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八丁堀組屋敷

南・北奉行配下の町与力・町同心が住んでいた八丁堀組屋敷はどのようなところであったのか、考察を試みた。日本橋から東南に歩いて10分程度の所に、通称「八丁堀辺」(北八丁堀、本八丁堀辺り、兜町1~3丁目、茅場町1~3丁目、発行掘り1~4丁目)と言われた地域があった。この地域は

東側が亀島川、西側が楓川(現首都高速道路)、南側が八丁堀、北側が日本橋川に囲まれて、四方を水路に囲まれています。与力・同心が住んでいたのは八丁堀の限られていた地域で、面積的には八丁堀全体の約36%を占めており、正式には「八丁堀同心拝領大縄屋敷」といい通称「八丁堀組屋敷」「町御組屋敷」「町御組」などと呼ばれていました。ここでは「八丁堀組屋敷」の名称を採用します。

 

(参考文献)

新作「八丁堀組屋敷図 1600分の1 嘉永6年」解説 中村静夫

 

地割と分配

地割と分配 八丁堀組屋敷

八丁堀組屋敷は広い大繩屋敷(嘉永時代には約4万坪)で、与力・同心グループとして幕府から一括拝領していました。この土地の地割と分配は与力・同心に任せられ、組屋敷内は、与力拝領地と同心拝領地に2分されて、与力拝領地は与力50人分に、同心拝領地は同心200人分に細分化されて地割されました。

全般的に与力は自分の拝領邸を誰かに貸しており、その数は2~3軒から4~5軒でした。貸していた相手は「儒者・医者・兼業・書道家・画師などであったようです。国立国会図書館蔵「旧幕府引継書」の嘉永7年7月1日の記録によると、

(地借人とその職業) 小松原坦蔵 浪人儒者 (地貸人与力) 東条八太夫

(地借人とその職業) 伊藤竹次郎 浪人手跡指南(書道家) (地貸人与力) 原善右衛門

(地借人とその職業) 高橋金五郎 浪人手跡指南(地貸人与力) 由比義三郎

とあります。私が提案しプロジェクトして進行している「江戸湊町おこしの核をなす「皇民ビール」は『川本皇民』が『現茅場町1丁目』で最初に醸造しましたが、ここも与力の貸家であったのかもしれません。