、竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永六年(一七七七)六代典信(栄川)の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角に当たるこの地に移って、画塾を開きました。
奥絵師四家のなかでも最も繁栄した木挽町狩野派は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集りました。門人のほとんどは諸候のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(勝川)の門下生です。
平成九年三月
中央区教育委員会