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『竜馬がゆく』

[CAM] 2018年11月25日 12:00

 ひさしぶりに、司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を読み返しました。随分以前に初めて手に取ったときはまだ中央区の住民ではありませんでしたが、中央区に16年余住んだ現在になると、文中に述べられている地名などに馴染みが出ていることから、あらためての感興を覚えながら読むことができました。

 竜馬は、当初江戸に出てきた際は、土佐藩鍜治橋藩邸で起居し、その後「土佐藩築地藩邸」に移ったようです。『竜馬がゆく』では、「竜馬は、鍜治橋の藩邸から築地の藩邸に移されていた。竜馬だけでなく、わかい藩士のほとんどが、築地、品川の二つの下屋敷に移されたのである。これは黒船の江戸湾侵入に備えての土佐藩の防備態勢のひとつで、この二つの海沿いの屋敷に人数を常駐させる一方、幕府の許可をえて品川に台場を築きつつあった。」と述べられています(文春文庫一巻;169頁)。この土佐藩築地藩邸は、現在の中央区役所そばですね(『ものしり百科』;69頁)。

 

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 竜馬は、当初は土佐藩鍜治橋藩邸長屋から桶町(中央区八重洲2丁目8番先)の千葉定吉道場へ通うことになります。この経緯について、『竜馬がゆく』では、「『寄らば大樹のかげ、と申す。やはり、大成するためには、大流儀を学ぶがよろしかろう。それには北辰一刀流がよろしい』『ああ、千葉周作先生であられまするな』 ・・・・・。千葉の玄武館は、京橋アサリ河岸の桃井春蔵、麹町の斎藤弥九郎とならんで江戸の三大道場といわれ、天下の剣を三分していた。『・・・・周作先生に学ぶのがいちばんよろしいが、先生はすでに老境であられるゆえ、京橋桶町に道場をもつ令弟の貞吉先生につかれるとよい。貞吉先生の道場は、お玉ケ池の大千葉に対し、小千葉とよばれています』」と述べられています(文春文庫一巻;18頁)。

 

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 幕末の剣客松崎浪四郎は三大道場の特徴を、「技の千葉(玄武館)、品格の桃井(士学館)、力の斎藤(練兵館)」と表現しています。斎藤弥九郎は神道無念流です。

 

当初、土佐藩鍜治橋藩邸長屋で相住いとなった武市半平太は、「アサリ河岸の桃井春蔵先生の塾頭で、鏡心明智流では江戸で三本の指に入るという達人」(文春文庫一巻;83頁)でした。

 この「蜊河岸」については、『ものしり百科』が、「その跡地に説明板がある」と述べています(42頁)が、正確な位置は少し離れているようです。説明板は、旧京橋小学校(1992年廃校)跡で現京橋プラザ(1999年7月開設)のそば、京橋公園内に設置されています。

 

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 その後、竜馬が通った軍艦操練所跡には説明板が設置されています(『ものしり百科』;73頁)。『竜馬がゆく』では、「築地本願寺から橋を一つ、東へ渡ると、南小田原町である。もう海のにおいがする。さらに東へゆくと、かつて芸州藩の下屋敷のあったところ、ごく最近まで幕府の講武所がおかれていた一角があり、その向こうは海である。そこに、安政四年以来、幕府の軍艦操練所がおかれている。」(文春文庫三巻;175頁)と述べられています。

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