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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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ギンザコマツ「天空神社」をご存知ですか?

[滅紫] 2017年9月20日 09:00

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銀座三越屋上の「銀座出世地蔵尊」を始めとして銀座のデパートやビルの屋上には神社がたくさんあります。今回ご紹介する「天空神社」はギンザコマツビル西館7階の屋上にあります。2012年のリニューアル時に屋上庭園とともに作られたものだそうです。私は知人から聞くまで全く知りませんでした。ご案内によると「三輪山をご神体とする奈良の大神(おおみわ)神社の原型を再現して鳥居の奥にある磐座(いわくら)に大物主大神をお迎えしている」そうです。手水鉢は京都の太閤石で作られているとのこと。11時から20時まで公開されていて7階にあるカフェの横の階段から入れます。余り知られていないらしく屋上全部ひとり占めのような贅沢で清々しい気分になれる場所です。この三輪明神はまさに「天空神社」です。

 

ギンザコマツビル  銀座6-9-5 

すずらん通りのコムギャルソンの入っているギンザコマツビル西館の7階から屋上へ。

自由に入れます。

 

 

雙葉学園発祥の地と関東学院の源流東京中学院発祥の地

[みのり] 2017年9月19日 18:00

こんにちは、みのりです

今回は雙葉学園発祥の地と関東学院の源流東京中学院発祥の地に行ってきました。

 

明石小学校のそばの道路、佃大橋西交差点の歩道に記念碑がありました。

その近くに東京中学院発祥の地の石碑があります。

 

夏の道路の照り返しがとても暑い日でした。

 

●雙葉学園発祥の地

明治8年(1875)、横浜でキリスト教の布教と教育慈善活動を行っていたサンモール修道会の宣教師が開校した「築地語学校」が雙葉学園の全身。明治42年(1909)、千代田区六番町に移転しました。道路側にあるハートのような一対の石碑は、なんだか見ているとホッとするような感じです。

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●関東学院の源流 東京中学院発祥の地

雙葉学園発祥の地の石碑から近くに、東京中学院発祥の地の石碑があります。

関東学院は明治28年(1895)9月10日に九築地居留地42-43(現在の中央区明石町)で、米国バプテスト伝道協会が東京中学院を設立したのがはじまりです。

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雙葉学園発祥の地の石碑から東京中学院発祥の地の石碑を通り明石小学校へ道を通ると、聖路加看護大学と聖路加国際病院へ出て、向かい側の聖路加ガーデンで休憩もできます。

さらに聖路加国際病院前の信号機を、前方築地7丁目方面に向かって出ると、あかつき公園に出られます。

 

明石町は、播磨国(現在の兵庫県)明石にある「明石の浦」に風景が似ていたことで地名の由来になったとも言われています。

 

<参照>

「雙葉学園発祥の地」石碑

「関東学院の源流 東京中学院発祥の地」石碑

「歩いてわかる中央区ものしり百科」監修 中央区観光検定委員会

「中央区エリア別ガイドマップ 築地」中央区観光協会発行(2014年9月)

 

 

コラージュの作品展〔メグミオギタギャラリー〕

[ジミニー☆クリケット] 2017年9月19日 14:00

銀座2丁目にあるメグミオギタギャラリーで、サイトウ•P•ヒロヒサ氏の作品展「Pの眼 4」が開催されています

」とは、4回目の展覧会という意味です

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メグミオギタギャラリーでは、同じ期間で、ジェイソン・フリーニー氏の個展「プラスチック サージオン」も開催中で、このコラージュの作品展は、同ギャラリー内のプロジェクトルームでの開催です

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開催期間は、9月15日)から10月5日)までです。

開廊時間は、11時から19時までです。祝日はお休みです。

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サイトウ氏は、数々のヒットCM作品を生み出した、日本を代表するCFプロデューサーだそうで、あのペプシマンも、サイトウ氏によって生み出されたものだそうです

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展示されているのは、サイトウ氏が取りためておられた雑誌や新聞の切り抜きでコラージュされた作品で、それらが特別にパッケージングされて壁に掛けられていました

それが、あたかも商店の陳列のようで新鮮です

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一つ一つの作品に、作者のテーマが感じられるような気がしました

作品から共通して感じられることは、レトロ感とかノスタルジックな感じでしょうか

うまくお伝えできませんが、私は「なつかしさのある気持ちのよいゴチャゴチャ感」を感じました

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会場のテーブルの上には、これもコラージュされた日記)のような作品やアルバムのような作品が置かれていました

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今回のギャラリーでの写真撮影についてもご了解をいただき、取材にもご協力いただきました

ありがとうございます

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メグミオギタギャラリーのHPはこちら ⇒

http://www.megumiogita.com/

 

 

路傍の彼岸花

[TAKK...] 2017年9月19日 12:00

浜離宮恩賜庭園など彼岸花がみられる庭園もありますが、道端でもけなげに咲いています。

 

【中央小学校付近】

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【南高橋付近の白い彼岸花】

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【新川】 

 赤と黄金色の彼岸花

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 白い彼岸花

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谷崎『幼少時代』を歩く (2)

[CAM] 2017年9月19日 09:00

「鎧橋」の掲示板には、谷崎潤一郎の『幼少時代』が引用されている。この引用された部分の前後には、周辺の風景がよく描写されている。

 

 鎧橋は、明治5年(1872)に架橋。明治21年(1888)には鉄骨製のトラス橋に架け替えられ、大正から昭和にかけて橋の上を市電が走ったこともある。昭和32年(1957)に現在のものに架け替えられた(『ものしり百科』;26)。 『幼少時代』は、昭和30年(1955)4月から翌年3月まで、雑誌「文藝春秋」に連載されたものであるから、「鎧橋は老朽して取り払われてしまったという」と述べられているのは、この架け替えの前のことであろう。

 谷崎家は、短期間、浜町へ移った後、南茅場町へ移転した。

 
『幼少時代』が引用されている鎧橋説明版

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 浜町の家には私はほんの数ヶ月いただけで、明治二十四年の秋までの間に、南茅場町の四十五番地に引き移ったらしい。・・・・・

・・・・「鎧橋は昔は鎧の渡しといって、あすこには橋はなかったものだ」と、子供の時分に聞かされたことがあったが、今は下流に茅場橋という橋が出来、鎧橋は老朽して取り払われてしまったというから、再び私の生れなかった昔に復った訳である。

 

 小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町といい、それに並行した次の通りを裏茅場町といっていた。・・・・・・・

 

 茅場町へ来てからも、母やばあやに連れられて毎日のように本家へ遊びに行くことに変わりはなかった。距離は浜町の時とほぼ同じぐらいで、五、六丁ほどであったろう。裏茅場町から勝見の横丁を表茅場町へ出、鎧橋を渡って小網町の方へ左折し、また直ぐ右折して米屋町を通り抜けて行く。私やばあやの脚でも十五分程度の路であったし、電車も自動車もない時代であったけれども、鎧橋を越える時は広い往来を向う側の人道の方へ渡らなければならないので、人力車に轢かれないようにと、ばあやは一生懸命に私に注意した。その時分の橋は路面より一段高く、勾配が附いていたので、橋から駈け下りて来る人力車は惰性で急停車することが出来ず、案外危ないことがあった。鎧橋は、その頃市中にそう多くはない鉄橋の一つで、まだ新大橋や永代橋などは古い木橋のままであったように思う。私は往き復りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺めるのが常であったが、鉄の欄干に顔を押しつけて橋の下に現われて来る水の面を視詰めていると、水が流れて行くのでなく、橋が動いていくように見えた。私はまた、茅場町の方から渡って、上流の兜町の岸にある渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持で飽かず見入ったものであった。今はあすこに日証ビルディングが建っているが、もとはあの川の縁の出っ鼻に、ぴったりと石崖に接して、ヴェニス風の廊や柱のあるゴシック式の殿堂が水に臨んで建っていた。明治中期の東京のまん中に、ああいう異国の古典趣味の邸宅を築いたのは誰の思いつきだったのであろうか。対岸の小網町河岸には土蔵の白壁が幾棟となく並んでい、あの出っ鼻をちょっと曲れば直ぐ江戸橋や日本橋であるのに、あの一廓だけが石板刷の西洋風景画のように日本離れのした空気をただよわしていた。だがそれでいて、周囲の水だの街だのと必ずしも不釣合ではなく、前の流れを往き来する荷足船や伝馬船や達磨船などが、ゴンドラと同じように調和していたのは妙であった。(「南茅場町の最初の家」;73)

 
 We lived at the house in Hama-cho for only a few months, moving to No.45, Minami Kayaba-cho, sometime before the autumn of 1891. ・・・・・・

I remember being told as a child that there had been a ferry-crossing where Yoroibashi bridge then was; now the bridge is gone again, torn down because of dilapidation and replaced with the new Kayababashi bridge further downstream. Thus in a sense we have come full circle, back to what things were like in the old days, before I was born.

 Coming from the direction of Koami-cho, at the point where the old Yoroibashi bridge crossed the river, you saw the Kabuto-cho stock exchange on the right. The first road to the left was called Kayaba-cho 'Front Street', while the next, paralleled to it, was 'Back Street'. ・・・・・

 Even after the move to Minami Kayaba-cho, I still went almost daily to visit the main house with Mother and Granny. The distance was no more than it had been when we were in Hama-cho ―some five or six blocks. We passed from 'Back' to 'Front' Kayaba-cho vis the Katsumi side street; crossed Yoroibashi bridge and turned left toward Koami-cho; then turned right and passed thorough the rice dealers' district. It took only fifteen

minutes, even for Granny and me. There were as yet no streetcars or automobiles about, but Granny always warned me to be careful not to be hit by a rickshaw as I crossed the wide road beyond Yoroibashi bridge to get to the pavement on the other side.

The bridge was at that time raised somewhat higher than the surface of the road, and sloped down to meet it; and the rikishaws that sped down the slope often found it impossible to make sudden stops, so it could be quite dangerous. Yoroibashi was one of the not-so-numerous steel bridges then in Tokyo, while Shin Ohashi and Eitaibashi bridges were still made of wood. I used to stand in the middle of it and watch the flow of the Nihombashi River. As I pressed my face against the iron railings and gazed down at the surface of the water, it seemed as if it were the bridge and not the river that was moving.

Crossing the bridge from Kayaba-cho, one could see the fantastic Shibusawa mansion rising like a fairly-tale palace on the banks of Kabutocho, further upstream. There, where the Nissho Building now stands, the Gothic-style mansion with its Venetian galleries and pillars stood facing the river, its walls rising from the stony cliff of the small promontory on which it had been built. Whose idea was it, I wonder, to construct such an exotically traditional Western-style residence right in the middle of late nineteenth-century Tokyo? I never tired of gazing at its romantic outlines with a kind of rapture. Across the river on the Koami-cho embankment were lined the white walls of innumerable storehouses. Though the Edobashi and Nihombashi bridges stood just beyond the promontory, this little section of Sitamachi had a foreign air, like some scenic lithograph of Europe. Yet it did not clash with the river and surrounding buildings-in fact, the various old-fashioned barges and lighters that moved up and down the stream past the 'palace' were strangely in harmony with it, like gondolas moving on a Venetian canal・・・        (54)

 
鎧の渡し跡の説明版、渡し場は明治5年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続した。(『ものしり百科』;25)

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鎧橋上から茅場橋を臨む。この橋の南詰のあたりは、昔は茅場河岸と称し、茅を切って積む置き場であった。今日の茅場町の由来と同じく、橋名もこれに由来する。現在の橋は、旧橋の老朽化により平成4年(1992)に架け替えられたもの(『ものしり百科』;25)。

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日本橋小網町から鎧橋越しに証券取引所を臨む

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手前が日証館ビル、その先の樹木は兜神社、その先の高層ビルは日本橋ダイヤビルディング

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「リサ・ラーソン展」が始まっていますー松屋銀座

[滅紫] 2017年9月18日 14:00

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「北欧を愛するすべての人へ」と題した「リサ・ラーソン展が13日から始まっています。

リサ・ラーソンは入場者入り口のパネルにある「ネコのミア」を始めとする犬などの動物シリーズ、ABCドーラなどの少女シリーズなどで知られるスウェーデンを代表する陶芸デザイナーです。「生まれ変わったら日本人になって日本で陶芸家になりたい」というほどの日本びいきだからでしょうか、どの作品も日本人好み。素朴で温かく、どこかトボケた、ちょっと情けない表情の動物たち、MEN、STRONG WOMENと題された人のシリーズも、何と当時のスウェーデンの財務大臣が現金出納帳を持って「貯金箱」になって登場したりします。顔の表情や身体とのバランス表現はどこかで見た、そう舟越桂や有元利夫の作品にも似ています。190点の作品が会場に一杯で見ている方たちの表情も楽しそうです。グッズコーナーもとても充実していて私は2日目に行ったのですが、グッズだけ日をあらためようと思うほどの人気です。可愛らしくてほのぼのした作品に会いにお出かけください。

「リサ・ラーソン展」25日まで  松屋銀座8階イベントスクエア 10時―20時

入場料一般1000円

 

 
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