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2016年10月31日 12:00
まるごとミュージアムも明日に迫ったものの、最近忙しかったこともあり、準備ができていなかった。今年はバスガイド・ボランティアも2回目なので何とかなるとは思ったが、昨年は右まわりコースであったのが、今年は左まわりコースに変更になっていたので、一夜漬けながら、午後からコースを自転車でまわった(10月29日記)。
まずは、築地社会教育会館、
築地から晴海へ向かうが、今日は土曜日であり、場外もかなりの人出であった(13時過ぎ)。
晴海通りを進み勝どき橋(「ものしり百科」72頁)を渡るが、手前右手にあるのが「勝どき 橋の資料館」(「ものしり百科」71頁)
勝どき橋上から、築地市場を臨む。移転はどうなるのか? 左方に新しくできた「築地大橋」が見える。
そのまま晴海通りを進み、黎明橋を渡る。橋上から見たトリトンスクエア。
黎明橋から更に晴海通りを進むと、東西に延びる広い道路と交差するが、この先は「有明通り」となり、東西に延びる道路が晴海通りと呼ばれる。
「有明通り」の先には、「晴海大橋」がある。
交差点を右折して「晴海通り」を進むと、右手には「日本万国博覧会事務局棟跡」(「ものしり百科」112頁)の表示版もある。
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2016年10月25日 16:00
「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、『ものしり百科』(平成28年発行79頁)でも引用されている。この『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店;昭和33年発行)。
>金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・
これを最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、少し不思議な思いがした。このあたりの事情については、永井荷風が「井戸の水」(明治9年10月)という随筆を書いており、これを読むとその背景をよく理解できる。
>水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。
江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)(17-32)
これを読むと、明治の初め頃では、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということも分かる。