阿舒庵亭主

築地居留地

アメリカとの外交関係は1854年の日米修好条約により始まりました。1856年には下田に領事館が開かれタウンゼント・ハリスが領事として着任しました。1859年には領事館は横浜関内の居留地に移り、同時に麻布に公使館が開かれました。1863年に公使館の建物が火災にあい関内に移動しました。1874年から1890年まで公使館は築地の居留地に移りました。その後、赤坂に移り1906年に大使館となりました。

 築地居留地

築地には1869年から1899年まで居留地がありました。日本の居留地は中国の租界とは違って、完全な「治外法権」ではなかったようですが領事裁判権が認められていて実質的には「日本国内の外国」だったようです。広さは10ヘクタール(約3万坪)でしたからゴルフの6ホールくらいが出来る広さであったと思われます。ここには最大9カ国、約300人の。外国人が住んでいました。

アメリカ公使館は現在の聖路加国際病院の敷地にありました。公使館以外には多くのキリスト教伝道館があり、それが私塾的に語学や洋学を教えていました。現在東京近郊にある多くの有名大学や学校が、ここで始まりました。今回、一時間かけて、その記念碑を巡ってみました。

築地カトリック教会のある「居留地中央通り」には、雙葉学園(カトリック)、関東学院(バプティスト)、暁星学園(カトリック)があります。更に進むと立教女学院(プロテスタント)、立教学院(プロテスタント)、女子学院(プロテスタント)の碑があります。聖路加タワーの前の通りには女子聖学院(プロテスタント/ディサイプル派)と青山学院(メソジスト)の碑があります。少し離れて明治学院(プロテスタント)の碑があります。

 築地居留地
 築地居留地
 築地居留地
 築地居留地
 築地居留地
 築地居留地
 築地居留地
 築地居留地
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これ以外にも、慶應義塾の碑が聖路加病院旧館の前にありますが、これは居留地以前1858年に始まった塾です。同じ場所に「蘭学事始め」の碑があります。ここには中津藩の中屋敷があり「ターヘルアナトミア」の翻訳がなされ1774年に翻訳本が刊行されています。

 築地居留地

築地居留地は幕末から明治にかけての日本の学問の中心地でした。一つ一つの大学や学校の歴史を詳しく見ると、身内や知り合いがここから生まれた学校で学んだことに気付くことが多いと思います。