滅紫

写楽・歌麿の仕掛け人「蔦重」生誕270年

「蔦重」こと蔦屋重三郎は寛延3年(1750)新吉原で生まれました。今年が生誕270年となります。

蔦重といえばひと頃まで「謎の浮世絵師」と呼ばれていた写楽や美人画の代表・歌麿を売り出した名プロデューサーとして知られ、吉原の貸本屋から一代で大手版元にのし上がった江戸時代を代表する出版人です。蔦重の「耕書堂」のあった場所に「蔦屋重三郎『耕書堂』跡」の中央区の説明板が立っています。

 

 写楽・歌麿の仕掛け人「蔦重」生誕270年

蔦重といえば、寛政の改革の出版統制により、身上半減の重過料(財産半分没収)となったことから「体制に批判的な先進的文化人」というイメージが強いのですが、「吉原出自の宣伝巧者、堅い商売に専心し出版を組み込んで遊ぶ戯作文芸の仕掛けを利用して失敗知らずの本作りを企んだ商人」と蔦屋重三郎研究で有名な中央大学の鈴木俊幸教授が評しています。

天明3年には吉原の遊女ガイド「吉原細見」の発行を独占、寺子屋の教科書である「往来物」も手がけて手堅く経営基盤を築き、一方で当代の文化人、大田南畝・朋誠堂喜三二・恋川春町との交流を通じて狂歌集や黄表紙など流行ものの出版をする。「東海道中膝栗毛」で後に有名になる十返舎一九、歌麿は一時期蔦重の食客、滝沢馬琴は番頭を務めていたそうです。そして何と言っても凄い!と感じさせられるのは寛政の改革で痛い目にあった3年後の寛政6年(1784)写楽を売り出したことです。現在の研究では写楽は阿波候の能楽師の斎藤十郎兵衛であることが明らかになっていますが、この「写楽プロジェクト」は起死回生の耕書堂あげての大仕事、「無名の絵師を探し出し成功に導くのは現代の制作プロダクションと同じだ」と作家の高橋克彦氏も書いています。

その蔦重も寛政9年に不帰の人となりました。狂歌仲間の石川雅望(狂歌師名 宿屋飯盛)が撰した蔦重の墓碑銘には「其の巧思妙算、他人の能く及ぶところにあらざる也。ついに大賈(たいこ、大きな商店)と為る」商人にとっては最高の褒め言葉です。

参考資料

「蔦屋重三郎」鈴木俊幸 平凡社、「蔦屋重三郎の仕事」別冊太陽 平凡社、「江戸の本屋さん」今田洋三 平凡社

 写楽・歌麿の仕掛け人「蔦重」生誕270年

「耕書堂跡」日本橋大伝馬町13-8先( 大伝馬町本町通り)

 写楽・歌麿の仕掛け人「蔦重」生誕270年