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「江戸っこ」 再考   

[CAM] 2019年1月30日 14:00

「にゃんボク」氏の「江戸っ子とは」という投稿を読んだら、最後に

>なお CAMさんの「江戸っ子とは」にも詳しい記述があります。

 /archive/2017/09/post-4591.html

  

 と、小生の随分前の投稿に言及していただいており、ありがとうございます。

 

 私は、以前の投稿を、次のように結びました。

 

>関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

 

 現在でこそ、東京一極集中が進み、大阪も「地方のトップ」と言われるまでに衰退しています。しかし、明治になって首都を江戸(東京)とした理由のうち、大きなものが、「大阪は首都でなくても繁栄を維持していけるだろうが、江戸は首都でなくなれば寂れてしまう」ということがあったことを思うと、今昔の念に堪えなくなります。

 

 先日の毎日新聞の「余禄」でしたか、テニスの「大坂時代の到来」を告げる導入部の記述として、「奈良時代、鎌倉時代、江戸時代のように政権の所在地を時代の名にするならば、豊臣秀吉が大坂城で政務をとった時代は『大坂時代』にすべき」と書いていました。歴史区分の「安土桃山時代」というような表現は明らかに不当ですよね。少なくとも「安土大坂時代」というべきだと思います。これも東京の歴史学会の陰謀だったとも考えられます。

 

 府県制を作った際も、「摂津」地方を分割して一部を兵庫県に繰り入れたのは、大阪府が強大になりすぎることを東京政府が恐れたからだとも言われています。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読むと、幕末の頃の神戸などはまだまだ都市化には至っていない状態であったことが分かります。

 

 私は、「原江戸」と言うべき現中央区の域内を歩いて、日本橋、新川などに、大阪、関西が強大であった時代の名残を見いだしたことが、中央区の歴史を研究したいと思うに至った端緒となりました。

 

 

第10回観光検定試験問題・問52

[CAM] 2019年1月20日 12:00

ひさしぶりに観光検定を受けようかと、『ものしり百科』の最新版を購入し、綴込みの第10回観光検定試験問題をながめると、問.52 は「中央区役所別館横には、江戸時代末期、築地一・二丁目近辺に土佐藩の藩邸があったことを示す説明版があります。幕末の志士・坂本龍馬は、この藩邸に寝泊まりしながら、ある剣術家の道場に通ったといわれます。この剣術家は次のうち誰でしょう。」です。

 

 たしかに、『ものしり百科』の69頁には「幕末の志士・坂本龍馬は、この藩邸に寄宿しながら千葉定吉の道場に通っていたといわれる。」と述べられていますから、この部分を正確に記憶していれば、容易に正答を出せるわけですが、ここまで細かく読み込むのは、少し難しいでしょうね。とは言え、あまり容易な問題ばかりでは高得点者続出になってしまうし、出題者も、なかなか工夫していることが感じとれます。

 このことについては、昨年11月25日に、私が投稿している通り、『竜馬がゆく』を読んで居れば、極めて容易に正答が導き出されます。

/archive/2018/11/post-5839.html

 

 もう一度、『竜馬がゆく』の該当部分を引用します(司馬遼太郎氏は「千葉貞吉」と表記しています)。

 「竜馬は、鍜治橋の藩邸から築地の藩邸に移されていた。竜馬だけでなく、わかい藩士のほとんどが、築地、品川の二つの下屋敷に移されたのである。これは黒船の江戸湾侵入に備えての土佐藩の防備態勢のひとつで、この二つの海沿いの屋敷に人数を常駐させる一方、幕府の許可をえて品川に台場を築きつつあった。」(文春文庫一巻;169頁)

 「『寄らば大樹のかげ、と申す。やはり、大成するためには、大流儀を学ぶがよろしかろう。それには北辰一刀流がよろしい』『ああ、千葉周作先生であられまするな』 ・・・・・。千葉の玄武館は、京橋アサリ河岸の桃井春蔵、麹町の斎藤弥九郎とならんで江戸の三大道場といわれ、天下の剣を三分していた。『・・・・周作先生に学ぶのがいちばんよろしいが、先生はすでに老境であられるゆえ、京橋桶町に道場をもつ令弟の貞吉先生につかれるとよい。貞吉先生の道場は、お玉ケ池の大千葉に対し、小千葉とよばれています』」(文春文庫一巻;18頁)

 

 
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