隅田の花火

中央区そして築地の源流~小田原

今年のゴールデンウィークは久しぶりに、毎年恒例としていた城跡巡りに行くことができた。

今年は、中央区と関わりがありそうな街にある城にしてみようかと考え、近場の「小田原城」に。戦国時代終盤、秀吉の天下統一に向けての最後の舞台となった所である。

秀吉がこのお城を攻略するために築いた「石垣山城」は、小田原の街を見おろすことができて眺望抜群!。でも意外と小田原城の天守を見つけるのは難しい。皆様は見つけることはできるだろうか?

小田原城主は北条氏。総延長9キロにも及ぶ総構(そうがまえ)の堀や土塁で、城や城下町を囲い、城に籠もって秀吉軍に対抗しようとした。石垣を使わない、関東主流の土城である。


一方、秀吉は関西の石垣職人・穴太衆(あのうしゅう)を連れてきて、小田原城近くの石垣山に、関東初となる「総石垣」の城を80日あまりで完成させた。完成と同時に周りの木を伐採したことで、まるで一夜のうちに最新技術の城が出来あがったようにみえた、という伝説もあることから、「一夜城」ともよばれている。

 中央区そして築地の源流~小田原

〈石垣山一夜城〉

この戦いでは、秀吉が率いる全国各地の戦国武将が集結、16万人とも20万とも言われる人々が小田原城を取り囲んだ。数は今の中央区の人口とだいたい同じくらいである。

 中央区そして築地の源流~小田原

陣中、家康もこの一夜城に招かれた。有名なのは、連れション伝説。小田原城を眼下に見わたす一夜城で、秀吉と一緒に小便をたれながら、ちょっと嫌なことを言い渡される。

勝利の暁には、関東への国替をしてもらうと。

今の東京の発展は、元を辿れば、一夜城での秀吉と家康の連れ小便から始まったのである。

結局、総構の城は強固なため、中に攻め込むことはできなかったものの、北条氏が降参する形で戦いが終わり、その後すぐに、秀吉は天下統一を成し遂げることとなった。

 


この時の小田原は、関東で一番栄えていた町と言われている。

秀吉も力攻めできなかった強固な総構の城、城下に引き入れた用水・・・・・・。後の江戸で造られた城や神田上水・玉川上水の原型が、この時すでに小田原に存在していた。家康は、江戸の街を造る上で、この戦国時代で成功していた街・小田原を参考にしたに違いない。

 中央区そして築地の源流~小田原

〈小田原用水・日本最古の上水道〉

その頃はまだ未開の地だったと言われている江戸。ここに城や町を造るにあたり、小田原の人々も呼び寄せられた。日本橋の橋の北詰には「小田原町」が屹立。家康に石の加工技術をかわれた小田原の石切棟梁の善左衛門が、この小田原町を拝領する。


関東は石の産出場所が少なく、またローム層の土質が城の防御に向いているため、関東の城で石垣を使うことはそれまであまり無かった。

しかし江戸城建設で最新技術の石垣を組むにあたり、小田原から伊豆半島東岸においては良い石が産出されるため、石垣用に切り出されて江戸に運ばれることとなる。また、小田原市風祭などで採れた溶結凝灰岩は「水道石」と呼ばれ、神田上水や玉川上水で使われたのだそうだ。

 中央区そして築地の源流~小田原

〈石垣山の西側斜面にある江戸城の石丁場〉


日本橋の小田原町は、その運ばれてきた石の置き場として使われたり、江戸城や城下の街の建設で活躍する石工たちが居住していたと考えられている。また、日本橋の南詰にあった青物町や万町も、小田原の青物町・万町の町人が開いたとされており、江戸の初期の街は小田原の人々がたくさん活躍していた、ということになるのである。

その後小田原町は、1657年の明暦の大火の後の埋立てによって生まれた「築地」の地に移される。名前は南側に移ったので「南小田原町」という名になり、元の日本橋の小田原町は「本小田原町」という名になった。南小田原町ではこの頃すでに魚介類を扱っていたとも言われている。

 

現在の中央区で小田原の名残があるのは、築地6・7丁目の、昭和初期から1966(昭和41)年までの町名「小田原町」になるだろうか。とはいえ現在、その名前を明確に目にすることができるのは、小田原町交番と築地魚河岸小田原橋棟くらいしかない。

 中央区そして築地の源流~小田原

〈中央区・築地魚河岸の連絡通路より〉

築地魚河岸は、昔の川跡に建てられた建物なのだが、その小田原橋棟と海幸橋棟を繋ぐ連絡通路の下には、かつて橋が架かってた。その名は「小田原橋」。

川や橋の名残は、白い看板建築の店先にあるコンクリートや、少し盛り上がっている道くらいしかない。しかし、小田原橋の親柱のひとつが、なんと小田原城址公園の敷地の中にある郷土文化館に保存されていた。プレートの文字を読むことができるだろうか。「おだわらはし」と刻まれている。

 中央区そして築地の源流~小田原

数年前、小田原市が中央区から譲り受けた、ということらしい。

中央区から消えかかっている「小田原」という名前が、400年以上の年月を経て、その源流となる小田原の街に舞い戻ったということになるのだろうか。そう考えると、とても感慨深いものがある。

 

柳田国男氏が伝える築地の伝説

あの「遠野物語」や民俗学研究で有名な柳田国男氏は、昭和初期に書いた『日本の伝説』の中で、東京の伝説のひとつを紹介している。それは築地・稲葉家の中屋敷にあった「咳のおば様」の像。


稲葉家は、1632(寛永9)年から1685(貞享2)年まで、江戸初期の小田原藩主を3代務めた譜代大名。特に2代目の稲葉正則は春日局の孫だったこともあり、1657年の江戸の明暦の大火の後、老中の座に就き、その後も幕府の要職を歴任した。

時の権力者であった小田原の稲葉家は、明暦の大火の後の埋立てで出来た、今の築地市場跡地あたりの広大な屋敷地を拝領。そこには「江風山月楼」という有名な庭園も造られている。

中央区の築地という場所には、その創成期から南小田原町、稲葉家中屋敷があったということで、小田原とは強い繋がりがあったのである。

その後次第に、屋敷地は小さくなったのであるが、その屋敷地に、子どもの咳を治す「咳の婆さん」の像があったというのである。


今、その像は隅田川の桜橋東岸、墨田区向島の「弘福寺」に移されていて、そこで病魔退散を祈願することができる。

 中央区そして築地の源流~小田原

しかし実際に弘福寺に行ってその像の言い伝えを確認したり、ネットで調べてみたりすると、たくさん出てきてしまってあやふやな状況。それぞれ「日本の伝説」の記述と違っており、伝説がまた新たな伝説を産みだしているような感じで、もはや、何が正しいのか分からない。


柳田国男氏の話をベースに、いくつかの話を勝手に「中央区寄り」で総合してみると、以下の流れがしっくりとする。

◆稲葉家が小田原藩主だった江戸初期に、かつてより小田原の街にあった道祖神のような男女の一対の石が小田原城内へ安置された。しかし稲葉家の越後高田藩への転封の際、小田原を去るにあたり、築地の稲葉家の中屋敷に移された。

◆百日咳などで難儀する子どもの親が、この築地の屋敷の門番に頼み、この石に拝みに入るようになった。

◆いつしか、婆さん像と爺さん像の二つ揃いのきちんと彫刻された石の像になった。咳を治すのは子供を守る女性の姥神の方、ということで婆さん像の方だけが大切にされるようになり、爺さん像は離されていたが、願掛けの時には、必ず豆やあられ餅の炒り物とお茶を両方の石の像に供えた。

◆明治維新で築地の屋敷地が無くなったので、稲葉正則開基の黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺・弘福寺へと移された。


築地という場所は、その後海軍の地として使われたり、市場として使われたりしたのだが、江戸時代の武家屋敷だった頃のこのお話は、伝説として今も存在しているのではないだろうか。

 

築地の街を歩いてみた。かつて、築地の稲葉家の中屋敷があったあたり。新大橋通り市場橋の交差点の橋詰広場には、道祖神のような像があって、行き交う人々を静かに見守っている。

 中央区そして築地の源流~小田原

よく見ると、軍配を持ち、丸いお腹と大きな耳たぶ。両肩にそれぞれ子供を乗せている。唐子だろうか。大きな袋を持っているかは分からないが、姿かたちは布袋様のようだ。

布袋様・・・。

稲葉正則開基の弘福寺の「黄檗宗」は、布袋様を篤く信仰しているお寺が多く、さらに弘福寺は江戸時代から続く「隅田川七福神」のひとつとして、布袋像を祀っている。

布袋様は、小田原の稲葉家にゆかりのある神様なのである。

柳田国男氏は先程の『日本の伝説』のなかで、こう言っている。

『伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。』


昔話は、どの場所に行っても同じ話を聞くことができるが、伝説というものは、各地同じような話でも対象を変え、形を変え、その土地の伝説として根付いていく。

 中央区そして築地の源流~小田原

「咳の婆様」の石は全国各地にあって、昔はもっとたくさんあったのだという。今の中央区築地の街には、昔からの小田原稲葉家の「咳の婆様」の伝説が根付いていて、この布袋様はもしかしたら・・・

築地の土地が生まれた頃から続いている小田原の伝説、そのものなのかもしれない。

 

〈参考にした本・情報〉
★『戦国の城』小和田哲男・学研新書/2007
★『戦国・江戸時代を支えた石・小田原の石切と生産遺跡』佐々木健策・新泉社/2019
★『シリーズ藩物語・小田原藩』下重清・現代書館/2018
★『ブラタモリ5・札幌小樽日光熱海小田原』角川書店/2016
★『中央区沿革図集京橋篇・日本橋篇』中央区立京橋図書館/1996
★小田原市HP・小田原橋解説シート
★小田原市にあった解説板
 ・石垣山城(一夜城)
 ・早川石丁場群関白沢支群
 ・小田原用水
★『日本の伝説』柳田国男・青空文庫
★『頼れる神様大事典』戸部民夫・PHP研究所/2006
黄檗宗・弘福寺ホームページ
★特派員yazさんの記事
★特派員銀造さんの記事

取材日:
  小田原   2022/05/04
  築地・向島 2022/05/06