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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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咳止めの擬宝珠 京橋親柱

[マダムはるみ] 2018年11月29日 09:00

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こんにちは。マダムはるみです。

暫くぶりの書き込みとなってしまいました。。

少し前の気持ちの良い秋晴れの日、都バスの一日乗車券を購入し区内散歩をしてきました。

街道の起点日本橋から中央通り(東海道)をブラブラと西方向へ。再開発著しい景色を眺めながらあっという間に京橋の交差点。

ここに残る擬宝珠付きの欄干をごぞんじでしょうか?

そもそも京橋は「日本橋」「新橋」と並ぶ江戸幕府のご公儀橋。つまり幕府直轄の格式高い橋でした。

京橋がいつ創架されたかはは諸説あるのですが、1603年(慶長8年)頃に日本橋と一緒につくられたとも言われています。

今は下を流れていた京橋川も埋め立てられ、橋はなくなっていまいましたが、交差点に京橋の擬宝珠付き欄干は残っています。

 

この擬宝珠にはひとつの言い伝えがありまして。。。

「咳止めのぎぼし」だと。咳が止まらない時この擬宝珠に縄を巻き付けて願をかけると咳が不思議と治まるのだとか。。。江戸の庶民はこれを信じていたのだそうです。

以前風邪をひいて2か月以上咳が止まらなくなった筆者はそれを思い出してここに来てみたことがありましたっけ(笑)

縄こそ結びませんでしたが、その2日後に不思議と咳が止まったのは偶然ですね・・・

京橋の擬宝珠装飾は橋が架け替えられても存続し、今残る親柱欄干擬宝珠は明治8年に石橋に架け替わった時のものです。

寒くなってきました。風邪の季節です。もしも咳が止まらない時、暖かくしてこの擬宝珠に願をかけてみるのは・・いかがでしょうか?

 

 

【遠足シリーズ第9弾】漁民が結んだ縁の島

[Hanes] 2018年11月28日 18:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
先日大阪出張時の昼休みを利用して、駆け足で中央区ゆかりの地に行ってきました
それが、大阪市西淀川区にあるです!



佃と聞いてピンときた読者の方も多いのではないでしょうか?
そうです。大阪の佃は中央区の佃島と関係があるのです

中央区の佃島は、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区)から江戸入りした漁民が埋め立て、正保元年(1644年)にできました。
では、なぜ遠く離れた摂津国の漁民たちによって築造されたのでしょうか?
そのきっかけは、ちょっとした縁にありました。

天正14年(1586年)、徳川家康が大阪住吉大社と摂津多田神社を参拝。
その際に神崎川の渡船を務めたのが、今回の主人公佃の漁民でした

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(向かって左側が佃)

慶長17年(1612年)、彼らは将軍家に献魚の役目を命じられ、田蓑神社宮司の弟や佃村の庄屋森孫右衛門を含む、佃・大和田の漁民33名が江戸に入り、
日本のどの海でも漁ができ、免税対象となるといった漁業権の特権が与えられました。
当初彼らは日本橋小網町に居住し、江戸湾で漁業を営んでいましたが、
後に幕府よりいただいた鉄砲洲の地を埋め立て造成し、
故郷にちなんで「佃島」と命名し、移住

後に、幕府に献上した残りの魚を板船の上に並べて一般の人にも売るようになり、
それは先日ご紹介した日本橋魚河岸の始まりとなりました。

日本橋魚河岸発祥の地.jpg

住吉の大神を祀る大阪・佃の産土神田蓑神社には、

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中央区の発展に大きく貢献した漁民にまつわる碑があります

佃漁民ゆかりの地.jpg

境内には、家康の没後祀られたという東照宮もあり、佃と将軍家の特別な縁をうかがわせます

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そして、漁民の代表ともいえる森孫右衛門のお墓が、神社から近い正行寺にあります。
お寺の方曰く、子孫のご意向もあり、保存の関係上現在は一般公開していないとのことでした。

正行寺.jpg

しかし、中央区の築地本願寺では、「森孫右衛門供養塔」を見ることができます
こちらは彼の200年忌である1861年に建てられました。

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右側面には佃島の漁師と徳川家の関わり、左側面には佃島の成り立ち等が刻まれています。

森孫右衛門供養塔.jpg
(右:右側面、左:左側面)

そして最後に、中央区観光検定受験者はチェックしておきたい佃に関する文化財「白魚献上箱」をご紹介します
こちらは、佃島の漁師が将軍に白魚を献上する際に使用したもので、
朱塗りの内箱(ふたの部分に金泥で「御膳白魚箱 佃嶌」と書かれている)を
黒漆塗りの挟み箱(朱漆で「御膳御用 御本丸」と書かれている)に入れ、かつぎ棒を通して運んだといわれています

御用漁は毎年11月~3月に、定置網の一種である建網漁法にて行われました。
その様子は、『江戸名所図会』にも見ることができます。
こうして漁民にスポットライトを当ててみると、自然と彼らの生活が目に浮かんできませんか?

摂津国・佃から不思議な縁があって江戸に移り住んだ漁民たち。
そんな彼らが結んだ縁には、将軍家との縁のみならず、江戸と摂津の縁もありました
現在でも中央区立佃島小学校と大阪市立佃小学校の学生が交流するなど、
漁民が結んだ縁の島では今でも良い関係が続いています

【参考資料】
大阪あそ歩(Osaka Asobo)「千船駅(阪神本線)佃漁民ゆかりの地を歩く」

【観光検定の文化財対策で役立つサイト】
中央区「中央区文化財」http://www.city.chuo.lg.jp/smph/kusei/syokai/tyuobunkazai/
(より詳しい書籍版は、区内の図書館で借りられます

【余談】
江戸時代において、市中からわずかに海を隔てた佃島は、市中の人にとって魅力ある場所でした。
藤見物、住吉神社祭礼、潮干狩りなどで観光名所となっていたようで、
その様子は、『江戸名物鹿子』や『絵本 江戸土産』に描かれています。

 

 

新嘗 懸税とおすそ分け

[あすなろ] 2018年11月26日 18:00

勤労感謝の日と新嘗祭。

新穀を得たことを感謝する新嘗祭は、豊作を祈願した
2月17日の祈年祭と対になっているお祭りで、
全国の神社で斎行されます。


かけちから.jpg

「懸税」は、伊勢に天照大御神を奉祀した倭姫命が、
収穫した稲穂を御神前にかけたのが始まりと伝えられ、
各地の神社でも御神前に懸税がかけられます。

昔はお米がお金の代わりとして納められていたこともあり、
懸税は現在の税金の起源といわれています。


福米.jpg

神饌を食べることで大御恵を賜る風習があります。
新穀を納めた熨斗袋に、福徳神社の神田で育った稲穂を
挿し、御神前にてお祓いした「福米」です。

新嘗祭の日より授与がはじまり、数に限りがあります。


拝殿.jpg

美味しいご飯が食卓に並ぶまでの多くの人の勤労にも
感謝して味わいたいものです。

◆福徳神社
 東京都中央区日本橋室町2-4-14

 

 

『竜馬がゆく』

[CAM] 2018年11月25日 12:00

 ひさしぶりに、司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を読み返しました。随分以前に初めて手に取ったときはまだ中央区の住民ではありませんでしたが、中央区に16年余住んだ現在になると、文中に述べられている地名などに馴染みが出ていることから、あらためての感興を覚えながら読むことができました。

 竜馬は、当初江戸に出てきた際は、土佐藩鍜治橋藩邸で起居し、その後「土佐藩築地藩邸」に移ったようです。『竜馬がゆく』では、「竜馬は、鍜治橋の藩邸から築地の藩邸に移されていた。竜馬だけでなく、わかい藩士のほとんどが、築地、品川の二つの下屋敷に移されたのである。これは黒船の江戸湾侵入に備えての土佐藩の防備態勢のひとつで、この二つの海沿いの屋敷に人数を常駐させる一方、幕府の許可をえて品川に台場を築きつつあった。」と述べられています(文春文庫一巻;169頁)。この土佐藩築地藩邸は、現在の中央区役所そばですね(『ものしり百科』;69頁)。

 

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 竜馬は、当初は土佐藩鍜治橋藩邸長屋から桶町(中央区八重洲2丁目8番先)の千葉定吉道場へ通うことになります。この経緯について、『竜馬がゆく』では、「『寄らば大樹のかげ、と申す。やはり、大成するためには、大流儀を学ぶがよろしかろう。それには北辰一刀流がよろしい』『ああ、千葉周作先生であられまするな』 ・・・・・。千葉の玄武館は、京橋アサリ河岸の桃井春蔵、麹町の斎藤弥九郎とならんで江戸の三大道場といわれ、天下の剣を三分していた。『・・・・周作先生に学ぶのがいちばんよろしいが、先生はすでに老境であられるゆえ、京橋桶町に道場をもつ令弟の貞吉先生につかれるとよい。貞吉先生の道場は、お玉ケ池の大千葉に対し、小千葉とよばれています』」と述べられています(文春文庫一巻;18頁)。

 

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 幕末の剣客松崎浪四郎は三大道場の特徴を、「技の千葉(玄武館)、品格の桃井(士学館)、力の斎藤(練兵館)」と表現しています。斎藤弥九郎は神道無念流です。

 

当初、土佐藩鍜治橋藩邸長屋で相住いとなった武市半平太は、「アサリ河岸の桃井春蔵先生の塾頭で、鏡心明智流では江戸で三本の指に入るという達人」(文春文庫一巻;83頁)でした。

 この「蜊河岸」については、『ものしり百科』が、「その跡地に説明板がある」と述べています(42頁)が、正確な位置は少し離れているようです。説明板は、旧京橋小学校(1992年廃校)跡で現京橋プラザ(1999年7月開設)のそば、京橋公園内に設置されています。

 

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 その後、竜馬が通った軍艦操練所跡には説明板が設置されています(『ものしり百科』;73頁)。『竜馬がゆく』では、「築地本願寺から橋を一つ、東へ渡ると、南小田原町である。もう海のにおいがする。さらに東へゆくと、かつて芸州藩の下屋敷のあったところ、ごく最近まで幕府の講武所がおかれていた一角があり、その向こうは海である。そこに、安政四年以来、幕府の軍艦操練所がおかれている。」(文春文庫三巻;175頁)と述べられています。

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運河を散歩.変貌する晴海

[達磨] 2018年11月23日 18:00

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月島第4号地として揚土で造成されてから約90年...晴海の歴史は日本の成長期を作り、先端を歩んできた変遷があります。永年銀座、築地が仕事の場でありながら、晴海は遠い景色にありました。今日は小春日和。『いつも晴れた海を望む町であること』に因んで命名された晴海をあらためて探索。↑朝潮大橋橋上から朝潮運河を東京湾方向に望みます。右岸は月島・勝どき・豊海町の景観、後ろに佃水門、佃の街並み、相生橋。さあ~左岸一帯は【晴海です。

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晴海の変転】1955年日本住宅公団晴海団地竣工。1959年晴海埠頭・客船ターミナル完成(廃止解体予定)。同年、国際見本市会場(1996年閉鎖)、1988年有楽町線月島駅開業、1988年東京湾大華火大会初開催(今年は休止...港区お台場海浜公園で東京花火大祭~EDOMOED~開催)、1998年50階建てマンションビュータワー完成、2000年有楽町線月島駅開業、2001年(住・職・文化)融合型超高層施設「晴海トリトンスクエア」オープン約10ha、2006年臨海部広域幹線道路「晴海大橋」開通。

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選手村~新都市出現】銀座4丁目から徒歩3・40分ほどのここ晴海5丁目(朝潮運河下流左岸、晴海埠頭一帯)では、東京都で最大級の再開発タウン「HARUMI FLAG」が建設中。2020オリンピック・パラリンピック競技大会の選手村宿泊施設の中層住宅21棟及び商業施設が2019年12月完成予定とのこと。大会後は賃貸・分譲住宅に改修して、新たに超高層住宅を建設する計画らしい。↑工事現場の景色は環2晴海5丁目交差点と客船ターミナルから。

運河に沿って、8橋の桜の散歩道を歩く】  朝潮大橋から黎明大橋まで2.5キロ程...運河ルネッサンス推進地区(月島・新月島川を含め)だそうです。↓↓↓↓1989年竣工朝潮大橋」を下って、晴海中学横小道を通ると桜の散歩道...北から朝潮橋」・・・.春月橋」・・・〈人気!コミュニティサイクルのステーション〉・・・トリトン水の広場から埋め立て時の石積み護岸も見える隅田川と運河を結ぶ月島川」・・・

朝潮大橋佃スカイ1.JPG 朝潮橋②.ajpg.jpg

春月橋a.jpg 月島川月島橋②.JPG

・・・.左手〈京都港湾専用線廃棄橋〉・・・↓手前「桜小橋」後ろ「トリトンブリッジ」.正面ビルは〈58階勝どきTOKYOTOWERS〉

春月橋廃棄橋a.jpg 桜小橋トリトンとブ.JPG

晴海と勝どきを結ぶ晴海通り↑↑黎明橋」・・・朝潮運河船着場(勝どき桟橋)・・・

朝潮運河は東京湾奥部で数少ない浅場域が残されている、ハゼ釣りのメッカ...桜の散歩道下流域の釣り人...ボラとったよ!正面は黎明大橋。

黎明橋と舟着場.JPG 釣り人・黎明橋a.jpg

2018年11月築地~豊洲大橋と暫定開通した2号線、この一部2017年竣工黎明大橋」です↓。↓朝潮水門より「朝潮小橋」を見ます。朝潮小橋左手が.建設中の選手村&HARUMI FLG。

朝潮橋・水門.JPG 朝潮水門から朝潮小橋1a.jpg

↓「黎明大橋」橋上より晴海運河左岸一帯【晴海】地区。↓おまけ!晴海埠頭の金網フェンス前、晴海運河の先が築地市場です

黎明大橋環2号線から黎明橋.JPG 晴海から築地市場.JPG

 

 

新川大神宮 清酒菰樽 新酒番船江戸新川入津図

[銀造] 2018年11月23日 12:00

新川大神宮に参拝に行ってきました。

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境内に入ると左手に酒樽が沢山奉納されていました。 初めて見る光景です。新川一番船 というお酒の樽も奉納されていました。

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菰樽についての説明がありました。

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ご説明は次の通りです。

『奉献 清酒菰樽

 江戸時代、新川は日本酒(清酒)の銘醸地である上方から江戸に移入される「下り酒」の問屋筋として栄えました。寛永2(1625)年にこの地に創建された新川大神宮は、酒問屋・酒造家の守護神として崇敬を集めています。 当時、江戸へは酒を木樽に詰め、専用の樽廻船で輸送していましたが、その際、樽の破損を防ぐ目的で菰を巻き付けたのが菰冠(菰樽)の始まりといわれています。 そして、菰には他の銘柄と区別するために、各銘柄の特徴を表わすデザインが施されました。 ここに積まれている菰樽(二斗樽=36L)は、永年に亘り新川大神宮とご縁を結ばれている敬神会会員はじめ、全国各地の敬神の念篤き酒造家より献納されたものです。ご奉献頂いた方々に感謝申し上げますと共に、酒類業界を始めとした我が国の伝統的食文化を担う諸産業が益々栄ますことをご祈念申し上げます。』

新川大神宮のHPで、「新酒番船江戸新川入津図」の絵がご覧になれます。http://shinkawadaijingu.or.jp/gallery/gallery1/shinshubanwsen/

 次回は、奉納されている日本酒を探しに行きます

茅場町、越前堀、霊岸島散策の詳細は、2017年9月1日のブログもご覧ください。

http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2017/09/post-4541.html

 

 

 
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