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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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逍遥 龍閑川の痕跡

[あすなろ] 2017年9月 6日 09:00

明暦の大火(1657年)後に掘り割られた人口の運河
「龍閑川」がありました。

 

千代田区大手町付近の日本橋川より始まり、小伝馬町付近
で浜町川に合流。流れは直角に折れ、浜町川として、浜町、
人形町、箱崎を経て、隅田川へ流れ込むものでした。

 公園内.jpg

 

この川は、千代田区と中央区の区界となり、昭和25年に
埋め立てられたあと、龍閑児童公園(千代田区)、龍閑児童
遊園(中央区)と2つの名前を持つ公園ができました。

 龍閑児童公園s.jpg 龍閑児童遊園s.jpg

 

公園の隣には、江戸七森の一社である竹森神社が
お祀りされています。

 竹森神社.jpg

 

◆龍閑児童遊園/龍閑児童公園
東京都中央区日本橋小伝馬町19-5
/千代田区岩本町1-14-1

 

◆竹森神社
東京都中央区日本橋小伝馬町19-4

 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (2)

[CAM] 2017年9月 5日 18:00

二.「江戸」の成り立ちと範囲

こうして、日本橋地区からさらに現中央区の歴史に触れていくうちに、今まで不勉強であった「江戸」の成り立ちなども知るようになった。現東京都中央区の前身である日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのは明治11年(1878)であるが、その直前に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、そこには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸区・南江戸区の名がある。つまり、原案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区と称しようとしたものらしい。『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いているが、このような考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。なお、中央区成立の際(1947年)にも、新区名を「江戸区」「大江戸区」とする案も有力であったという。

そもそも、「江戸」の語源は「江処」であると考えるのが妥当ではないか。「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東部の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、"江処"というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、そして、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3年(1657)の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、旧日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。

したがって、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南の境界は新橋川であった。 この新橋川に架かる難波橋は、江戸を追放される者の放逐個所となっていた。そして、新橋川を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。さらに、本郷の近くにある小橋も、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたが、その本郷の別れの橋の近くに"も"、兼康の支店があった。 池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の"も"はそういう意味だと言う(『日本橋私記』1972年)。たしかに、池田氏のように解することによって、"も"という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、元来は、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えをよく理解できる。

池田弥三郎氏は「おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・

江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって・・・・・」と述べている(『日本橋私記』)。

「江戸の範囲」についての幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄区域)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際は、どの時点、どの段階での話なのかを明示する必要があろう。しかるに、「江戸時代」とひとくくりにして論じたり、時代初期の事象についてであるにもかかわらず、朱引による領域を当然の前提であるが如くに述べたり、江戸時代後期における社会状況を時代全体についてのもののように語る文章があるが、徳川幕府が成立し(1603)大政奉還される(1867)までの間でも260年以上に及んでいる。これは、アメリカ独立宣言(1776)から現在までの期間(240年)よりも長いのである。

(続く)

 

 

日本橋クルーズ

[達磨] 2017年9月 5日 09:00

IMGP0223.jpg

異常気象が毎日の夏休み、歴史好きの6年生の孫と日本橋川~隅田川~神田川の船旅です。家康の開拓した足跡を巡ります。

日本橋魚河岸跡のトイレを使い、架橋100周年(2011年)を機に造られた「日本橋船着場 双十郎河岸」から出航です。

 

日本橋川】・・・天井に手が届きそうな距離で迫ってくる「江戸橋」―1872年創架「兜橋」―「茅場橋」―日本橋水門―「湊橋」  ~墨田川に注ぐ河口部に架かる1698年創架「豊海橋」をくぐると、下流近くに創架1698年筋骨隆々「永代橋」です。

日本橋水門.JPG 豊海橋.JPG

 

IMGP0239.JPG

隅田川】・・・スカイツリーを水面正面に水辺の景観を愉しみながら運河船が進みます。
上流の1979年架橋「隅田川大橋」-1928年竣工「清澄橋」-右手小名木川-1693年創架「新大橋」-1659年架橋当時大橋の呼び名の「両国橋」・・・

 

1698年創架「柳橋」をくぐって【神田川】に入りました。屋形船が並び、江戸の舟遊びの賑やかさに触れました。

柳橋神田川.JPG

 

日本橋5.jpg


旧平川水路の【神田川】を名橋「聖橋」「万世橋」「御茶ノ水橋」・・・と千代田区、文京区の街中を進みます。
後楽園先を折れて、-明治期には掘り直しで外濠川と呼ばれた日本橋川を進むと「雉橋」「一ツ橋」「錦橋」、この間の城側岸には江戸城の藩の刻印がある石垣が残っていました。

 

常盤橋.JPG


下流中央区、都内最古の石橋・・・
「常磐橋」は、老朽化と東日本大震災により、落橋の危険性があるために、改修工事中。「一石橋」-「西河岸橋」を進んで、飾灯柱にライトが灯る日本橋船着場に戻ってきました。

 

日本橋獅子1.JPG


日本橋には橋(8×4)にちなんで、
32頭の獅子像が配置されているとか・・・

橋上からは見えない獅子のお迎えでした。

 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (1)

[CAM] 2017年9月 4日 18:00

学生時代にお世話になったある会の会誌に、これまでのブログへの投稿をまとめて寄稿しました。

 あらためて、本ブログにも出させて下さい。     

 

一.旧日本橋区と大阪

 
(1)旧日本橋区と私との出会い

私は、大学に入学して東京へ来て以来、西部地域に居住することが多かったから、日本橋地区についてはほとんど馴染みがなかった。そして、この十数年、東京都中央区(その辺境地帯であるが)に居住するようになってからも、銀座・京橋側から日本橋川を渡った地域へ出かけることはほとんどなかった。ところが、数年前の正月、たまたま三越百貨店が主催した「日本橋七福神めぐり」なる行事に参加し、旧日本橋区の市街を歩きまわってみて、不思議ななつかしさを感じたのであった。その町並みは、私が幼少期を過ごした地域を想起させるものであった。

日本橋で生まれ育ち、「ふるさとは田舎侍にあらされて昔の江戸のおもかげもなし」と詠んだ谷崎潤一郎は、次のように述べている。

「関西の都市の街路を歩くと、自分の少年時代を想ひ出してしみじみなつかしい。・・・・大阪の谷町、高津、下寺町辺へ行くと、『あゝ東京も昔はこんなだったなぁ』と思ひ、忘れてゐた故郷を見付けたやうな気がする。」(「私の見た大阪及び大阪人」初出1932年)

大阪市中心部で育った者が、渋谷、本郷等の市街について感じる違和感は、坂が多いこと、街路が碁盤目となっていないことである(大阪市中心部である船場、島之内地域などの区画は秀吉が造成したままが残っており、区画はほぼ碁盤目になっている)。大阪市内では、(淀川から流れ出た土砂の沖積によってできたのであるから当然のことであるが)上町台地への坂を除けば、市街中心地に坂はない。そして、東京都中央区内にも(大部分は埋立によって造成されたのであるから当然のことであるが)坂はない。

  ところで、私が通った小学校、中学校(大阪市中央区)は、御堂筋と心斎橋筋に面した大丸百貨店に対してその東西に位置していた。したがって、私にとって、「大丸」とは百貨店の代表的存在であり、東京駅八重洲口に東京店を開設した(1954年)のは、戦後になってからの東京への「(初)進出」だと思い込んでいた。

しかしながら、日本橋で生まれ育った長谷川時雨の、「最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。」(『旧聞日本橋』初版1935年)という記述を読み、その東京店は、かつては日本橋を代表するような存在であったことを知った。

サイデンステッカーは、次のように述べている。

「(路面)電車の影響はさらに大きかった。呉服屋の大丸などその典型である。現在のデパートの中には、かつての呉服屋から発展した例がめずらしくないが、大丸もその一つで、18世紀に日本橋で開業し、明治の中頃には三越などより繁昌していた。長谷川時雨も書いているように、大丸は『丁度現在三越呉服店を指すように、其当時の日本橋文化、繁昌地中心点であった』。けれども大丸はほかの店とちがって、銀座から上野へ抜ける電車通りに面していなかった。そこで次第に客足が遠のき、明治の末には東京の店をたたんで関西に撤退せざるをえなくなった。東京に帰ってきたのは第二次大戦後のことで、ただし今度は交通の便から外れまいと、東京駅の駅ビルの中に店を構えたわけである。」(『東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)』原書1983年)

 
(2)東京日本橋地区と大阪

こうしたことを知ったことがきっかけとなり、中央区内(日本橋・銀座・築地・明石町など)を、その歴史などを考えながら散策するようになった。これにより、旧京橋区内も、(私が育った頃の大阪市中心部と同様に)かつては三十間堀、築地川などが流れる「水の都」であったことを、あらためて知った。成瀬己喜男監督映画に描かれた昭和30年代の銀座、築地川周辺の風情には、同時期の大阪市中心部と共通するものを感じる(当時の大阪の経済力は、東京と比べてそれほどの遜色はなかったと思う。私鉄王国関西出身者にとっては、当時の井ノ頭線などは田舎電車としか思えなかったし、地下鉄御堂筋線を見慣れた大阪人にとっては、銀座線、丸ノ内線などという当時の東京地下鉄はかなり貧弱に感じられた)。

戦後の残土処理などを目的として三十間堀が埋立てられたことにより、旧木挽町あたりが銀座との境界がなくなったこと、こうしたことにより、一帯の地名が、銀座西・銀座東からさらに(銀座の東側を含む)銀座1~8丁目に変わり、"銀座"と称する地域が広く拡大されていることも、大阪長堀川埋立により船場と島の内の境界がなくなったこと、大阪心斎橋筋の東西にあるかなり広い地域が東心斎橋・西心斎橋というような地名を称するようになったことと同様である。

こうして現中央区の歴史などを調べるにしたがって、中央区成立の際(1947年)、歴史と伝統を誇る旧日本橋区が、新興地区である旧京橋区との統合に最後まで抵抗したという事実(旧日本橋区地名の頭に日本橋が冠されているのは、こうした経緯による)も知った。そこには、経済力においてさえ"新興"地域である東京への集中に圧倒されつつある関西人の心情と共振するところがある。

サイデンステッカーは次のように述べている。

「日本橋は今日でも東京の、さらには日本全体の金融の中心と呼べるかもしれない。日本銀行も証券取引所も日本橋にある。けれども大企業は、ほとんど日本橋からほかの土地に出ていった。三井銀行や第一国立銀行も...本店はもう日本橋にはない」(『東京下町山の手』)。

「昭和4年に東京の盛り場を調査した記録があるが、・・・・この調査で名前が挙がっているのは銀座、新宿、上野、浅草、渋谷、それに人形町と神楽坂だが、今なら東京の代表的な盛り場として、人形町や神楽坂を挙げる人はまずあるまい。・・・・・・・

人形町は、明治期には大いに活気があったが、震災後は、今日に至るまで衰退を続けている。昔の日本橋区の大半は、かつては自他共に認める江戸町人文化の中心だったけれども、みな同様の運命をたどった。人形町にしても、昔日の下町の面影を探訪するには格好のところではあるが、人が集まるという点では、新宿のようなところとは比較にもならない。」(『立ち上がる東京 (Rising Tokyo) 』原書1990年)

矢田中央区長は、「日本橋から大企業の本社機能の転出が始まったのは昭和50年代前半のことである。流通機構の変化が叫ばれ、日本橋に集積していたさまざまな問屋に陰りが感じられるようになったのは50年代後半である。・・・・そして平成10年以降には、バブル経済の崩壊や金融再編の流れの中で日本銀行の周辺から地方銀行など金融機関が消えていった。・・・・・・このような変遷と・・・変化によって、いつのころか誰言うともなく『日本橋の地盤沈下』がささやかれるようになったのである」(「日本橋ルネッサンス」2007年)と述べている。 この矢田区長の叙述など、「日本橋」の部分を「大阪市(中央区)」に入れ替えてもそのまま通用するのではないか。

その東京日本橋地区であるが、最近は再開発計画が次々に出来て、再興への動きが著しいことは喜ばしい。また、東京・日本橋の老舗商店の有志がロンドン屈指の商業地・メイフェアと連携して販路開拓や観光客誘致で共同事業を展開しているというような動きも聞く。金融街兜町近辺再開発の機運も高まってきたようである。中央区は外資系を含む金融関連企業などの誘致に向け、新たな計画を策定するという。最大の象徴的事業は、日本橋をまたいで景観を破壊している高速道路の地中化であろうが、なんとか立派に実現して欲しいものである。

それにひきかえ、大阪経済の地盤沈下が一向に止まらないどころか、加速さえしているように思えることは、悲しく寂しい。再度の万国博が実現したとしても、これを中長期的な再興に繋げていけるのだろうか。

(続く)

 

 

椙森神社「富塚祈願祭」

[クラさん] 2017年9月 4日 14:00

9月2日は、語呂合わせ(「くじ」)で、「宝くじの日」です。

 

椙森神社では、くじの日に当たる9月2日(土)の10時3分(「「とみ」」)から「富塚祈願祭」が行われました。

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富塚は、大正9(1920)年に建立されましたが、関東大震災によって倒壊しました。その後、氏子の人々は有志を募り昭和28(1953)年に再建されたのが、今の富塚です。この富塚は他に類を見ないと言われ、日本で唯一のものだそうです。祈願祭は昨年から始まったそうですが、雨の中を氏子の方々を始め、多数の人々が参拝しました。富塚での祈願と共に、本殿前では御神酒をいただきました。

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社務所前には、御朱印や御守護・富久當籤入れ等を求める人の行列ができていました。

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椙森神社は遠く一千年の昔、江戸が武蔵野の原と言われた時代の創建だそうです。江戸時代には江戸三森の一つであり、江戸三富の一つにも数えられる程の数多くの富籤が興業された事が、記録に残されています。また、五代目 柳家小さん師匠の噺『宿屋の富』では、この椙森神社や宿屋の場所が馬喰町である事が語られています(湯島天神を舞台とする噺もある)。 今日では宝くじの元祖として当神社の「富塚」を、多くの人々が心中祈願をしているようです。

 

 

 

茅場町周遊散歩 歴史探訪と神社参拝

[銀造] 2017年9月 1日 16:00

 普段訪れる事の少ない、茅場町と新川付近を散歩してきました。 静かな佇まいの地域で、お散歩には最適です。

 コース:東京メトロ東西線八丁堀駅3番出口から。お散歩の時間:茅場町周遊で1時間。全体なら約1時間半

 

1)河村瑞賢屋敷跡:所在地 中央区新川1-8、「ホテルヴィラフォンテーヌ茅場町」の前の道の植栽にあります。

 江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(16181699)の屋敷がありました。

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 瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦3年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。

 瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。

 斎藤月岑(さとうげっしん)の「武功年表」によると、瑞賢は貞享年間(16841688)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。

 「御府内沿革図書」延宝年間(16731681)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます

 次は道なりに進んで、隣接のアクロス新川ビルを右折、次の角をまた右折して、新川大神宮へ。

 

2)新川大神宮:

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 境内に掲示された「新川大神宮再建由誌」によれば、

新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧・慶光院所蔵古文書『慶光院由緒』ならびに江戸名所図会に詳しい。当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川2代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのにはじまり、其後、明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、この年、替地を霊巌島に賜り社殿を造営、以来実に300年を経た。爾来当地は河村瑞軒が隅田川に通じる水路を開いて舟楫の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を集め、とくに酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くと、これが初穂を神前に献じ、然る後はじめて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和20年(194539日の戦災に罹り社殿を烏有に帰した。その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を回復しつつあるのはまったく当宮御神威の賜ものである。
偶々昭和27年(1952)が講和条約発効独立回復の年にあたる故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年57日地鎮祭、95日上棟祭、1017日竣工遷宮ならびに例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。
ここに当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。 昭和271017日 

 新川大神宮のHPはこちらです。 http://shinkawadaijingu.or.jp/

  次は今来た道をアクロス新川ビルの角まで戻って右折・南下。越前堀跡(越前堀公園)へ。

 

3)越前堀跡(越前堀公園):所在地 中央区新川12丁目地域

 滑り台の向こうに、「霊巌島之碑」と「霊巌島の由来」(by 霊岸島保存会)の説明碑があります。

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「霊巌島の由来」(by 霊岸島保存会)によると、

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は1215間(2030m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。

 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。

 今では往時をしのぶ「霊岸島」や「越前堀」の名は、歴史でしか学ぶことができません。

写真の左手に越前堀公園が、正面奥に見えるのが明正小学校の建物です。

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 次は隣接する明正小学校の建物を拝見しましょう。   

 

4)明正小学校、

  平成28年に創立90周年を迎えた、大変由緒ある小学校です。

 昭和2年(西暦1927年)31日に、霊岸島(明治991日創立)、越前堀(明治4218日創立)の両尋常小学校を合併し、新たに東京市明正尋常小学校として開校されたとのことです。<中略> 平成2691日に新校舎での教育活動が再開されました。

 建築は、複合施設となっており、児童館も入っています。 高級マンションの様な大変素敵な設計です。 明正小学校等複合施設基本計画の概要、「その他」の所に、『現校舎の意匠を外観デザインとして継承するとともに、部材の利活用を図る。機能を充実した新川児童館を併設する。』 と記載されています。その詳細は、こちらのHPに書かれていますので、ご参考にして下さい。

https://www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/kaitiku/meishokaichikukeikaku.files/meisyokaichikukyogikai.pdf#search=%27%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA+%E6%98%8E%E6%AD%A3%27

  http://fkaidofudo.exblog.jp/10731739/

 

5)亀島橋

 橋の袂には、「亀島橋」、御船手組(将監河岸)、河村瑞賢の説明のパネルが設置されています。

 橋を渡った右手の植栽の中に、「堀部安兵衛武庸之碑」が建っています。

  橋の反対側(南側)には、東洲斎写楽、伊能忠敬についての説明のパネルが設置されています。

  右折して、亀島川を北上して、新亀島橋へ向かいます。

 

6)新亀島橋

 ①「正一位 純子稲荷大明神」が鎮座されています。

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 御鎮座は、元和二年1120日。

神璽は伏見稲荷大社、御神名は「純子大神」御祭神は豊受大神、宇賀之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四之大神とあります。

御神徳が精神、生命、生活、生業、生産、心身健全、御神意が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満、芸能成就、往来安全とあります。 まさに、All right. 御祭日は、二月の初午の碑、4月、11月御鎮座の日、元文2年(西暦1737年)1120日です。 町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請して、お祀したと言われています。 

  純子大神と名付けられた経緯は、継続して調べることにします。

 ②大震火災遭難者追悼碑、戦災遭難使者慰霊碑が新亀島橋西詰めに設置されています。

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  大震災、戦災で亡くなった方々のご冥福を祈りました。

 道なりに亀島川河畔を真っ直ぐ進み、台南茶寮という中華料理屋さんを左折して、少し南下します。

 

7)地図御用所跡の碑:

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亀島橋の南側にも、伊能忠敬先生についての説明がありましたが、ここに伊能忠敬先生が住んでいらっしゃったこと、測量図を作製するための地図御用所として利用されていたことが説明されています。

 ここまでで1時間の周遊コースです。茅場町駅へはスマイルホテルの前を通るのが近道です。

 

8)鳥居稲荷神社:茅場町3丁目20

 こちらは、鳥居丹波守忠瞭(下野壬生藩主)の上屋敷があり、その邸内社であったとの由来が説明されています。

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 朱の鳥居がとても鮮やかで、崇敬されていらっしゃる方の熱意が伝わってきます。

すこし北に行き、センターホテルの前を通過し、坂本小学校横、警視庁中央警察署の向かい側、千代田橋の手前に、大原稲荷神社が鎮座されています。

 

9)大原稲荷神社:

立派な社殿の裏には、御神木と思われる大銀杏がそびえています。私は、毎年東京マラソンの度に、参拝しています。 若い人たちは、パワースポットとして、元気を頂くためにお参りしているそうです。

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この地は日本橋川から楓川に通ずる運河要衝の地であったことから海運の神様、藤間流宗家在住の地であったことから芸能の神様として信仰されてきたようです。(藤間流は、藤間勘兵衞によって始められた。 勘兵衛は 能の狂言師で, 宝永年間に江戸へ出て 日本橋で踊りの師匠となり, 歌舞伎の振付師に取立てられたと伝えられる。)

左横から入る、裏の境内の銀杏は火災にあって被災していますが、逞しい生命力を感じます。また、神様のお使いである狛犬は、虎か豹の様な姿をしていました。

大原稲荷神社の社務所は隣のビルの7階にあるようですが、土曜日はドアが閉まっていました。

詳しく知りたい方は、社務所を訪れてはお聞きになっては如何でしょうか。

 さて、喉が渇いたし、お腹も空いてきました。 近辺には、手頃で良心的なお店が沢山あります。 その情報は、別途掲載します。 それでは、ごきげんよう! 20170805

 

 
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