すっとこどっこい

佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

すっとこどっこいは今年2回、中央エフエムのラジオに出演しました。各々の担当者と打ち合わせの時、佃の渡し船に乗った記憶があると言ったらとても興味を持たれたようでした。と言ってもすっとこどっこいは東京タワーと同い年。幼稚園の時に佃大橋が完成し、江戸時代から昭和にかけて約320年の佃の渡しの歴史が終りました。自信を持って語れるほどの明確な記憶はありません。本番では自ら進んで話をすることはしませんでした。でも考えてみたら佃の渡し船に乗ったことや勝どき橋が開いているところを見たことなどは語り継ぐものなんだと思います。

写真の佃島渡船場跡中央区湊三丁目佃大橋の麓にひっそりと建っています。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

本能寺の変の時、堺にいて明智勢から逃げるのに窮した徳川家康一行を摂津佃村の漁民が助けます。江戸に幕府を開いた家康は彼らに恩を感じ江戸に招き砂洲を与えました。彼らは洲を埋め立て造成して整備し、住吉神社を祀り、佃島が出来ます。漁業権を与えられますが最初から今の隅田川の漁業権も持っていたかどうかは諸説あります。佃島の人々が将軍に白魚(白キス)献上のための足として佃島完成と言われる1644年の翌年には舟を出し始めます。江戸の街は水路が沢山ありましたが、佃島対岸の鉄砲洲川が隅田川に合流する地点に向けて舟を出していたと考えるのが主流のようです。その合流地点が現在の湊町第一児童遊園の所です。

献上する以外の魚が残るので対岸で板にのせて販売を始めたのが魚河岸の始めです。また採った魚の保存の方法の一つとして砂糖や醤油で煮こんだ物が佃煮です。参勤交代の折、地元へ戻る大名一行のお土産で大評判になります。佃煮を求める人や住吉神社への参拝や神社に咲く藤の花の見学者なども増え、不定期の運行ですが佃の渡しが始まります。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

江戸の街も整備されて渡し場の場所も現在の佃島渡船場跡のある船松町(湊三丁目)に移ります。舟の運行は島民の運営で不定期運行でした。明治になって大倉組が経営することになり定期運航になります。渡し賃は一人五厘だったそうです。大正末に運営が東京市に変わり昭和2年に渡船場の設備が出来ます。無料での汽船による曳航渡船が始まりました。その時に佃島渡船の石碑がに作られました。手漕ぎ船を廃止した記念だと説明版にあります。上記写真は湊側の佃島渡船場跡の説明板にある写真です。昭和28年頃と書いてあります。蒸気船が先導しほぼ平な船を引っ張る形の渡し舟です。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

この写真は佃側の佃島渡船場跡の説明板にある写真です。昭和30年代とあります。すっとこどっこいの乗った記憶は昭和30年代の後半のことです。一緒にリヤカーや自転車が乗っていたと思います。写真で見ると屋根があったのだと分かりますが記憶はありません。岩波書店の本 ”佃に渡しがあった” で尾崎一郎氏の写真集を本の森ちゅうおうで見ました。先頭の蒸気船には船長と機関士が乗り、後ろの客船には船員が2名乗ると書いてありました。この頃は15分間隔で一日70往復する時もありました。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

佃側の石碑の写真です。ここが乗船場でした。渡船事務所と待合所にもなっていたそうです。冬にはストーブを点けて暖をとることが出来たと ”佃に渡しがあった” に書いてありました。すっとこどっこいには待合所の記憶はありません。

真ん前には佃煮屋さんが並びます。

すっとこどっこいの記憶のひとつは佃側から祖母と乗船し湊へ向かったことです。祖母はあまり佃方面に行くことは少なかったので、住吉神社のお祭りに連れて行ってくれたのか、祖父の大好物だった佃源田中屋の佃煮を求めての帰りだったかもしれません。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

10月のとある早朝に佃大橋の上から側を写しました。佃大橋自体は576.3mありますが、現在の隅田川の川幅は約220mです。何分ぐらい乗っていたのでしょうか。強風の日は休みだったのでしょうか。すっとこどっこいは対岸の幼稚園児でした。台風が近づいた日は佃島から通っていた園児が休みました。何で休んだの?と聞くと船が出てないからと聞いた記憶があります。大回りすれば勝どき橋で来られるけど雨の中送っては来ないですよね。

もう一つ覚えているのは祖母と姉と乗船しへと着いて降りる時、姉が下駄を川に落としたことです。船員さんが拾ってくれました。下駄ばきなので夏だと思います。8月に廃止されるので記念に乗ったのかと思います。ついた場所は石碑のある湊3丁目よりもっとずっと上流だった気がしていました。佃大橋の架橋中は臨時の乗降場に移動していたと書かれたものを見ました。たぶん今の湊町第一児童遊園辺りだったかと思います。

写真を撮ったこの日は実にいい天気で、サギが横切って飛んでいました。この日は偶然、祖母が113年前に産れた日でした。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

1964(昭和39)年に佃大橋が完成します。8月27日が佃の渡しの最後の営業の日になりました。最後には船に神主も乗り込み閉納式が行われます。佃大橋には船を見送る大観衆が詰めかけたそうです。

佃大橋は隅田川に架かる橋の中でとても地味な存在です。勝どき橋中央大橋永代橋清州橋は夜には輝きます。佃大橋はライトアップされません。多少なりとも注目されたのは東京マラソンの終盤で最後の登り坂と言われることでした。すっとこどっこいは佃大橋の手前で東京マラソンの応援をしていました。マスコミも集まる場所でした。2017年からはゴールが変わりコースは変更されランナーは佃大橋を通らなくなりました。

2020東京オリンピックを契機にライトアップされました。オリンピック期間中は佃大橋のライトアップは赤や青など五色の光でした。水の光が反射してとても綺麗でした。現在は緑に輝いています。

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

TRY!舟旅通勤 と銘打って日本橋・豊洲間で定期舟が運行され始めています。

https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2023/10/06/21.html

日本橋からの便は橋の麓、滝の広場から乗船し、日本橋川から晴海運河へ入り現在工事中の旧貨物線の橋を越えて豊洲ララポートに着きます。乗船時間20分程、料金は片道500円、しばらくは火・水・木の夕方のみの運行です。(第2水曜は休み)事前予約が必要です。

2024年には晴海・日の出ルートも開業予定です。

 

 佃の渡し舟~日本橋豊洲舟旅通勤

10月25日から開始されました。この写真を撮ったのは営業2日め、16時豊洲発の便が日本橋に着き16時25分折り返しで最初に日本橋を出る便です。船は2種類あり写真のリムジンボートと一回り大きいアーバンランチです。自転車と車イスはアーバンランチのみ乗せられます。船は水位の高さによって変更の場合があるので注意が必要です。乗船は要予約ですが、昨日は船が変更になり予約を取っていたのに乗れないことがあったそうです。リムジンボートはとても小回りが利きそうでスピードも出そうに思いました。

 

佃の渡し船が廃止され隅田川の渡し船が全て無くなってから約60年。

 新しい形の船旅です。