こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
これまで二記事にわたり、Cawaii Bread & Coffee、ROAR COFFEE HOUSE & ROASTERYといった八丁堀のオススメ店を取り上げてきました。
東京駅から近く、何かと便利な八丁堀ですが、そのような場所に七不思議があることはご存知ですか?
この七不思議の起源は、与力・同心の組屋敷があった江戸時代に遡り、彼らの人情や生活の様子を生き生きと伝えているものの一つでもあります
今回は現代の話を交えて、その七不思議をご紹介します。
■寺あって墓なし
江戸時代初期、「八丁堀寺院町」と呼ばれるほど八丁堀の武家地外には
多くの寺院がありましたが、明暦の大火を機に、当時西八丁堀岡崎町にあった
玉円寺を唯一残し、他の寺院は江戸の中心から離れた場所へと移りました。
玉円寺は本願寺末での布教を主とし、墓を持たなかったことから
このように言われるようになったそうです
何百年も前の話なので、今となってはその唯一のお寺もなくなってしまったのではないかと思っていたのですが、なんと、玉円寺(浄土真宗)は今でも存在しています
明治維新後に移転したため、本来の場所にあるわけではありませんが、現代にまで残っていることに感動しました
■奥様あって殿様なし
薄給の与力・同心は、与えられた土地の一部を貸して生活していました。
同心が酒屋や米屋といった商人に貸す一方、与力は儒学者、画家、医者に貸すなど、
武家地でありながら町地として扱われていたそうです。
そのような彼らは信頼され、親近感のある存在であったため、
町の人から「奥様」の対語である「殿様」ではなく、「旦那」と呼ばれました
このことは、現在久安橋で見られる工事中のパネルにも描かれています
■金で首がつながる
与力・同心は町の人に頼まれて動くことも多かったことから、
賄賂でもって首がつながると言われていました
■間米の玄関
丸橋忠彌逮捕の時、同心の間米は彼に組み付いて重傷を負いました。
それを知った奉行が、褒美をやるから望みを申せと言ったところ、
彼は与力になりたいという願望を正直に言えず、玄関を構えたいと言ったそうです
彼は後に与力になることはなく、玄関を設けることだけが許されたため、
恥ずかしくて表ではなく裏に玄関を構えたというエピソードがもとになっています
■女湯の刀掛け
与力・同心に日頃からお世話になっている八丁堀の人達。
江戸っ子同様朝湯が好きな彼らのために、朝から客のこない女湯も開放し、
通勤前にのんびりお風呂に入っていただこうと考えました
彼らは刀を差して来たため、朝に限って女湯に刀掛けが用意されたそうです。
現代の東京都心に銭湯があるとは思っていなかった私にとって、
偶然入船湯を見つけた時の衝撃は今でも覚えています
調べてみたところ、現在中央区には9つの銭湯があり、
1863年創業の金春湯は、江戸時代から続く3軒の銭湯のうちの1軒となっています。
そして、月2回(第2・第4金曜日)開催される「コミュニティふれあい銭湯」にて、
区内在住者・在勤者は、大人通常460円のところ100円で入浴ができます
(ただし、敬老入浴証持参者と小学生以下は無料。)
季節によってしょうぶ湯やゆず湯も楽しむことができ、
10月10日の銭湯の日頃には、ラベンダー湯が登場する銭湯もあります
たまには開放感のある浴場でリラックスしてみてはいかがでしょうか。
詳しくは、中央浴場組合公式サイト(http://www.268chuou.com/)をご覧ください。
■地蔵橋あって地蔵尊なし
いつの間にか地蔵が橋の袂からどこかに移され、橋だけが残ったと解釈できます。
地蔵橋と名の付く公園が残る今...
もしかしたら、当時の地蔵が見つかる日がくるかもしれませんね!
■鬼の住居に幽霊が出る
茅場町1~2丁目の間にあった与力の屋敷には高い板塀があり、
少し進むと恐ろしく暗い道になっていたそうです
『嘉永日記抄』によると、そこは幽霊横丁と呼ばれ、毎晩首を白く塗った幽霊が出没し、通行人の袖を引いたと言います。
では、本当に与力の屋敷の周りは心霊スポットだったのでしょうか?
気になる幽霊の正体は、当時夜の世界で働く女性たちだったと言われています。
さて、ここまで七不思議をご紹介してきましたが、
実のところ、七つ以上こういったいわれがあり、
他には「一文なしで世帯が持てる」や「提灯かけ横丁」があったと伝えられています
このような当時のいわれからは、与力・同心の生きた中央区を垣間見、
現代に息づく江戸の名残を知ることができます。
八丁堀を歩く際は、そのような名残を探してみるのも楽しいですよ
【参考文献】
中央区教育委員会 事務局社会教育課(1989)『中央区の昔を語る(一)-八丁堀- -佃島-』.