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◆ 信玄公から家康公へ

[隅田の花火] 2017年5月19日 09:00

日本橋の三越前駅のすぐ近くにある「貨幣博物館」。先日、初めて行って参りました。日本銀行本店の隣にあるビルにあって、無料で見学することができます。

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今の日本銀行本店の建物がある場所は、かつて江戸時代に「金座」という、金の貨幣を作る施設があった場所です。

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また、今の中央区「銀座」の名前は江戸時代に銀貨を作る「銀座役所」があったことに由来します。中央区には、こういった江戸時代の貨幣のゆかりの場所があります。

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(銀座中央通り・銀座2丁目)

 

貨幣博物館に行ってみようと思った理由というのが、4月の山梨県に花見に行った際に下部温泉の「湯之奥金山博物館」に立ち寄り、戦国時代の頃に甲斐の国で流通した「甲州金」という貨幣を知って、興味をもったからです。

 

確か、バブルの頃にやっていた大河ドラマ「武田信玄」を見て以来、何かと信玄公や山梨県が好きな私。「甲州金」については少し難しかったのですが、せっかくなのでまとめてみることにしました。

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(下部温泉にある湯之奥金山博物館あたり) 

 

 

どちらの博物館に行ってみてもわかるのですが、江戸時代の貨幣制度の歴史のはじめには、まず、その前の戦国時代に始まったとされる『甲州金』の説明が出てきます。

 

今の山梨県、当時の甲斐の国は信玄公でおなじみの武田家の領国でしたが、技術の進歩で金がたくさん取れるようになっていた時代で、当初は碁石金というような、領国内で通用する金の粒々の塊の甲州金が作られていました。

 

取引の際に金の重さを重要視していた戦国時代。それは『秤量貨幣』と分類される貨幣でしたが、重さががまちまちだったため、その都度重さを量る必要がありました。

 

 

そこで、重さを量らなくても良いように重さが統一された貨幣に甲州金は変化していきます。それは「1両金・1分金・1朱金・糸目金」といったような貨幣。

 

 1両金(15g)×1枚

=1分金(3.75g)×4枚

=1朱金(0.9375g)×16枚

=糸目金(0.234g)×64枚

(参考資料:湯之奥金山博物館展示解説シート「甲州金」)

と、

金銭の単位を『1両=4分=16朱=64糸目』の4進法としたことにより、枚数を数えるだけでその価値がわかり、また貨幣同士の交換ができるようになりました。

 

これは、価値が重さで決まる「秤量貨幣」の側面があるものの、貨幣の表面に額面が表示された斬新的な金貨で、『計数貨幣』に分類されるものです。

 

 

また、戦国時代は金の「重さ」が重要視されたということですので、糸目金のような小さい貨幣を作る際にも、その重さを量る精密な秤(はかり)が必要でした。

そこで武田家は、秤を製造販売する独占権を「守随家」に与え、精密な秤を作らせました。こうして甲斐の国では秤の技術も進歩していきます。

 

 

 
その後、天下人・徳川家康公の江戸幕府の時代となり、全国の統一的な貨幣制度を整備することになります。

金に関しては甲州金の4進法の単位を採用、『1両=4分=16朱』の貨幣制度としました。銀に関しては「秤量貨幣」の制度が残ったのですが、金については優れた甲州金の「計数貨幣」の考え方が取り入れられたわけです。

 

 

また秤に関しては、徳川家は守随家を擁護し、江戸幕府の「江戸秤座」を守随家に任せました。東国33国の共通の規格の秤としてこの甲斐の優れた秤の技術が採用されたのです。

 

その秤座があったとされる場所は、中央区にあり、今はビルの合間にひっそりと石碑が建っています。

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(日本橋3丁目7・日本橋髙島屋から少し京橋寄り)

 

 

こういったように徳川政権には、武田家の内政の優れた部分が引き継がれているところがあります。

 

甲斐の武田家というと、風林火山の旗印や、騎馬隊・赤備えの鎧の部隊など、精鋭武士軍団のイメージがあります。しかしこの甲州金の制度や、洪水対策で造った信玄堤などからもわかるように、国を治める上で優れた政治を行った領主だったようです。

 

大河ドラマ「武田信玄」では、ドラマ終盤で、信玄公が家康公を追い詰めて打ち破った「三方ヶ原の戦い」のシーンが描かれました。ですが一番印象的だったのは、家康公が戦いに敗れたあと、自らの失敗を反省し変わろうとしたことを、このドラマが紹介していたことです。

 

時は過ぎ、武田家は織田信長公に滅ぼされ、そして本能寺の変の後に、甲斐の国は家康公が治めるところとなりました。戦いに敗れたことのある思い出したくもない相手だったと思いますが、家康公は武田家の旧臣を尊敬の念をもって招き入れ、その武田家のやり方を参考にしたといいます。

 

過去にとらわれず、あえて相手の優れたところを前向きに吸収しようとした家康公。そういうところが、家康公から学ぶべきところ、見習うべきところのひとつだと感じています。

 

 

 
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