小江戸板橋

木挽町の名残を探して

 

「木挽町(こびきちょう)」なかなか良い響きを持つ名前じゃないか。

江戸時代初期に、江戸城築城や改修に従事する木挽き職人、のこぎりで木材を加工する職人がまとまって住んでいた町だな。

運ばれてきた原木が、引かれ、切られ、削られて、材木製品に仕上がっていく。

木材の香りが町中に漂ってくる。

建築資材が整えられて、江戸という街が形作られていく。

町が広がっていく勢いって言うやつを感じるじゃねえか。

慶長17年に開削され、京橋川と汐留川を結んだ三十間堀。木挽町は、その東側に南北に細長く作られた。

 

 木挽町の名残を探して

 

でもな、職人達の息吹が漂うだけじゃねえんだ。

万治3年(1660年)初代森田勘彌が木挽町五丁目に芝居小屋を建て、歌舞伎を興行したんだ。

人形浄瑠璃の芝居小屋や芝居茶屋、見世物小屋なんぞも建ち並び、なかなかの賑わいを見せていたんだぜ。

そうした江戸の朝夕の華やかさや、その反対の陰の部分も、そこから生まれる色気なんぞも、木挽町って名前には込められているんだ。

 

 木挽町の名残を探して

 

森田座跡の案内板には、浮世絵が描かれている。

おう、見事な人出だね。

屋根ん処に櫓が立って、幟がはためいているのが森田座。

顔見世か何かかね、贔屓の役者をひと目見ようと、木戸口にお客がひしめき合っているじゃないか。

今で言う「推し活」ってやつの江戸版だな。

 

直木賞受賞「木挽町のあだ討ち」

直木賞受賞「木挽町のあだ討ち」 木挽町の名残を探して

 

この木挽町・森田座界隈を舞台にした永井紗耶子さんの「木挽町のあだ討ち」が、第169回直木賞に選ばれた。

垣根涼介さんの足利尊氏を主人公にした「極楽征夷大将軍」とあわせて、時代小説2作品が揃った。

歴史・時代小説が選ばれるのは、個人的に嬉しい。

芥川賞は市川紗央さんの「ハンチバック」が受賞した。

 

選考会場は、築地の料亭「新喜楽」。

選考会は、直木賞は二階で、芥川賞は一階で開かれた。

 

 木挽町の名残を探して

 

その「木挽町のあだ討ち」。

芝居小屋に関わる人物達が、各々の視点からあだ討ちと身の上話をしていくのだ。

語り口がまるで講談を聞くようで、自ずと体が調子を取ってしまう。

江戸の市井の人々の息づかいが伝わって、台詞を口に出して追いたくなるような、語り口の巧みさがあった。

 

この話、六代目三遊亭圓生師匠に語ってもらったなら、どんな世間が展開されるだろうとの思いが湧いてきた。

今では落語のCDでその話芸を聞くしかないのだが、話の進め方や人物の声の抑揚や仕草、情景描写の鮮やかさが、作品に思わぬ発見を与えてくれそうな気がした。

 

通り名に残る木挽町

通り名に残る木挽町 木挽町の名残を探して

 

木挽町の地名がついたエリアは、銀座に組み込まれている。

街角に掲出されている「中央区エリアマップ」を確認してみると、「木挽町通り」が歌舞伎座の東側を南北に走っている。

木挽町という名前を残したい人々の強い意志が、通りの名前として活かされている。

 

 木挽町の名残を探して

 

森田座は天保の改革の折、木挽町から浅草猿若町へ移転させられた。安政5年に守田座と改称。明治5年に新富町に移り、明治8年に新富座と改称している。

歌舞伎座は、木挽町があったエリアに近接して建っている。

ブログ扉の写真は、歌舞伎座に上がった櫓を写したものだ。

鳳凰丸の座紋と「木挽町きゃうげんづくし歌舞伎座」と書かれている。

 

 木挽町の名残を探して

 

歌舞伎座地下1階のお土産を中心とした商業施設は「木挽町広場」。

シンボルの大提灯の重化(じゅうけ・受底)に、金字できらびやかに名前が書き込まれている。

 

 木挽町の名残を探して

 

通りの銘板

 

 木挽町の名残を探して

 

電信柱の表示には、銀座の番地表示と木挽町通りが並んでいる。

愛されているね、木挽町。