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楓川・築地川連絡運河跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2019年3月10日 18:00

楓川・築地川が埋め立てられ首都高速になったことは誰もが知っていると思いますが、昭和5年に震災後の帝都復興事業として、楓川と築地川の間に新たに運河が開削され、その30年後の昭和35に埋め立てられ高速道路に生まれ変わったことを知らなかった人も多いと思います。実は私も中央区観光協会の特派員になるまでは、知りませんでした。

今回は、その楓川・築地川連絡跡を歩いてみようという企画です。

現在の銀座一丁目と新富町二丁目の間の運河であり、この運河により日本橋と築地が水路で結ばれたことになります。新金橋、新富橋、三吉橋が架橋されていました。

スタートは楓川の弾正橋付近から南下して、三吉橋を目指すコースとしました。

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左の写真は弾正橋から下流をつまり新金橋方面を撮ったの写真です。楓川跡右岸を新金橋を目指します。

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われ等が聖地、京橋プラザが見えてきました。中央区観光協会事務局は当ビル三階です。京橋プラザの植え込みには木挽町の由来についての説明板があります。案内板の植え込みの囲いの石は地中より掘り出された石を利用しているそうです。

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また、この京橋公園の中には蜊河岸の説明板もあります。この二枚の説明文には楓川より先がカーブして三十間堀へと続いています。江戸時代についての案内板なので間違いはないのですが、昭和5年に三つ橋の先に開削され築地川に分流した運河跡を歩いてみようというのが今回の企画です。それから公園内は白いプラカード等でいっぱいになっていました。何かな~?と思い近づくと、それは明日の東京マラソン用のプラカードどでした。そうかと自分でも合点がいきました。

それでは、白金橋を目指して進みましょう。するともう一枚の案内板を発見しました。

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三つ橋跡の説明文です。

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新金橋に到着しました。新金橋は首都高の京橋入口があります。右の写真は新金橋から新富橋方面を撮影しています。橋名は新富町と金六町を結ぶため新金橋とつけられたそうです。左岸上流部分に小さいながらも児童遊園、そして交差点に新金橋の名前が残されていました。

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それでは新金橋を後に、楓川・築地川連絡運河跡左岸を新富橋方面へ進みます。

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楓川・築地川運河跡の左岸に小さな祠がありました。名前をチェックすると「新富復興稲荷神社」でした。この付近も以前に何回か通ったことがあったのでこの神社の存在は知っていたのですが・・・

復興という言葉から震災あとの創建らしく、以前は数メーター離れた場所に鳥居もありもっと大きな神社だったらしいことぐらいしかわかりませんでした。また、神社の祠の裏手には五重の石塔が建ってました。ここも神社のの敷地内なのでしょうか?相輪部分が折れていたのも、少し気になります。

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そこは新富橋です。新富橋の名前が公園・交差点に残ってました。

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右の写真に写っている日本家屋どっかで見たなと思いましたら、国登録有形文化財の「大野屋總本店店舗」でした。大正時代の町屋建築とのことです。

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右の写真は新富橋より三吉橋を撮影したものです。

新富橋より楓川・築地川連絡運河右岸を三吉橋方面へと進みます。

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そこには、東京都選定歴史的建造物に認定されている「鈴木ビル」がありました。確かに馬蹄型や丸型の窓などバラエティに富んでいるなーと感じました。

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今回の街歩きの終点三吉橋に到着です。三吉橋の後ろにそびえる茶色の建物は中央区役所です。右の写真は三吉橋より新富橋方面を写してます。

そして右岸上流部分に三吉橋の説明板があります。説明板の中には、三島由紀夫の「橋づくし」の一遍が引用されています。私はこの小説を読んだことはないのですが、この三吉橋が三又橋になっている部分がポイントとなるそうです。

私、個人的にはこの三吉橋はもっと注目されてもいいような気がします。

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中央区では平成4‣5年に改修工事を行い照明器具に架設当時の鈴蘭燈などを取り入れています。右の写真には「昭和四年十二月復興局建〇」の文字が確認できます。

今回の街歩きの前から、なぜこの運河は開削したのにたった30年で再び埋め戻さなければならなかったのか?が不思議に思ってました。自分なりに調べてみたのですが、関東大震災後の「帝都復興事業」により東京も新しくなりました。道路、橋梁、河川などその大部分が現在でも活用されています。しかし戦後の復興及び東京オリンピック開催のための高速道路建築等ににより再び計画が変更となった事項もあるということです。

今回の楓川・築地川連絡運河は震災後の帝都復興事業として新しく開削された運河であり、震災後築地に移設した中央卸売市場からの物流などに大いに活躍していました。しかし戦後の自動車化を止めることはできなったということでしょうか?

 

参考文献:川の地図辞典(江戸・東京23区編)菅原健二著

     「郷土室だより」152号 156号 中央区立 京橋図書館 編集・発行

 

 
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