すっとこどっこい

紀伊国屋文左衛門

昨年の10月7日から本の森ちゅうおうの郷土資料館で大八丁堀展が行われました。

埋め立てられた当初にお寺の多い寺町であった頃、寺が引越しを命じられた跡地に町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置された時代、すずらん通りを中心に映画館や芝居小屋、ダンスホールや寄席が並んでいた時代の歴史がわかります。

遺構調査によって発掘された八丁堀に残されていた物の展示や住んでいた方々の想い出の写真も数多く並べられていました。

パネルにて八丁堀にゆかりのある人々が紹介されていました。伊能忠敬東洲斎写楽(斎藤十郎兵衛)、榎本其角などに混じって紀伊国屋文左衛門のパネルがありました。

 紀伊国屋文左衛門

紀伊国屋文左衛門 は実在した人物と思われますが詳しい人物像は不明なことが多いようです。

寛文9(1669)年の生まれとの説がありますが確証はありません。没年が享保19(1973)年で66歳と言われているので推察されています。出生地は紀州の国、湯浅と言われます。

20代のある年、紀州地方でみかんが豊作の時がありました。ただその年は嵐で江戸への航路が閉ざされてしまい、余ったみかんは上方の商人に買い叩かれ値段が暴落します。逆にみかんが欲しいのに不足している江戸ではみかんの価格は高騰しました。ここで安いみかんを仕入れて高く買う江戸へ運べば儲かると文左衛門は考えます。誰しも考え付くことは出来るかもしれませんが行動に移せる人が成功する人なのでしょう。舅から大金を借りてみかんを大量に仕入れ、ぼろぼろの船を急いで直し、船員を集めます。命がけの仕事とわかっているので集まって来たのは荒れくれ者ばかりでした。周りが止めるのも聞かずに3倍の給金で彼らを船員とし、また覚悟を示すために白装束を着させ頭には三角布を被せて船員に決死の思いを固めさせて出航します。江戸では鍛冶屋や刀工、鋳物師などふいごを使って火を扱う職人が普段使う仕事道具を労い、ふいごを清めて注連飾りをしてみかんなどをお供えするふいご祭りが行われます。ふいごとは空気を送り出す道具で ”もののけ姫” では逞しい女性たちがたたらを踏みふいごで空気を送り出す場面が出て来ます。文左衛門たちは何度も危険なめに会いながら嵐を乗り越えて江戸に到着し、みかんをふいご祭りに間に合わせ、大人気となりました。みかんだけでプレミアがついた価格で2千両程、今の価値で2億以上とも言われます。

江戸滞在中に大坂で大洪水があり疫病が流行っていると知った文左衛門は、江戸中の塩鮭を買い求め、伝染病には塩鮭を食べると良いと噂を流させて、今度は大坂へ運びました。まさしく飛ぶように売れて文左衛門は大儲けをしました。その金を元手とし江戸の本八丁堀に材木屋を開業します。現在の八丁堀3丁目(上記写真)だとされています。

 紀伊国屋文左衛門

文左衛門はいろいろな伝説が残されています。

例えば明暦の大火いわゆる振袖火事の時、材木を買い占めて大儲けをしたと言われています。しかし火事のあった明暦3(1657)年には生まれていないはずです。文左衛門より50歳ほど年上で新川一帯に大きな住居を構え、材木も扱った豪商の河村瑞賢が明暦の大火の時に木曽の材木を買い占めたのと混在されています。

河村瑞賢新川を採掘した人です。奥州の米を江戸へ送る航路を開拓したり、大坂の淀川などを修治して畿内の治水に尽力します。江戸を造った男と呼ばれています。この河村瑞賢屋敷跡のプレートは永代通り沿いにあります。亀島橋にも瑞賢のことが書かれていますし、新川の跡の碑にも名前が出て来ます。

大河ドラマになってもいいような人ですね。

 

 紀伊国屋文左衛門

文左衛門が吉原を貸し切って豪遊する話は有名です。

”大門を八丁堀の人が打ち”と謳われます。大門を打つとは吉原の門を閉めるという意味で、一夜借り切るということです。紀文大尽と呼ばれました。”千と千尋の神隠し”でもカオナシが豪遊するシーンではお大尽様と呼ばれています。

当時は遊郭での評判が最大の宣伝になります。豪遊することで金持ちであるとの名声を得て多いに商売上の信用を得ました。時代は元禄、側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中阿部正武の頃で賄賂政治が横行していると言われた時代です。文左衛門にとって取入るのは容易だったのではないでしょうか。三大将軍家光に建立された上野寛永寺根本中堂を造営する時に文左衛門は用材請負いに成功し巨利を得たと言われます。そして幕府の御用達として材木問屋は多いに栄えました。

写真は上野駅の線路沿いにある寛永寺の輪王殿の外観です。東京藝術大学の方に根本中堂があります。根本中堂は現在の上野公園の大噴水の地に建てられましたが、彰義隊の戦争で焼失してしまいました。現在の建物は川越喜多院の本地堂を移築したものと書かれています。文左衛門の業績の証拠が無くなっています。

 紀伊国屋文左衛門

文左衛門は材木の店を京橋に移し、八丁堀の町中壱区画を屋敷にしたとも言われました。

後にお店は深川に移転し後の木場を造ったとも言われますが火事で焼失し材木屋を廃業します。

幕府から宝永通宝(十文銭)の鋳造を依頼され全財産をつぎ込んだと噂された事業は、十文銭の質が粗悪でした。そして五代将軍綱吉が亡くなり一年で宝永通宝は廃止になります。柳沢吉保も追放され、商売への意欲も無くなったようです。浅草寺内に移った後、深川八幡宮裏で余生を送ったようです。

無一文になった説と榎本其角ら文化人と交流を続け、深川富岡八幡宮に神輿三基を奉納したり香取神宮に木材を多数収めたとか悠々と老後を過ごしたとの説もあります。

写真は江東区の清澄白河にある成等院の横にある文左衛門の碑です。文左衛門の墓が横にあると言い伝えられています。

 紀伊国屋文左衛門

江東区の清澄庭園です。岩崎弥太郎が久世大和守の下屋敷跡と周囲の土地を購入して、回遊式林泉庭園にしました。ここの土地の一部は文左衛門の屋敷があったと言い伝えがあるそうです。庭園横にある説明版にもそう書かれています。真偽のほどはわかりません。

本の森ちゅうおうで調べてみても、例えば元禄時代前後の八丁堀近辺の住宅地図を何枚か見ても紀伊国屋文左衛門とかの記述は無く、本八丁堀三の壱町ほぼすべてが文左衛門の店及び屋敷という根拠は見つかりませんでした。山本育著の ”紀伊国屋文左衛門の生涯” も小説でした。明治末に書かれた ”黄金水大尽盃” という小説があり数人の富豪の逸話が文左衛門という人物に集約されているとの説があります。

ただ実在していたとすると最後は深川八幡宮裏に住み、ある意味ライバルの対岸の霊巌島にいた奈良屋茂左衛門と共に豪快な人生を送ったことでしょう。三井や住友など蓄えを貯めて後世に残っていく大商人と違い、花火のように散っていく様は江戸っ子、特に深川っ子に愛された人物、英雄であり、こんな大きな庭園は文左衛門の屋敷跡に違いないはずとなったと主張する学者もいます。

今の八丁堀は元禄前後の面影は当然ありません。文左衛門の足跡を記すものもありません。でも何か夢のようなものを残してくれています。

史実の真偽はともかく、すっとこどっこいも地元の人間として誇りに思います。