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「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」(3)

[CAM] 2017年9月 6日 18:00

三.「江戸っ子」とは

(1)山東京伝による「江戸っ子」の定義

 「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、「江戸城の鯱をみて水道の水を産湯とした」「宵越しの銭は持たない」「食べ物や遊び道具がぜいたく」「生粋の江戸のはえぬき」「いきとはりを本領とする」といった条件を満たすのが江戸っ子とされている。山東京伝著『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店1958年)。

「金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・」

 こうした江戸っ子の条件を最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、不思議な思いがした。この点については、永井荷風の「井戸の水」(明治9年)という随筆を読むとその背景をよく理解できる。

「水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。

江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)」(岩波版全集17-32)

 

 
(2)「江戸っ子」生成についての考察

 以上の永井荷風の文章を読むと、明治の初め頃でも、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということが解る。よく「芝で生まれて神田で育った江戸っ子」などと言われるが、既に述べたように、元来は、神田や芝さえもが、「江戸」という地区には含まれていなかったのである。 

池田弥三郎氏は、以下のように述べる。(『日本橋私記』)

「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」

そして、

「金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。」

「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、『平凡社大百科事典』における竹内誠氏による説明が簡明でわかりやすいので、以下、これによると(引用はDVD-ROM 1998年版による)、

「江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代(1760~86)になってはじめて登場してくる。(筆者注;山東京伝は1761~1816)・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。」

「田沼時代には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,『上方者』への反発は大きかった。・・・・・『宵越しの銭を持たねえ』と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。」

「もう一つの契機は,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら『田舎者』が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生えた。」

 西山氏は、「江戸ッ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっている」として、「主として化政期以降に出現してきた『おらぁ江戸ッ子だ』と江戸っ子ぶる江戸っ子」(自称江戸っ子)と、「日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち」(本格的江戸っ子、高度な文化を持った豊かな人たち)とに分けられる」とする。

 

 

 関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

(おわり)

 

 

ショーウィンドー、夏からガラリと模様替え〔ベル・フルール 銀座本店〕

[ジミニー☆クリケット] 2017年9月 6日 14:00

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昨年の11月に、クリスマスシーズンを控えたこちらのお店のディスプレイを、ブログに紹介させてもらいました

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ベル・フルール 銀座本店は、銀座1丁目、昭和通りに面しています(上の地図、赤〇の場所)

こちらは、日本初プリザーブドフラワー専門店で、中央区内の日本橋三越本店銀座三越松屋銀座本店にもお店があります

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こちらのショーウィンドーが、からガラリ模様替えです

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8月黄色を基調とした「ひまわりバージョン」、下9月の「浮世絵バージョン)」です

斬新」のテイストに意外性があり、思わずお店に入りたくなります

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ショーウィンドーディスプレイが替わるだけで、お店の前の通りの雰囲気まで変わってしまったようです

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営業時間は、11時から20時までです。

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なお、写真撮影に当たっては、お店のご了解をいただきました。

ありがとうございます

昨年11月のブログ記事はこちら ⇒

/archive/2016/11/post-3832.html

 

 

本銀通り 日本橋室町4丁目から本石町付近まで

[銀造] 2017年9月 6日 12:00

昭和通りに面した、中央区立地蔵橋公園に、

『 千代田区神田「竜閑川埋立記念」中央区日本橋 』という札が立っています。

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ここが、中央区と千代田区との区境で、中央区立地蔵橋公園です。ここを真っ直ぐ進むと「福田稲荷神社」が鎮座されています。

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この一つ南側の昭和通り沿いの陸橋の下に、交番があり、そこから西に向かって「本銀通り(HON-SHIROGANE-DOORI)」が伸びています。

この界隈は、日本橋室町4丁目で、沢山の企業が活発に営業なさっているので、飲食店も多いです。

この通りでは、「匠上 日本橋室町本家」という焼肉・しゃぶしゃぶ・すき焼きの店を見つけました。日本橋室町4-6-5室町CSビルB1Fです。沢山ある肉類のメニューからランチを選びましたが、生憎写真を撮影するのを忘れてしまいました。()

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 親切な店員さんが、「夕方5時から30分間、¥500の飲み放題プランがありますよ!」と教えてくれたので、次回は仲間を誘って行こうと決めました。

 

そして、中央通りまで来て、案内板を確認してみました。区境がハッキリ確認出来ました。

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ここから中央通りを越えて直ぐの右側に「家内喜稲荷神社」が鎮座されています。案内板の間から、鳥居が見えますでしょうか?

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 ここを真っ直ぐ行くと、左側には蕎麦の名店「室町砂場」があります。(写真は逆方向からの撮影)

「室町砂場」は、天ざる・天もり発祥の店と、中央区はじめて物語マップで紹介されています。そこには、『「そばの芯だけを挽いた更科粉を卵でつないだ「天ざる」を創案したといわれています。暑い夏でも天ぷら蕎麦を食べやすい様に、つけ麺状にしたものが天ざるのはじまりといわれています。』

 

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室町砂場から、堀田丸正と進んでいくと、竜閑橋のところまで到達するのですね。 

 

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達成感で充実した2週間がかりのツアーでした。

 

 

 

逍遥 龍閑川の痕跡

[あすなろ] 2017年9月 6日 09:00

明暦の大火(1657年)後に掘り割られた人口の運河
「龍閑川」がありました。

 

千代田区大手町付近の日本橋川より始まり、小伝馬町付近
で浜町川に合流。流れは直角に折れ、浜町川として、浜町、
人形町、箱崎を経て、隅田川へ流れ込むものでした。

 公園内.jpg

 

この川は、千代田区と中央区の区界となり、昭和25年に
埋め立てられたあと、龍閑児童公園(千代田区)、龍閑児童
遊園(中央区)と2つの名前を持つ公園ができました。

 龍閑児童公園s.jpg 龍閑児童遊園s.jpg

 

公園の隣には、江戸七森の一社である竹森神社が
お祀りされています。

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◆龍閑児童遊園/龍閑児童公園
東京都中央区日本橋小伝馬町19-5
/千代田区岩本町1-14-1

 

◆竹森神社
東京都中央区日本橋小伝馬町19-4

 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (2)

[CAM] 2017年9月 5日 18:00

二.「江戸」の成り立ちと範囲

こうして、日本橋地区からさらに現中央区の歴史に触れていくうちに、今まで不勉強であった「江戸」の成り立ちなども知るようになった。現東京都中央区の前身である日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのは明治11年(1878)であるが、その直前に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、そこには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸区・南江戸区の名がある。つまり、原案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区と称しようとしたものらしい。『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いているが、このような考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。なお、中央区成立の際(1947年)にも、新区名を「江戸区」「大江戸区」とする案も有力であったという。

そもそも、「江戸」の語源は「江処」であると考えるのが妥当ではないか。「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東部の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、"江処"というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、そして、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3年(1657)の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、旧日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。

したがって、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南の境界は新橋川であった。 この新橋川に架かる難波橋は、江戸を追放される者の放逐個所となっていた。そして、新橋川を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。さらに、本郷の近くにある小橋も、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたが、その本郷の別れの橋の近くに"も"、兼康の支店があった。 池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の"も"はそういう意味だと言う(『日本橋私記』1972年)。たしかに、池田氏のように解することによって、"も"という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、元来は、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えをよく理解できる。

池田弥三郎氏は「おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・

江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって・・・・・」と述べている(『日本橋私記』)。

「江戸の範囲」についての幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄区域)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際は、どの時点、どの段階での話なのかを明示する必要があろう。しかるに、「江戸時代」とひとくくりにして論じたり、時代初期の事象についてであるにもかかわらず、朱引による領域を当然の前提であるが如くに述べたり、江戸時代後期における社会状況を時代全体についてのもののように語る文章があるが、徳川幕府が成立し(1603)大政奉還される(1867)までの間でも260年以上に及んでいる。これは、アメリカ独立宣言(1776)から現在までの期間(240年)よりも長いのである。

(続く)

 

 

IMANOフルーツファクトリー

[ぺんぺん] 2017年9月 5日 14:00

こんにちは。ぺんぎん歩きのぺんぺんです。

皆さま、いかがお過ごしでしょうか?

さて、今月の記事ですが、皆さまは「IMANOフルーツファクトリー」をご存知ですか?場所は、地下鉄茅場町駅1番出口を出たところにあります。かねてから気になっていたフルーツショップ。通勤路にあるため、一度は食べてみたい!と思っていました。私が購入したのは、こちらのフルーツサンドです。最近はSNSでもフルーツサンドの写真をUPするのが、人気ですよね
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バナナ、メロン、ピンクグレープフルーツ、パイナップルなどたっぷりフルーツが入っていました。クリームは甘さ控えめです。ひとつ380円でした。他にもフレッシュジュースや旬の果物、カットフルーツや贈答用の品物などが売られています。今度は何にしようかな♪地下鉄の出口を出た場所にあるため、とても利用しやすい立地ですよ。皆さまもぜひ!
 

 
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