王冠とあざみ

「緑の駅」と「たこめし」

あれからもう11年。

東日本大震災の時、貴方は何処にいて、どのような体験をしましたか?

 

実はわたしは、津波で甚大な被害を受けた、宮城県南三陸町出身です。

南三陸町は、北に気仙沼市、南に石巻市、

家族のほか、親戚、友人、知人、人生で関りを持った大半のひとが

その地で生活していました。

 

地震発生時には勤務先に居て、大きな揺れがあった時は必ずそうするように

すぐにアドレス帳の片っ端から電話をかけまくりました。

けれど、全く繋がらず、安否が判らないまま、

心配し過ぎてバスタオルが絞れるぐらい、一晩中泣いて過ごしました。

テレビから入って来る状況は、想像を遥に超えて、絶望せざるを得ない内容ばかり。

 

夜明けには、居ても立ってもいられなくなって、バスを乗り継ぎ

東京~新潟~山形~仙台へ。

ガソリンを始め、物資の流通がストップしている中、

仙台で客待ちしていたタクシーは、水素ガスで走るから

「腹を決めてきたんでしょ。行ってあげるよ」と。

南三陸町までは車で通常2時間ぐらいのところ、

寸断された道を回避しつつ5時間ほど掛かって行きました。

 

自衛隊と県内のひと以外、震災4日めに被災地へ辿り着けたことは奇跡的でしたが

町に近づくにつれ、その無残過ぎる爪痕が見え、一変した光景に唖然茫然。

それはそれは大変にショッキングで、身体が震えました。

 

実家は海から1㎞ほどの内陸、少しだけ高台にありました。

すぐ裏山、海抜27m地点には「宮城県立志津川高等学校」

「志津川高校」「津波」で動画を検索するとトップに出てくる

再生回数2282万回のYouTubeは、南三陸町が波にのまれていく様子を

志津川高等学校の高台にいたひとが撮影したものです。

(※衝撃的な動画ですので、ご覧になる方は予めご注意ください)

そこには、懸命に逃げる実母や弟の嫁も映されており、情況を把握することが出来ました。

ただし、わたしは当日その場に居なかったわけで、

津波を実体験してしまったひとの大変さや、理不尽な想いや

吐露出来ない気持ちは計り知れませんでした。

でも、ただの傍観者ではなく「せめて渦中の渕に立って寄り添いたい」と強く感じました。

 

そのような矢先、復興のバックアップを目的に

いち早く動いてくださった「築地スマイル実行委員会」は

まちづくり協議会、築地本願寺、中央区など、築地エリア全体に及ぶ任意団体で、

場外市場の千社額棟内に、被災した生産地を物販で応援する店舗を立ち上げてくださいました。

皆様の記憶にも残っているでしょうか・・・。

復興ステーション「緑の駅」

https://ginza.keizai.biz/headline/1570/

 

「宮城県」と「福島県」の2店舗ありましたが、

「宮城県の店長は、わたしがやらないで誰がやる!」と

それまでの仕事を辞め、立候補して約1年、その任に就いたのでした。

慶応義塾大学の学生をはじめ、たくさんの企業・団体から

のべ1,000人のボランティアの力を頂きました。

ここに改めまして御礼を申し上げます。

助けてくださって本当にありがとうございました。

 

ちなみに、この店舗は後に改修され、

現在の「ぷらっと築地」になりました。

ぷらっとは、プラットホーム(情報発信の基盤)と、

築地にぷらっと立ち寄って欲しいという2つの意味合いがあるそうです。

(奇しくも駅繋がりの名前です)

 

さて今回、なぜこんなにしみじみと想い返しているかというと

かの有名な「ペヤング やきそば」の新商品『たこめし風』が

なんと「宮城県立志津川高等学校」商業部とのコラボ商品で、

沖縄を除く全国展開で発売されたからなのです。

http://www.peyoung.co.jp/products/2236/

 

被災地では、インフラは整いつつありますが、

未だに時間が止まったまま、深い悲しみの中にいる方もたくさんいます。

それでも、震災当時、実際に南三陸町へ足を運んでくださった方や

関心を抱いてくださった方に、

11年が経過してやっとお礼状を届けられたような気持になりました。

母校のみなさん、ありがとう!

 

 「緑の駅」と「たこめし」