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江戸城石垣運搬用舟入堀ブログ(2019.06.04)の誤り訂正

2019年6月4日に「百人持ちの石垣運搬用舟入堀」というタイトルのブログをアップしました。テレビ局が舟入堀を特集するプログラムを放映するに当たり、このブログを参考にしようと観光協会に問い合わせがありました。添付の浮世絵の出所を聞かれましたが、当時回答できませんでした。出所が明確ではない資料を使って放映する訳にはいかないということで、ボツ(採用は)ということになりました。絵の出所不明が最大の理由でしたが、その後紹介した絵の説明に誤りがあることも判りましたので今回のブログでお詫びと訂正をさせていただきます。

① 誤り: ブログに掲載していた浮世絵が江戸前島の11本の舟入堀のどこかで巨石を曳く様子だと私は断定して提示しました。これが正しいとすれば海に船が浮かんでいる部分は埋め立てた「楓川」となる前の江戸湾ということになります。右端には三角錐形状の島が見えていますが、日本橋~京橋の舟入掘付近からこのような島が見えるはずはありません。「江戸前島の舟入堀ではなく、伊豆地域のどこかの浜辺」と考えるべきで早とちりでした。

この浮世絵はオリジナルの絵があってその一部であることが判りました。オリジナルの絵は以下の通りです。

資料「東伊豆町の築城石」からの推論

資料「東伊豆町の築城石」からの推論 江戸城石垣運搬用舟入堀ブログ(2019.06.04)の誤り訂正

この絵は、資料「東伊豆町の築城石」(東伊豆町教育委員会 1996年発行)に掲載されていることを発見しました。上記教育委員会に問い合わせ、「尾形禮正」氏という浮世絵作家が昭和50年(1975年)に制作したものであることが判りました。尾形禮正氏は、尾形琳派の流れを組む画家ですが、オリジナルの絵は現時点では所在不明だそうです。

絵の左上部の【旗印「大一大萬大吉」】

沖の船の左側の旗には「大一大萬大吉」(だいいち だいまん だいきち)と書かれていますが、この旗は1184年木曽義仲を打ち取った石田為久(褒賞として愛甲石田北側付近に加増された)という武将が使ったものとされています。「一人が万民のために、万民が一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味で、封建時代にも拘わらず進歩的な表現には驚きです。この旗は石田三成だけでなく備後山内(山内首藤)も使っていたと言われます。

『山内氏時代史稿』の慶長11年(1606年)の項を見てみると、江戸城の石垣普請のために家老「深尾和泉」らを伊豆半島稲取まで派遣し、「伊豆石」を採取させて江戸城迄運送しています。高知城築城総奉行「百々越前守」を江戸城に派遣し、北川豊後配下の穴太衆(あのうしゅう)も多数参加し築城にも参加したことでしょう。

このような状況証拠から、石曳をしているのは土佐藩であり場所は稲取と推測されます。これで沖の島もうなづけます。

【絵が左右反転】

私が2019年にブログで採用した絵と、資料「東伊豆町の築城石」に掲載されている絵を比較すると、左右反転しています。この理由は判りません。

家と家の観衆はカラーの絵には載っていません。このような疑問を解決するにはオリジナルを参照すべきですが、東伊豆町教委貴委員会にオリジナルの絵はありません。教育委員会に調査を依頼していますので、その結果が出てくればその謎も解決されるのではないかと思います。

【モノクロとカラー】

東伊豆町教委貴委員会が制作した資料の絵はモノクロですが、これは予算の関係でカラー化できなかっただけでオリジナルがモノクロであったという事ではないようです。琳派の流れを組む画家制作の絵ですから、当然カラーであったと推測されます。

神奈川県立博物館所蔵の「石曳図」

神奈川県立博物館所蔵の「石曳図」 江戸城石垣運搬用舟入堀ブログ(2019.06.04)の誤り訂正

尾形禮正氏の絵の他に、石曳図として神奈川県立博物館所蔵の「石曳図絵巻」と箱根町の「紙本着色石曳図屏風」の2種類を見ることができます。詳細は現時点では不明です。

今後ブログ作成の際には、一層慎重に考察した間違いない結果を提供したいと思います。誤った情報提供申し訳ありませんでした。

参考文献:

① 東伊豆町の「築城石」 東伊豆町教育委員会

② 江戸城石材提供地について 鈴木茂著 サガミヤ選書18 平成26年12月(2014年)