下町トム

「お富さん」はいかにつくられたか

中央区は江戸歌舞伎の歴史に深くかかわってきた土地であると同時に、さまざまな文化が浸透し、当時のパリにさえ優るとも劣ることのない洗練された町だったことが知られています。

歌舞伎の「世話物」人気狂言のひとつ『與話情浮名横櫛』(よはなさけうきなのよこぐし)は、登場人物の名を借りて一般に『お富与三郎』としても有名です。特に往年の流行歌手、春日八郎さんが歌って1954(昭和29)年に大ヒットした曲『お富さん』によって歌舞伎を観ない人にまでその名は知れ渡るようになりました。

その主役の一人、お富さんが住んでいたというのが〔源氏店〕(げんじだな/げんやだな)ということになっていますが、そのモデルは今の人形町駅近くにあった〔玄冶店〕(げんやだな)という一角です。幕府の御典医だった岡本玄冶という人の屋敷跡だったことから、そのような地名になったということです。
当時の人形町界隈は芝居や寄席が集まる歓楽街でしたから、エンタテイメント関係の人が多く住んでいたそうです。お富さんもそんな賑やかな地域の片隅で暮らしていたということですね。その場所を示す記念碑が建てられています。

 「お富さん」はいかにつくられたか

すぐ近くにある三光新道には三光稲荷神社が古くから祀られています。一説にはこのあたりの芝居小屋によく出演していた歌舞伎役者の関三十郎が伏見稲荷から勧請したといいます。昔の町名は〔長谷川町〕ですが、江戸時代初期には〔禰宜町〕と称したとか。なんでも近くにある〔椙森神社〕の禰宜(神官)の住まいがあったからといいます。この〔禰宜町〕には、中橋南地(今の京橋付近)で旗揚げした「猿若座」(のちの中村座)が一時小屋を設け、その後〔堺町〕(現在の人形町三丁目付近)へ移転しました。芝居に縁のある地区なんですね。

ところで、「お富与三郎」には原話があります。与三郎は長唄の名人といわれた四代目芳村伊三郎がモデルです。下総国・東金出身の「伊三郎」は木更津で地元の顔役の愛人である「きち」と恋仲になったために、一派に傷だらけにされてしまいます。命からがら江戸へたどり着き、後に「きち」と再会するという実話がもとになっています。今でいえば三面記事のような話をうまい具合に芝居に仕立てたものだと思います。近松門左衛門に代表されるように、江戸期の芝居作家というのは、実話とフィクションが交雑したような世界を創造するのが実にうまかったといえるでしょう。

そんな豆知識も少し小耳にはさんでまち歩きしてみると、興味が深まるかもしれません。近くを通られるときにはどうぞご参考にしてください。