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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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薬研堀 納めの歳の市開催中!

[之乎者也] 2015年12月28日 17:00

別の記事(順天堂発祥の地)の取材のため、薬研堀(東日本橋)まで出掛けて行きます。薬研堀は同じ中央区ではあるものの家からちょっと遠いのと地下鉄でも行きにくいこともあり、いままではあまり足を伸ばすことも無かったのですが、今年は強い味方「コミュニティサイクル(CCC)」があるので安心です。

産業会館(A04)のポートに自転車を停めようと横道へ入っていくと、薬研堀不動院のちょっと手前から、提灯が飾られ出店が出て縁日状態になっています。そうです、恒例の納めの歳の市、歳末出庫市(でこいち)が開かれていたのでした。YagenToshi1.jpg薬研堀の歳の市・歳末出庫市に来るのは、もちろん今回が初めてなのですが、婦人服、靴、カバンなどが売る屋台が目につきます。横山町なども近くにあるし土地柄でしょうか?YagenToshi3.jpg

香港や台湾などでは、道路から完全に車をシャットアウトして開かれる夜市・縁日も珍しくはないのですが、東京では(単に私が知らないだけなのかもしれませんが)あまり見たこともなく、非常に新鮮でした。そぞろ歩きも楽しいです。YagenToshi2.jpg3色の提灯がきれいに飾られているので見ていると「大本山 川崎大師」と書いてあります。薬研堀不動院は真言宗のお寺なので弘法大師さんの系統なのだろうなと思いながら調べてみると、こちらは「真言宗智山派大本山川崎大師平間寺」の東京別院で、目黒不動と目白不動とともに江戸三大不動のひとつとして知られるようです。YagenToshi7.jpg

にわか勉強ですのでこれ以上は化けの皮が剥げてしまいますので、詳細は、地元の特派員・橘さんの昨年12月の記事「薬研堀 歳の市と大出庫市(/archive/2014/12/post-2264.html)」をご覧下さい。

「何故今の時期に歳の市が開かれるのか(納めの歳の市の名前の由来)」とか「何故、こちらで衣料品や靴などが売っているのか」など、丁寧に説明がされています。YagenToshi4.jpg

 

こちらの納めの歳の市、今年も29日(火)までやっています。YagenToshi6.jpg 

【薬研堀不動院 納めの歳の市】

会場:東日本橋二丁目(薬研堀不動院周辺)

期日:12月27日(日)~29日(火)

開催時間:11:00~19:00

 

 

京橋通(きょうばしとおり)郵便局と京橋郵便局

[之乎者也] 2015年12月28日 12:00

もういくつ寝るとお正月。。。

ブログ読者の皆さん、そろそろ年賀状の準備は終わりましたか?来年は申年ですね。「申」には「果実が成熟し明らかになる」という意味があるらしく、来年は「努力の成果が実る年」のようです。前向きに頑張って行きたいですね。

さて、ちょうど家族で京橋に夕食に行く前だったので、そんなことを話しながらレストラン近くの郵便局に無地インクジェットの年賀状を買いに行きます。KyobashiPO1.jpg

【京橋にある京橋通郵便局】

 

郵便局には同じように年賀状を求める人がたくさんでしたので順番を待っていると、例によって「質問小僧」の息子から素朴な質問が出されます。

「この郵便局って京橋通(きょうばしとおり)という名前だけど、この前にウチに不在配達票が入っていて、伯母さんからの小包を受け取りに行ったのは京橋郵便局だったよね。京橋にある『京橋通郵便局』というのはわかるけど、どうして(晴海通りの)あっちは『築地郵便局』ではなくて『京橋郵便局』なの?」

 

~~京橋通郵便局は、中央通りを挟んで東京スクエアガーデン向かい側にある道を少し昭和通り方面へ入ったところにある郵便局です。こちらの通りは鍛冶橋通りと京橋竹河岸通りの間の通りで、このあたりはむかし具足町、南伝馬町などと言ったようですが、現在は特に通りの名前はありません~~

 

「そうだね、こちらの京橋通郵便局は、京橋にある郵便局くらいの意味なんだろうね。目の前の通りの名前が「京橋通り」とでも言うのかと思ったけど特に通りに名前も付いていないみたいだしね。」KyobashiPO4.jpg【goo地図 明治時代の京橋付近】⇒中央にある京橋の少し北に「京橋郵便局(現在の京橋通郵便局の前身?)」が見える。

 

~~日本郵便総務部に京橋通郵便局の由来について伺いました。京橋通郵便局は昭和の初め(昭和4年?)に設立されたとのことでしたが、名前の由来は残念ながら郵便局でも判らないとのことでした。一方、明治時代の古地図(goo地図 古地図)を見ると、京橋の北詰あたりに「京橋郵便局」というやや小さめの郵便局があったことが見て取れます。あくまでも推定ですが、こちらの郵便局ももとは京橋郵便局としてスタートしたものの、2つ同じ名前の郵便局があるのも紛らわしいので、昭和の初めに(京橋のそばにある)「京橋通郵便局」と改名したということでないでしょうか(この点についてご存知の方があればご教示頂ければ有難いですし、私も質問小僧と一緒に更に調べてみたいと思います)。~~KyobashiPO2.jpg【晴海通り沿いの京橋郵便局】

 

 「。。。『京橋郵便局』というのは、昔中央区が京橋区と日本橋区で別々の区だった時代の『京橋区』の郵便局という意味だったんじゃないかな。こちらの郵便局は、現在でも集配達も行う大きめの郵便局だけど、昔からこの地域(旧京橋区全体)の中心となる郵便局だから京橋郵便局という名前になったんじゃないのかな。」

~~明治時代の古地図(goo地図 古地図)を見ると、築地4丁目の現在地に「京橋郵便局」の名前が見えます。明治初期の地図(別の内務省などの地図)を見ると「海軍省属地」、「農商労省用地」などで未だ郵便局にはなっていないことから、明治後期(明治39年(1906年)?)に京橋郵便局が設置されたことが推定されます。~~KyobashiPO3.jpg

【goo地図 明治時代の築地付近】⇒左中央あたりに「京橋郵便局」が見える。右下のピンク色の土地は築地本願寺、赤線は都電。 

 

「へぇ~、京橋区ってなんかかっこ良い名前だね!」

「今の中央区ができたのは1947年で、京橋区と日本橋区が一緒になって中央区ができたのは知ってるよね。今は東京23区と言うけれど、明治時代には50区があった時代、100区(正確には、11大区と103小区があり大区小区と呼ばれた)の時代、15区の時代、35区の時代と区の数も大きく変わっていったんだ。京橋区と中央区は1878年に15区になった時代に誕生したんだ。」

「ちなみに、中央区は日本の郵便の歴史とも縁が深いのは知っているかい?日本で初めて郵便局ができたのは日本橋だし、今は総務省の外局で郵政事業庁と云うのだけれど、そのもととなった逓信省は明治時代に木挽町(現在の銀座中学校、銀座郵便局あたり)にできたんだよ。」

 

ちょうど、ここで待っていた順番が来たので話は終わりましたが、息子も中央区と郵便の歴史について興味を持った様子。冬休みを使って京橋図書館や押上(墨田区)の郵政博物館などへ行っていろいろ調べてみるようです。

 

【京橋通郵便局】

所在地:〒104‐0031 中央区京橋3‐6‐3

電話:03‐3561‐1086

営業時間:9:00~18:00(土日祝休)

 

【京橋郵便局】

所在地:〒104‐8799 中央区築地4‐2‐2

電話:03‐5546‐1068

営業時間:9:00~19:00(土は~17:00、日祝は~12:30)

 

 

「日本橋 七福神めぐり」ー2016年

[クラさん] 2015年12月28日 09:00

もうすぐお正月です。七福神めぐりは、都内でも何ヶ所かありますが「日本橋 七福神めぐり」(日本橋三越本店 主催)をご紹介します。

七福神への信仰は、室町時代より始まって500年以上にわたり日本人に受け継がれているそうです。恵比寿神・大国神・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老神・布袋尊の神様からなり、それぞれの神様を参拝してご利益にあやかります。日本橋七福神は他所とは異なり全て神社で構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間にできることも特長です。

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日本橋三越本店が主催する「日本橋 七福神めぐり」(協賛/日本橋七福会、後援/中央区観光協会、協力/山本海苔店、小津和紙)は、今年で31回を数える人気の催しで、1月4日(月)10:30~14:00に開催されます(参加無料/雨天中止)。コース(約1時間半)は、日本橋三越本店・1階室町口(受付)から小網神社(福禄寿・弁財天/強運厄除けの神様)~茶ノ木神社(布袋尊/火伏の神様)~松島神社(大国神/日本橋のお酉様)~末廣神社(毘沙門天/勝運の神様、元吉原の鎮守様)~笠間稲荷神社(寿老神/長寿延命の神様、常陸笠間稲荷神社の東京別社)~水天宮・仮宮(弁財天/安産・子授けの神様)~椙森神社(恵比寿神/営業繁栄の神様、江戸富くじで名高い)~寶田恵比寿神社(恵比寿神/商売繁盛の神様、10月にべったら市)~日本橋三越本店・屋上(ゴール)です。コースの順番に、決まりはありません。

人気の理由は、日本橋という伝統のエリアに七福神がコンパクトにまとまり下町情緒に触れながら短時間で巡行でき、順路の地図がいただけるほか要所に道案内のスタッフがいて初心者にも安心なこと、ゴール近くの椙森神社で参加用紙にスタンプを押して持参すると三越本店(屋上)で干支の絵馬型手ぬぐいを、また三越の向かいの山本海苔店で干支小皿がいただける等にあるかと思われます。

新春らしい記念品をいただくと共に、招福と無病息災を願って新春の日本橋を散策するのはいかがでしょうか。

 

 

「細雪」のなかの東京(7)

[CAM] 2015年12月26日 20:00

 「細雪」からの引用を続ける。

 

>・・・・・幸子は・・・・・・・・・資生堂の美容室へ出かけた。それというのは、ここのホテルの地階にも美容室はあるけれども、資生堂ではパアマネントをかけるのに、ゾートスと云う薬液を使う新しい遣り方をしている、それだと電気器具などを頭へ取り附ける面倒がなくて楽であるから、あそこでやってお貰いなさいと、昨夜光代に教えられたからであったが、行ってみると、十二三人もの先客が控えており、これでは何時間待たされるかも分らない形勢であった。・・・・・・・待合室に待っている間も、周囲がいずれも見も知らぬ純東京の奥様や令嬢ばかりで、誰一人話しかけてくれる者もいない。二人は小声で語り合うのさえ、上方訛を聞かれることが気が引けるので、さながら敵地にいる心地で身をすくめながら、あたりでぺちゃくちゃ取り交される東京弁の会話に、こっそり耳を傾けているよりほかはなかったが、今日は大変込むんだわね、と、一人が云うと、そりゃそうよ、今日は大安だもんだから御婚礼がとても多いのよ、美容院は何処も大繁昌よと、一人が云っている。・・・・・・(862

 

 「さながら敵地にいる心地で身をすくめながら」という表現が、関西人が東京へ出てきた際の心情をよく表しており、おもしろい。

 

>・・・・・・朝から銀座を歩き廻って尾張町の交叉点を三四回もあちらへ渡りこちらへ渡りしてから、浜作で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋の前から道玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶えずしんどいとか疲れたとか云いながら附いて来、浜作の座敷では座布団を枕にして足を投げ出したりしていたが、二人の姉がタキシーへ乗る時に、自分は行くことを差控えたい、本家は自分を勘当したことになっているから、 訪ねて行っては姉ちゃんが挨拶に困るであろうし、自分もそんな所へ行きたくない、と云い出した。・・・・867

 

現在の「浜作」(銀座7-7-4)

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「浜作」のサイトでは「東京・銀座「本店浜作」は、大正13年大阪新町にて創業。
昭和3年、銀座でお客様の目の前で調理するカウンター割烹というスタイル<オープンキッチン>を東京に初めて取り入れた関西割烹料理店でございます」とある。

 

 

(訂正) 「"十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた"」というのは、距離的には三吉橋のことを言っているのだろう。三つ橋は少し距離がある」と述べたが、蒟蒻島(霊岸島)、新川からは、「三つ橋」が近いので、この「三つは橋が架かっていた」というのは「三つ橋」(ものしり百科;40頁)を指しているのだろう。

 

 

蒟蒻島(霊岸島)

[CAM] 2015年12月26日 12:00

「蒟蒻島」については、荷風もふれている。

 

 昭和3(1928)年8月31日 「陰雲四散し碧空拭ふが如く烈日燬くが如し。・・・新大橋より乗合の汽船に乗り永代橋に往く、・・・・阿歌と蒟蒻島芸者屋の間を歩み茅場町薬師堂に賽し九段を過ぎて家に帰る。夜既に三更を過ぐ。」

 

「新大橋」は、明治44(1912)年に鉄骨橋に架け替えられた。現在の橋は昭和51(1976)年に竣工(ものしり百科83頁)。 したがって、当然のことながら、荷風が見た新大橋は現在のものではない。

 

「蒟蒻島」  現在の新川地区は、江戸時代には、霊岸島(霊厳島)と呼ばれていた場所で、霊岸橋際請負地は享保年間の埋め立てにより、富島町一・二丁目は弘化2年(1845)島西側の埋め立てによって成立したが、亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。 同地域には岡場所が形成され、所属する私娼は蒟蒻芸者と呼ばれた。

 

「霊巌島碑」 霊巌島の由来碑が昭和52年(1977)3月、霊巌島保存会によって建立されている。(設置場所は中央区新川1-12-1、越前堀児童公園内)

 

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当地区は、今から370-80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が27000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
明暦3年(1657)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には富島町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分かれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。」

 

「茅場町薬師堂」 ものしり百科165頁

 

 

「細雪」のなかの東京(6)

[CAM] 2015年12月25日 20:00

「細雪」からの引用を続ける。

 

>・・・・・・・そしてもう一度尾張町へ出、最後に服部の地下室でまたいくつかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際のニュウグランドへ上ったのは、宿へ帰って食べるよりも時間が省けるからでもあったが、一つには、今夜限りでまたしばらくは会えなくなるであろう雪子のために、彼女の好きな洋食の卓を囲み、生ビールを酌んで当座の別れを惜しもうと思ったからであった。それから大急ぎで宿へ帰り、荷纏めをし、東京駅へ駈けつけて、見送りに来ていた姉と待合室で五分ばかり立ち話をし、午後八時三十分発急行の寝台車へ乗り込んだ。・・・・・(418)

 

>・・・・・・・どこかで三人落ち合って一緒に食べたいから、銀座あたりまで出向いてほしい、と姉は云った。妙子は銀座まで出かけるなら、話に聞いているニュウグランドかローマイヤアへ行きたいと云うので、ローマイヤアと云うことにしたが、あたしも行ったことないねん、数寄屋橋で降りてどう行くのん、と、姉が却って幸子に尋ねる始末であった。(529)

 

 ここで出てくる、「ローマイヤ」、「ニューグランド」については、三島由紀夫も「わが銀座」(昭和31年2月『銀座百点』)において、次のように書いている。

 

>そのころマツダ・ビル楼上のニュー・グランドの部分が、赤、青、緑、黄に変幻して、サーチライトの光芒をひろびろと投げかけてゐた。

 私は父母につれられて、そのニュー・グランドや、ローマイヤ・レストランへ行くとき、子供らしい虚栄心を満足させられた。・・・・・・(評論全集2-251)

 

 この「ニュー・グランド」とは、横浜のホテルニューグランドが、1934(昭和9)年に数寄屋橋のマツダビル8階に「レストラン・ニューグランド東京」を開店したものである。スイス人の総料理長が、横浜店と掛け持ちで面倒を見ていたようで、かなり本格的なフランス料理店であったという。

 

 この「マツダビル」(銀座TSビル、東芝ビル)については、下記のサイトの説明を下記に引用しておく。

 

228-01[1].jpghttp://bb-building.net/tokyo/deta/228.html

銀座数寄屋橋交差点角に立つオフィス・商業の複合ビルで低層階はモザイク銀座阪急(旧・数寄屋橋阪急)が入居していた。

かつては「マツダビルディング」と呼ばれたオフィスビルで、東芝の前身の1社である東京電気が本社を構えていた。 なお"マツダ"とは東京電気が白熱電球のマツダランプをライセンス生産したことに由来しており、自動車メーカーのマツダとの関連はない。 1939年に芝浦製作所と合併し、東京芝浦電気になった後も"マツダ"と印字した標章は使用され続けていた。

1956年、低層階に数寄屋橋阪急が開業。1966年に新橋側に増築。外装もリニューアルして「銀座東芝ビル」に改称した。 2007年に東急不動産が1610億円でビルを取得し、新たな商業ビル「東急プラザ銀座」へと建て替えた。

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「東急プラザ銀座」は、2016年3月31日(木)に開業の予定。「Creative Japan~世界は、ここから、おもしろくなる。~」がコンセプトで、銀座エリア最大級となる地下2階~地上11階の商業施設となる。

 

 

「ローマイヤ」レストランは、既に紹介したように、現在は日本橋で「銀座ローマイヤレストラン日本橋店」という名称で営業を行っているようで、そのサイトを見ると「大正14年。銀座で一番初めに本格的なドイツ料理店を始めたレストランローマイヤ。日本で最初にロースハムを作ったことで知られる創業者アウグスト・ローマイヤが提供する本物の味と心温まるおもてなしは、長い間銀座の名店として多くの人々に愛され続けてきました。その名は、昭和23年に発表された谷崎潤一郎の代表「細雪」にも登場しています」とある。