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現東日本橋にあった「矢ノ倉(米蔵)」は振袖火事の後どこに行った?

現東日本橋(旧米沢町)にあった矢ノ倉跡には現在碑が設置され昔存在した米倉を忍んでいます。中央区観光会特派員ブログ名「北遊人」さんは2011年に矢ノ倉を紹介しています。『江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建て、これを谷之御蔵と称した。元禄11年(1698)の火災により焼失、米倉は築地に移された。』と記述していますが、築地の場所を特定していません。日本橋区史によると元禄12年に京橋区小田原町(南小田原町1)の東海浜(隅田川沿い?)の地に移転したようです。

矢ノ倉の移動の歴史

矢ノ倉の移動の歴史 現東日本橋にあった「矢ノ倉(米蔵)」は振袖火事の後どこに行った?

当時の蔵の構造は元禄2年の増築の際の記録に「築地谷の御蔵、桁30間、梁間5間の御蔵5棟、5年前にして、屋敷土居葺の上に土にて塗り、外は銅板を張った」と記述しています。

矢ノ倉の米庫は元禄11年の火災の後、上述したように翌年2月築地に移りました。築地は江戸湾に近く潮風が吹くためにコメの保存に適しないと判断し、浅草に移りました。これが「蔵前」です。和田倉から蔵前への米蔵移転は1620年に行われ、「安政改正御江戸大絵図」にあるような8本の舟入堀を有するような大規模になったのは明暦の大火(振り袖火事)の後です。

【参考文献】

1) 日本橋区史

2) 中央区沿革図集(日本橋編)