Hanes

お菓子で振り返る約130年!
森永製菓の初期を支えた和菓子屋とは


こんにちは。アクティブ特派員のHanes(ハネス)です。
連休中に新しい時代「令和」になりましたが、私を含めまだピンとこない方もいらっしゃるのではないかと思います。
そのような時代語るうえで欠かせないのが、時代を代表するブームや流行!
流行語やファッション等様々な指標がありますが、お菓子(スイーツ)ももれなくその一つです^^

平成に流行ったお菓子(スイーツ)と言えば、ティラミス、タピオカ、ナタデココ、パンケーキ、マカロン、コンビニスイーツ、チョコミント等々、数えきれない程挙げられます
令和最初のスイーツブームは何になるのか気になるところですが、まだ改元間もない今だからこそ、この約130年のお菓子の歴史を振り返ってみませんか?

明治24年創業 御菓子司「入船青柳」

中央区内には老舗の和菓子屋さんや百貨店内に入っている有名な和菓子屋さんが多くあります。
今回お菓子の歴史を振り返るきっかけとなったのは、前々から気になっていた和菓子屋さんで柏餅を購入したことに始まります。
そのお店は、明治24年創業で入船に店舗を構える入船青柳さんです。
今はなき新橋の青柳本店さんよりのれん分けをし、今では地元の方に愛されているお店です。

 お菓子で振り返る約130年!森永製菓の初期を支えた和菓子屋とは


歴史的に興味深いエピソードのあるロールケーキや季節のお菓子等、店内には和菓子が所狭しと並んでいます。
訪問時の季節のお菓子は柏餅(あん、みそあん)で、いただいた柏餅(みそあん)は、手作りならではのもちもちした厚みのある生地と甘さ控えめなみそあんが印象的でした。

 お菓子で振り返る約130年!森永製菓の初期を支えた和菓子屋とは


そして、数ある商品の中で、看板とも言えるのが「菊最中」
明治24年、初代山口浅吉により「南八丁堀仲の橋青柳」として開業された当時から販売されているこちらの最中は、日清・日露戦争時代は「勝利最中」として売られています。
明治時代から続く大納言入りの素朴な最中は、名前を変えて今でも健在です。

 お菓子で振り返る約130年!森永製菓の初期を支えた和菓子屋とは

森永のキャラメルを販売しているワケ

数々の和菓子が陳列される中、どうしても気になるものがありました。
それが森永のミルクキャラメルあずきキャラメルです。
こちらも歴史のあるお菓子ではありますが、なぜ和菓子屋さんにあるのか不思議に思いませんか?
実はこれには、偶然のようで偶然ではないエピソードがありました。

それは、10年前にテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」で紹介されたことがあるのでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、この入船青柳さんこそ森永製菓さんのお菓子(マシュマロ)を初めて店頭で販売したお店なのです!
「和菓子屋さんなのになぜ?」、「初めてマシュマロを販売したことが特別なのはなぜ?」...そういった疑問をこれより一つずつ解消していきましょう

 お菓子で振り返る約130年!森永製菓の初期を支えた和菓子屋とは


森永製菓株式会社の創業者森永太一郎氏がアメリカ修業から戻り、お菓子工場を開業する1899年頃。
周りからは、仕事があまり思うように運んでいないようなので、他の製菓店で働いてはどうか、アメリカに帰ってはどうか等と忠告や奨めがありました。
しかし、それらは太一郎がアメリカへ行った目的に反するため、「私は我が信ずる處に向かって邁進するのだ」と断りました。
そんな中、販路開拓のため市内で一流の菓子屋を片っ端から訪ねてみても、ただの一軒からも注文が取れないばかりか、相手にさえしてもらえないという厳しい現実に直面...

ある時、愛宕下の田村町で目に入った富永というボール箱を製造する家でアメリカ風のボール箱を注文した際に、自分の菓子を見せると言ったところ、富永は「中の橋の青柳さんを昔から知って居りますから私が御案内しませう」と言いました。
彼の案内で青柳を訪ねてみると、主人である山口浅吉氏の夫人ワカはかつて鍋島侯爵家に御殿勤めをしていたことがあり、太一郎が佐賀県出身であることから話に花が咲きました。

同郷に対する同情から、「餘り賣れる望みはないと思ふけれども、十五圓だけ屆けて見て下さい、賣れなかったら家で食べるなり、又は他人に呉れてもよいから......」と太一郎の作ったお菓子(マシュマロ)を注文をしてくださったそうです。
販路の糸口が見えるまで2ヶ月を費やしたものの、これがそもそも日本で初めての注文であり、この時の嬉しさは言葉にできない程だったと太一郎は記しています。

 お菓子で振り返る約130年!森永製菓の初期を支えた和菓子屋とは

(店内には、創業当時の店舗の写真等が展示されています。)


その後、この青柳の主人らの紹介により、新橋金町の青柳本店、芝久保町通りの青柳支店等、青柳一家が最初の得意先となり、徐々にその他でも注文や得意先を増やしていきました。
1900年には報知新聞に広告を掲載し、エンゼルマークの使用を開始!
広告には、マシマロー、バナナ、チヨコレートクリーム、フレンチメキスト、バタカツプ、キヤラメルといった西洋菓子の文字が見られ、「戦地又は傷病兵士見舞用の適品なり」、「マシマロー鑵入は遞送に最便利なり」、「夏期進物に適し腐敗の憂なし」等といった宣伝文句と、特約店名入りの広告でますます認知されるようになりました。
菓子の自由販売が再開した1950年に銀座に設置された地球儀ネオンも、工夫された広告の一つです。

余談ですが、太一郎が初めて見本として作った菓子で、日本人の口に合ったのはマシュマロでした。
現代日本人は特に違和感なく口にするキャラメルですが、当時はミルクとバターのにおいが原因で日本人の口には合わず、もっぱら在留西洋人等向けに、注文を取り少しずつ作るだけだったようです。
参考文献の『森永五十五年史』には、「現今ではミルクとバターが多く使用された菓子でなければ一般に好まれないやうになった。眞に時勢の變遷は我等の意想外である」と記されています。
ここからは、半世紀で随分と洋菓子が浸透し、受け入れられるようになったことが分かります。

さらに50年以上たった今、日々新たなお菓子が生み出されています。
戦後ますます日本人間に浸透してきた森永製菓のお菓子は、今では食べたことのない人はいない程有名になりました。
その会社の初期を支えたのは、紛れもなく入船青柳さんの初代主人および夫人の力添えです。
そのような縁もあり、今回ご紹介したお店では、森永の商品のお取り扱いもあるとのことです^^
思いがけないところにお菓子の発展史の肝となる一場面を垣間見ることができ、改めて中央区は面白いと思いました!

【参考文献】
森永製菓株式會社『森永五十五年史』(1954年)
森永製菓株式会社ウェブサイト https://www.morinaga.co.jp/(2019年5月5日閲覧)

ご紹介店舗情報

入船青柳
住所:東京都中央区入船1丁目2番8-104
電話番号:03-3551-0146

※入船青柳さんよりご紹介許可をいただいております。