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【遠足シリーズ第9弾】漁民が結んだ縁の島
こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です 先日大阪出張時の昼休みを利用して、駆け足で中央区ゆかりの地に行ってきました それが、大阪市西淀川区にある佃です! 佃と聞いてピンときた読者の方も多いのではないでしょうか? そうです。大阪の佃は中央区の佃島と関係があるのです 中央区の佃島は、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区)から江戸入りした漁民が埋め立て、正保元年(1644年)にできました。 では、なぜ遠く離れた摂津国の漁民たちによって築造されたのでしょうか? そのきっかけは、ちょっとした縁にありました。 天正14年(1586年)、徳川家康が大阪住吉大社と摂津多田神社を参拝。 その際に神崎川の渡船を務めたのが、今回の主人公佃の漁民でした (向かって左側が佃) 慶長17年(1612年)、彼らは将軍家に献魚の役目を命じられ、田蓑神社宮司の弟や佃村の庄屋森孫右衛門を含む、佃・大和田の漁民33名が江戸に入り、 日本のどの海でも漁ができ、免税対象となるといった漁業権の特権が与えられました。 当初彼らは日本橋小網町に居住し、江戸湾で漁業を営んでいましたが、 後に幕府よりいただいた鉄砲洲の地を埋め立て造成し、 故郷にちなんで「佃島」と命名し、移住 後に、幕府に献上した残りの魚を板船の上に並べて一般の人にも売るようになり、 それは先日ご紹介した日本橋魚河岸の始まりとなりました。 住吉の大神を祀る大阪・佃の産土神田蓑神社には、 中央区の発展に大きく貢献した漁民にまつわる碑があります 境内には、家康の没後祀られたという東照宮もあり、佃と将軍家の特別な縁をうかがわせます そして、漁民の代表ともいえる森孫右衛門のお墓が、神社から近い正行寺にあります。 お寺の方曰く、子孫のご意向もあり、保存の関係上現在は一般公開していないとのことでした。 しかし、中央区の築地本願寺では、「森孫右衛門供養塔」を見ることができます こちらは彼の200年忌である1861年に建てられました。 右側面には佃島の漁師と徳川家の関わり、左側面には佃島の成り立ち等が刻まれています。 (右:右側面、左:左側面) そして最後に、中央区観光検定受験者はチェックしておきたい佃に関する文化財「白魚献上箱」をご紹介します こちらは、佃島の漁師が将軍に白魚を献上する際に使用したもので、 朱塗りの内箱(ふたの部分に金泥で「御膳白魚箱 佃嶌」と書かれている)を 黒漆塗りの挟み箱(朱漆で「御膳御用 御本丸」と書かれている)に入れ、かつぎ棒を通して運んだといわれています 御用漁は毎年11月~3月に、定置網の一種である建網漁法にて行われました。 その様子は、『江戸名所図会』にも見ることができます。 こうして漁民にスポットライトを当ててみると、自然と彼らの生活が目に浮かんできませんか? 摂津国・佃から不思議な縁があって江戸に移り住んだ漁民たち。 そんな彼らが結んだ縁には、将軍家との縁のみならず、江戸と摂津の縁もありました 現在でも中央区立佃島小学校と大阪市立佃小学校の学生が交流するなど、 漁民が結んだ縁の島では今でも良い関係が続いています 【参考資料】 大阪あそ歩(Osaka Asobo)「千船駅(阪神本線)佃漁民ゆかりの地を歩く」 【観光検定の文化財対策で役立つサイト】 中央区「中央区文化財」http://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/ (より詳しい書籍版は、区内の図書館で借りられます) 【余談】 江戸時代において、市中からわずかに海を隔てた佃島は、市中の人にとって魅力ある場所でした。 藤見物、住吉神社祭礼、潮干狩りなどで観光名所となっていたようで、 その様子は、『江戸名物鹿子』や『絵本 江戸土産』に描かれています。 |
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